32 ブローチの持ち主
空咳ひとつすると、アルセール殿下は徐に立ち上がって、転げ落ちたばかりのソファに何事もなかった様子で座り直した。
笑うべきなのか、見過ごすべきなのか、悩んでいた私は気まずげにメガネを直した殿下がなかったことにしたいのだと推察して、ひたすら無言を貫いた。
漸く衝撃から持ち直したらしい殿下が私に確認も込めて問い掛けてきた。
「ウィルがキャロライン嬢に?」
「はい、もう魅了されていると…」
「それが、本当ならば、かなり厄介な、ことだぞ」
私の言葉にアルセール殿下は不安そうに下唇を噛んだ。それはそうだろう、とは思うが、私はそれしか考えられなかった。
ダリアライト様のあらぬ噂が下町から出ているのなら、なおのことキャロラインが捜査線上にまず一番に上がってくる。
必死に記憶に眠るブローチの情報を脳内をこね繰り回して探し出す。
「殿下は気付きませんでしたか?キャロラインさんのどこかに黒曜石のような魔石が使われた華やかなブローチが着いていませんでしたか?」
ゴールドの台座にはめ込まれた鈍く輝く闇を纏う魔石のブローチ。細工はほとんどなく、清々しいほどに質素なデザインだったが、石の持つ力のおかげが、どんな宝飾品よりも華やかな雰囲気を放つものだった。
万結はダリアライト様がそれを手にしたとき、禍々しさに腰が折れそう、と嘆いていた。
昼に纏わり付かれていた殿下だったが、どうやら彼女のことは視界にも入ってなかったらしく、首を捻るばかり。
ダリアライト様以外が眼に入らないから魅了の魔法にも掛からないんだ、と酷く腑に落ちた。
「ダリアに聞こうか…」
ぽつりと殿下が呟いて、私は思考の渦から浮上した。
「ダリアライト様に?」
「あぁ、彼女もサロンでキャロラインと会っている。非常に不愉快な時間だったろうに、顔色ひとつ変えずに対応していて、王妃の器だとつくづく感嘆したよ」
はい、惚気。ごちそうさまです!
おそらく淑女としてキャロラインの態度は不快に思っただろうが、アルセール殿下に対して嫉妬するということはないはずだから、さぞかし見事な氷の微笑を浮かべていただろうと想像して、私はうっとりと陶酔した。
「パトリシア」
隣からダグラス様の渋い声が降ってきた。
声に誘われて彼を見上げれば、鋭い鷹の目に可哀相な子を見る残念な色を宿して私を見ていた。
「ローズウッド様を慕っているのはわかるが、顔に締まりがなさすぎる」
ぼそりと苦言を呈されて、ボボッと顔から火を噴いた。両手でむにむに弛んだ頬をマッサージする。
それにしてもなんで私の考えていることがわかるのだろう?ダグラス様って実はそんな面倒な能力でもあるのかしら?
首を傾げて不思議がっていると、
「心が読めるわけではない。パトリシアの顔がわかりやすいだけだ」
と、またもや指摘されてしまった。
もう恥ずかしくてダグラス様に向ける顔がなくなりそうだ、と私は俯いた。
「リチャード、悪いがダリアをここに呼んでくれ」
壁際に控えていた、というか先程のダグラス様の激怒の行動に恐れをなしただけかもしれないが、とにかく壁のシミになりきっていたコルソン様が殿下の命に従って驚くばかりの早さでダリアライト様を迎えに出ていった。
「もしこれでキャロラインが魅了の魔法を使っていたらどうするつもりだ?」
殿下の質問に私は指を顎に当てて考え俯く。
「ブローチを取り返して池に戻します」
「戻す?壊す、ではなく?」
「池の女神様の持ち物を勝手に壊すわけにもいかないですし、サーシャに取り戻すと約束しました」
それに池に戻せば魅了の魔法は泡となって解ける。少なくともゲームでは池の女神が魔法を解呪していた。
「そうか…」
問題はどう取り返すのか、だ。
魅了によって彼女を慕う相手が増えれば増えるほど困難になるだろう。一番いいのは…
私はちらりと眼前に座る殿下を窺い見た。
考え付いた作戦が不敬でないか、僅かに迷う。
それなら自分で言い出して貰おう作戦だ!
