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30 サーシャのブローチのことを話します

泣いていたサーシャは私の頬にキスを落とすと、陽に融けるように消えていった。それを見送ったあと、ダグラス様のところまで戻った。


「どうした?」


深刻な顔をしていたのだろう、怪訝そうに窺うダグラス様の鋭い瞳が不安に揺れていた。私は口角を引き上げ、なんとか笑顔らしいものを浮かべると最近アルセール殿下の周辺で変わったことはないか、と確認した。


するとダグラス様が、


「僕とパトリシアが婚約間近の噂が出てる」


と無表情で呟いた。

朝は門で待ち合わせをし、昼は食堂でともに食べて、私が馬車に乗るまでは傍を離れないダグラス様との時間を誤解されないことが不思議で仕方なかったので、納得の噂ではあったが、わかっていても実際に言葉にされるとなんだか気恥ずかしい。

瞬間湯沸かし器並みの速さで顔を真っ赤に茹で上げて、私は思わず俯いてしまう。


「あの、ご迷惑を、本当に、すみません…」


羞恥に身悶える私を落ち込んだと見做したのか、ダグラス様が気にするな、と太い声で慰めてくれる。そして膝をつくと私の肩に大きな両手を置いて、俯く私を覗き込んだ。


「昔から怖がられてばかりで婚約の噂ひとつ立ったことのない男だ。パトリシアとだなんて光栄なだけだから、気にするな」


がっつり眉根に皺を寄せて光栄だ、と言われてもときめかないもんだなぁ、と冷静に反応しながらも、ダグラス様の優しさが嬉しくて私は破顔する。


「ありがとうございます」


けれどダグラス様に人気がないのは嘘だ。

男女問わず彼は憧れの的。

その雄々しさに、流麗な美しさに、清廉な雰囲気に、憧れない人はない。


その婚約者に私の名が上がっているのなら、それ相応の嫌がらせも覚悟しておこう、と心に刻む。

寧ろ、この一月(ひとつき)に嫌がらせがなかったことが奇跡だ。

私が鈍感すぎて気付かなかっただけだろうか?


「ダグ様に本当の婚約者様ができるまでは宜しくお願いします」


適齢期の貴族男性、しかもモーティマー侯爵家嫡男だ。すでに婚約者がいてもおかしくない彼にそういった話が出るのも遠い先ではないだろう。

学園卒業までには彼だってきっと婚約するはずだ。

ダグラス様を攻略する最大目的があるのに、傍にいて優しさがみえると好きでもないのに彼を独占してはいけない気分になる。

ダグラス様はとても素敵な方だ。

だから彼の幸せを邪魔してはいけないのでは、とこのとき私ははじめてダグラス攻略に躊躇いを感じた。


なにも言わない彼を見上げて、私はびくりと身体を震わせ、一歩後退る。

いつもに増して眉根に縦皺が深く刻み込まれ、いまにも噛みつかんとする猛犬のように鼻に皺を寄せ、鷹のような鋭い眦が般若のようにつり上がったダグラス様の顔はあの世の鬼でもこれほど恐ろしくはないだろう、と思わせた。


え?なにか怒ってる?


先程まで感じていた殊勝な気持ちなどあっという間に吹き飛んで、これでは本当に私が婚約しなければ誰とも結婚できないのではないか、と疑問が浮かんだ。


この顔と普通に対峙できるご令嬢なんているのかしら?


「あの、ダグ様?なにか怒ってます?やっぱり私との噂がそれほど嫌ですか?」


こてんと首を傾げて私は確認した。

彼が嫌ならアルセール殿下にお願いして護衛を変えて貰わなければならない。

ダグラス攻略を画策する私にとっては痛手だが、嫌がる相手を傍に置いても好きにはなって貰えないだろう。


最もあまりにも身辺が忙しくて、そして慌ただし過ぎて、傍にいるだけで特になにか攻略のために努力していたわけではないので、好きになって貰いたいと考えること事態が烏滸がましいのだが…

いや、寧ろ、攻略そのものを念頭から外していた、というか、忘れていた、というか…

日々に流されるというのは恐ろしい………!


