31 魅了のブローチ (アルセール視点)
パトリシアの担任であるドナルド·バーナード卿が私のもとを訪ねて、彼女が午後の授業を休むと報告があったと聞き、なにかが起こるのだろう、とは予測していた。
だから休み時間になってすぐ、私は生徒会室に向かったのだ。話があるならそこにダグだけでもいるだろうと目算して。
まさかドアを開けてすぐ穏やかな光を宿した瞳をパトリシアに注いだダグが彼女の肩を抱いて座っているとは想像もしてなかったが…
パトリシアの警護を頼んだときも違和感はあった。パトリシアのことだけは悪し様に言わなかったので、しっかり警護をしてくれるだろうと期待してはいたが、ダグの様子はそれ以上だった。
献身的ともいっていいほどの過保護な警護ぶりに私だけではなくボブもウィルも眼を丸くしていた。フィリスに至っては大笑いだ。
あんな優しげなダグなんてダグじゃない!と大声で指差して笑うフィリスをウィルは腹立たしげに殴っていた。
相変わらずの悪魔の渋面、氷の強面だったが、パトリシアを見る瞳だけはほわりと蕩けて柔らかくなる。ダグがそれに気付いているのかはわからなかったが、私はその変化を好ましく受け取っていた。
パトリシア嬢と呼ぶのも面倒になってはじめて呼び捨てしたときなど恐ろしいほどの殺気を放たれて、私は急速に理解した。
警護対象として気に入っているだけではないのだと。それ以上の感情をダグはパトリシアに抱いているのだと。
パトリシアのどこに万年氷のダグを融かす要素があったのかはわからない。確かに可愛らしい容姿だが、貴族令嬢なら中の中のレベルだし、性格は真っ直ぐだが、正直メンヘン脳過ぎて扱いに困ることもある。
ただひとつ言えることがあるとすれば、パトリシアは公平だ。
誰に対しても優しく、相手が誰であっても態度は変わらない。
常に平等に魂そのものを見る。
ダグからすれば、それがとても惹かれる要素なのかもしれない。
とにかくこれはダグにとっての初恋だ。
なるべく生温い眼で彼を見守ろうと決意した。
だから午後の授業をサボってデートしていたとしても私は構わないとすら思っていた。
その私の眼前に彼女の肩を抱いたダグがいたのだから、これは当然デートだったのだ、と確信したとしても仕方ないだろう。
「はい、妖精たちからお願いされて裏庭の池に行ってきました」
え、デート場所にあの陰気な幽霊スポットに行ったのか?その選択は完全にミスではないか?いくらダグでもそれはどうなんだ?あ、あれか?怖がらせてどさくさに紛れて抱き締めよう、とかそんな邪なことでも考えたか?
私の頭のなかで様々な思考が暴れたが、表面上は王族の一員として笑みを崩さない。
話を聞けば幽霊に会ってきたという。それも妖精に頼まれて、だ。なんてメンヘンな話。
現実主義の私には少々食傷気味に頭痛がしてくる案件だが彼女は真実を話し、決して脳内メンヘンの馬鹿ではない、と理解はしている。
してはいるが、思わず本音が漏れた。
それを鋭く聞き付けたらしいダグが憤激の相貌を露にして視線だけで射殺そうと私を睨み付けていた。
いや、私の命、もう諦めるか?
あれ、まだ、生きてるかな?私は…?
「ダグ、少しでいい、顔を弛めてくれ」
私の言葉を耳にして不思議そうな顔をしたパトリシアがダグを振り仰いだ瞬間、ダグの顔が通常運転にすん、と戻る。
大した芸当ができるようになったもんだ、と無駄なことを感心してしまった。
その後、話を聞いていけばどうやらローブの男に奪われたブローチに魅了の魔法が掛けられているという衝撃的な情報が齎され、まず第一に念頭に上がったのがパトリシアからダグが魅了の魔法を掛けられたのでは、という疑念だった。
あらぬ考えに思考も感情も取り乱した私は思わずテーブルを飛び越えてパトリシアの頭を掴んでいた。
その時点でかなりの冷気と殺気を横から感じてはいたが、親友でもあるダグを思えば恐れることなどなにもなく、私は彼女に詰問していた。
「パトリシアがそのブローチを持ってるのか?!」
きょとんとするパトリシアの表情で直ちに自分の間違いには気付いたが、言い繕うより速く激痛が私の右手首に鋭く走った。
獰猛な地獄の番犬に睨まれてもこれほどの恐怖は抱かない。王族にあるまじき行為かと思ったが、私は本気で漏らすかと思った、主に下から。
ダグはすべてのパーツを顔の中心に集めるほどに顰めて歯を剥き出しにして唸っていた。
フーフー威嚇するダグの額から湯気が昇り、どれほど怒っているのかを理解した私はこの刹那に今生を諦めた。
能面リチャードが私を解放しようとダグに絡み付くが、ひょろりとしたひ弱な彼などダグが犬のように身震いひとつでもすれば簡単に飛んでいく程度のものだ。
私を助けられるわけもない。
痛みに顔を歪めながら、あの世への階段が脳にちらついたとき、パトリシアがそっとダグの腕に触れただけで彼を覆う悪魔のごとき憤怒が瞬く間に淡く溶け去った。
まさに奇跡。
パトリシアに感謝を!
あまりの出来事に茫然とするしかない。
「えっと、サーシャは黒いローブを纏った男性が盗った、と言っていました。少なくとも私は持ってないです。もしも手に入れてたら話を聞いてすぐサーシャに返していたと思います」
パトリシアが何事もなかったように話を続けたので、私は九死に一生を得た安堵で崩れ落ちそうな自分を激励して、彼女に謝った。
「あぁ、そうだろう、すまない、取り乱した」
「いえ、それより大丈夫ですか?」
折られる寸前まで捻られた手首の心配までされて、パトリシアは本当に優しい子なんだ、と心を震わせ、私は感動した。
「それでパトリシアは誰がそのブローチを奪ったと考えているんだ?」
とにかく彼女への疑いはまったくありませんよ、とダグにアピールするためにも私はパトリシアに問うた。
それだけの軽い気持ちだった私の耳に、これまた衝撃的な名前が届けられた。
「盗んだ人はわかりません。検討もつかないですけど、持っている人なら予想はしてます。スペンサー様の態度が変貌したと伺いました。ならば彼がなぜ殿下に対して敵対心を持つのか、私はそればかり考えていました。それで、思ったんです、スペンサー様はアルセール殿下にヤキモチを妬いてるのでは、と…」
真面目な顔でパトリシアは大きな呼吸を繰り返した。その度に女性らしい膨らみがまったくない胸が上下する。
何気にダグを窺えば、鷹の目が幾分蕩けて彼女の上下する胸の動きを追っていて、驚きから私はソファから落ちるかと思った。
そんな私の心情など察することもなく、パトリシアはさらに言葉を続けた。
「だとしたら彼はキャロラインさんに恋をしています」
意外な台詞にさすがに私も耐えきれず、今度こそ本当にソファから転げ落ちた。