「殿下は巷の噂はご存じですか?」
「噂?」
「はい、ダリアライト様がアルセール殿下の寵愛がキャロラインさんに向かったことで嫉妬してキャロラインさんに嫌がらせを繰り返している、と。最近では亡きものにしようと画策しているというものです」
途端に殿下の顔が蕩けた。
「それは、知らなかった、な」
今の話で表情筋が弛む箇所がわからないのだけど、と半ば呆れる。
「確かにキャロラインさんの教科書がボロボロにされたり、燃やされたりしているようです。机のなかに生ゴミとか、靴に針とか、なんだか、とても…」
「ダリアのすることではないな!」
その通り!
あまりにも幼稚すぎる。
もっと彼女なら…
「ダリアならもっと正当な技を使うだろう。嫌がらせではなく、いかに自分が私に相応しいのかを示して、真っ正面から私の愛をもぎ取りにくるはずだ」
その通り…
ちょっとなんだかイラッとするけれど、殿下のいう通りだと思う。ダリアライト様なら隠れてなんかいない。正々堂々胸を張ってアルセール殿下の心を取り戻すだろう。
「そうですね、それ以前にダリアライト様は殿下にヤキモチ妬かないですから、嫌がらせするわけもないんですよね」
思わず本音がぽろりと漏れた。
ショックだったのか、殿下はがくんと項垂れてしまった。どう慰めようか、困っていたとき、抜群のタイミングでダリアライト様が軽やかなノック後に入室してきた。
「ダリア!」
情けなくも眉を八の字にして勢いよく顔を上げた殿下には見向きもせずにダリアライト様は私を真っ先に見つけてふわりと頬を緩めた。
「まぁ!パトリシア様はこちらにいらしたのね、授業をお休みすると伺って心配しておりましたの」
私は立ち上がって軽く腰を折ると、ダリアライト様の気持ちが嬉しくてふわふわと微笑んだ。
「ご心配お掛けしてごめんなさい、少し妖精さんから頼まれものをしてしまって…」
「そうだったのね、仕方ありませんわ。国教を信仰するものにとって妖精は最優先事項ですものね」
「ダリア…?ダリア…私もいるんだけど…」
アルセール殿下のか細い声掛けにダリアライト様はいつもの氷の微笑にすっと戻ると、殿下に向かって膝を折って礼をした。
「お呼びと伺いましたが、ご用のほどはなんでございましょうか?」
「他人行儀すぎるよ、ダリア?」
悄然と肩を下げて落ち込む殿下は分厚いレンズに阻まれてわからないが、きっと泣いてるに違いない、と私は気の毒になった。
「ダリアライト様、お伺いしたいことがあるのです」
私が問えば、彼女は温かな眼差しを私に注いで私の横に優雅に座って手を取った。そして曇りのない光放つ麗しい瞳をじっと私に固定して、
「なんなりと仰って」
と微笑んだ。
3人掛けソファとはいえ、ダグラス様が大きいので詰め込まれた押し寿司状態で座ることになる。
「温度差…酷いよ?この格差に折れそうだよ、ダリア…」
殿下のぼやきは無視して、私はキャロラインの装飾についてなにか覚えていないか、とダリアライト様に質問した。彼女は思い出そうと唇を窄めて考えていたが、暫くするとあっ、と小さな声を上げた。
「いつだったかしら、あの方、全身がピンク色でコーディネートしてらっしゃるのに珍しく毛色の変わったブローチをされてるな、と思ったのよね」
それだ!
私の勘が当たりだと告げてくる。
「それはいつ頃の…?」
「最近ね、彼女が殿下に誘われてサロンに来るようになったくらいからかしら?」
だとしたらこの1週間のことだ。
ダリアライト様の噂がたち始めた時期とも一致する。
「ダリア?ちょっと誤解があるような気がするよ?」
確かに強引に引っ付いているだけで殿下がキャロラインを誘ったわけではない。これは訂正すべきかと思ったが、ダグラス様が鼻で笑って、
「はっきり断らないからだ」
と低く呟いたので、私は口をつぐんだ。
「どんなブローチでした?」
「黒曜石のような、少し大人向けのアクセサリーだったわ」
ビンゴ!
私は小さくガッツポーズをした。