37 私とブローチ (キャロライン視点)
「そこのとてもお美しいお嬢様…」
下町にある家までの帰宅途中。
私はそんな声を耳にして、立ち止まった。
学園にはお貴族様ばかりがいて、そのどれもが男女問わずに綺麗だ。私のように天然で綺麗な子は少ないけど、さすがに高位貴族令嬢ほど腕のいいメイドのおかげで見栄えがいい。
ここ何日か、この国の第二王子アル様狙いでアピールしたけど、どうもうまくいかなくて私の苛立ちは募るばかり。
だから下町の路地が入り組む怪しい場所で、いかにもな妖しい言葉を投げ掛けてきたのに反応してしまった。
こんなの、普段だったら絶対に無視するのに。
私の魅力に自信がなくなってたのかもしれない。
スペンサー侯爵令息のウィル様を虜にしたと思っていたのに、ウィル様の態度も冷たい。
秘かに狙っていたモーティマー侯爵令息のダグラス様は同じクラスのバーナー伯爵令嬢にべったりだ。
あんな大して可愛くもない家柄だけの女くせに。
「なによ、私のこと?」
自慢のストロベリーブロンドをかきあげて声を掛けてきた男を見て、喉の奥でひっ!と悲鳴が湧いた。長いローブを着て目深に被ったフードで口元以外すべてが覆われた男が立っていた。
お美しいお嬢様なんて口説き文句に足を止めた自分が憎い。この男から漂うのは危険な香り。
下町で育った私の危険予知能力が盛大に警報を鳴らしていた。
「これほどのお美しい方が他にありましょうか!貴女のことでございますよ」
「なによ、なんの用?早く帰らないと怒られるんだけど」
嘘じゃない。
もう鹿の角亭のディナータイムは始まっている。店の手伝いは私にとっても楽しみなチヤホヤタイムなんだから邪魔はしてほしくない。
「いえ、是非とも貴女をより魅力的にするアクセサリーを差し上げたくて」
「いくらなのよ?高いのは無理よ、ご覧の通りお金持ちの子じゃないもの」
「わたくしは差し上げる、とお伝えしましたよ?」
そしてローブの袂からひとつのブローチを取り出して、掌の上にのせた。それをすすっと私の前に差し出す。
「差し上げる、てくれるってこと?タダで?」
「左様でございます、さすがは賢くあらせられる」
「なんで?」
どんな下心があればでっかい高そうな宝石が付いたブローチをタダであげるっていうのよ。
だから私はそれが喉からでが出るほど欲しくても、受けとる気なんか微塵もなかった。
「そうですね、こんなに綺麗な方なのに貴女の魅力が通じない、上であればあるほどに。そんな健気に努力する貴女に報いがあってもいいと思ったから、でしょうか」
なに、こいつ…
学園内のことが見えてるの?
もしかして生徒の誰かなの?
「どういうことよ?」
「これを着ければ貴女の魅力はいや増します。きっとどんな男性も貴女以外が見えなくなるでしょう。わたくしはそんな輝く貴女が見たいのです。お試しでいい、これを着けて誰でもいいから誰かの前に出てご覧なさい。貴女は別世界を見ることになりますよ?」
「そんなことしなくったって、私はいつだって優しくされてるわ」
「ええ、そうでしょうね、その程度の男なら…」
「………!」
図星だ。
瞬時に私は怒りと羞恥で顔が赤くなるのがわかった。私は男の掌からブローチを奪うように手にすると、乱暴な仕草で胸元にブローチを着けた。
挑戦的にふくよかな膨らみをみせる胸を前に付き出す。
「ほら、これで私はモテモテなわけね!」
男の薄い唇が真横にぱっかりと三日月型に開いた。
「その通りでございます」
じとりと男を睨んでから、私は一歩後ろに下がる。
「本当に、なにも、要求、しないわよね?」
「ございません。願わくは貴女が高位貴族様を次々と誑かしてくだされば面白いとは思いますが」
高位貴族を、誑かす?
なに、それ、愉しそうじゃない。
「返さないわよ?」
「もちろん、差し上げたものですから」
「なら、これで…」
「ええ、失礼致しますよ」
男がローブの裾をバサバサと翻して踵を返した途端、その姿は闇に溶けた。
「え…?」
先程まで人の気配もなかった路地が呑みに来た人々で溢れている。戸惑いを隠せないまま、私は家路に向かう足を早めた。
その夜は大変だった。
チヤホヤされるのはいつものことだったけど、その夜はそれ以上だった。お金を詰まれ、嫁にほしいと請われたり、すぐにでも一緒に住みたいと連れ去られそうになったりもした。店を閉めたあとも私を求める男たちが行列を作っていて、近所からの通報で騎士団が派遣される騒ぎにもなった。
私は無造作に着けたブローチを丁寧に外して、何度も何度も月に翳して見つめていた。
「すごいわ、これ…」
私はもう二度とこれを外さない、と自分に誓った。
ブローチを着けたその日、私は導かれるようにして噴水で頭のおかしくなった女のように無邪気に水遊びをした。照りつける強い陽射しに反して冷たい水が心地よく、半ば本気で楽しんでいたときに通りがかったウィル様と目が合った瞬間からから彼の態度に熱が孕んだのがわかった。視線が絡むまではいつもと変わらない冷淡な対応だったのに…
ウィル様の熱い瞳が揺れたんだ。
とろりと私を絡めるような甘美な眼差しに私のほうがくらりとしてしまう。
なんて綺麗な男なんだろう。
ぼぅっとしていた私の手を取り、ウィル様が甲に唇を触れさせた。
「あぁ、キャロライン嬢、なんと美しい。私はなぜ貴女の美しさに気付かなかったのだろう。しかし知ってしまえば私は貴女を手離すなんて考えられない。是非、私に貴女と過ごす幸せな昼食時間を与えてくださいませんか?」
衝撃だった。
貴族様ってこんな口説き文句なの?
なんて素敵なんだろう…
「喜んで!」
私は差し出されたウィル様の腕に手を添えて、まるでお姫様のようにエスコートされて食堂に向かった。
夢のような瞬間だった。
ほら、見なさいよ!
あんたたちの憧れウィル様を虜にしてやったわ!
嫉妬混じりの視線による優越感に包まれながら、私はそっとブローチに触れた。
この日を境に私の周囲は高位貴族令息様で溢れることになった。誰もが私を求めて高価なプレゼントを雨霰と降るようにくれた。
なかでも断トツのプレゼントをくれるのはさすがは侯爵令息ウィル様だった。
私は味わったことのない世界に飛び込んで、そこで蝶のように自由に舞った。ドレスも宝石も手にして、どこの貴族令嬢にも負けない高貴な女になった。
もう気後れなんかしない。
私こそが王妃に相応しい。
だから私はアル様を狙う。
そのためならなんだってする。
まずは婚約者だとデカい顔をしているダリアライトを叩き落としてやる。
あんな鉄面皮、アル様には似合わないもの。
私が彼の横に並び立つほうがずっとアル様は幸せだわ。
そのためにまずはどうしてやろうか。
私は自分の教科書に眼を落として、不敵に微笑む。