ダグラス様は屈んでいた腰を伸ばすと、片手で眼を覆って天を仰いで、大きなため息を吐いた。


そして指で目頭を揉んでから、私を見下ろした。


「嫌ではない」


それだけをぼそりと呟いて、彼は私の手を取ってから来た道をゆっくりと戻っていった。手を引かれながら、私は池を振り返る。


それはもう森の木々に隠されて、その存在を確認することはできなかった。


ダグラス様は教室へと私を送らず、なぜか生徒会室に私たちはいた。しかも会議室のほうではなく、サロンのほうだ。さらに彼はソファに座り、私を無言で見遣ると、自分の横をポンポンと叩いて私に座るように促していた。


え?隣?なんで?


疑問が脳内を駆け巡るが、私はおとなしく彼の横に離れて腰を掛けた。


ここに来るまでの道中に他の変化はないかと聞けば、ウィリアム·スペンサー侯爵令息様の態度があからさまにおかしくなっている、とダグラス様が教えてくれた。それはこの2、3日のことらしい。


はじめは珍しくぼぅっとしてるな、と感じた程度だったらしいが、昨日は呆けただけでなく、誰よりもアルセール殿下に忠臣だった彼が他愛のないことで殿下に噛みついたらしい。


「怒って、部屋を出ていって、それっきりだ」


その後、ダグラス様は私の警護に入ったのでどうなったかは知らないらしい。

なるほど、スペンサー様からスタートしたわけだ、と私は独り納得する。

しかし、誰が?

誰がブローチを持っている?


少なくとも今朝、ダリアライト様と挨拶を交わしたときにはブローチなど着けてなかった。


「それでパトリシア、アルセール殿下にまずは話すのか?」


ダグラス様にはサーシャとした約束もブローチのこともまだ話してはいない。けれどアルセール殿下の周辺を探ったことで、どうやらそこに私の懸念があるらしい、とは察したようだ。

それで生徒会室なのね、と私は納得した。


「はい、殿下に聞いてほしいです」


ぎゅっとダグラス様の眉根が寄るが、彼は小さく頷くとここで待てば会えるだろう、と溢した。

このひと月の間、殿下とダリアライト様を近くで観察することができたが、意外なことにアルセール殿下はダリアライト様を溺愛していた。ダリアライト様からの好意はあまり感じられなかったが、殿下からの愛情表現は私には刺激が強すぎるほどだった。


だからこそまだアルセール殿下は毒牙に掛かってないだろうと確信していた。


ダグラス様がぎしりとソファを軋ませて脚を組み換えた。スプリングが優秀なのか、私の身体が彼の重みで歪むソファの形に添って、ぽすりとダグラス様に寄り掛かる体勢になってしまった。

慌てて姿勢を戻そうと身体に力を入れたとき、ダグラス様の腕が私の肩に回された。


驚く私を彼の逞しい腕がさらに強く抱き締めたとき、サロンのドアが予告なく開いた。


「あぁ、来てたのか、ダグ、それにパトリシアまで!」


アルセール殿下がほわりと柔らかな笑顔を浮かべて入ってきた。それを確認したダグラス様がするりと腕の力を抜いて私を離したので、なるほど足音を聞き付けて私を護る体勢だったのね、と独り頷いた。


どんだけ野生の耳なんだ!!


「それでなにか話でも?」


普段は彼のあとに付き従うスペンサー様はおらず、リチャード·コルソン子爵令息様が代わりに傍に立っていた。アルセール殿下が彼に珈琲を頼むと、軽やかな動作で私たちの向かい側に腰を下ろした。

なるほど、殿下の座る位置を考えて隣に私を座らせたのね!と腑に落ちて私はダグラス様ににっこりと微笑み掛けた。


「はい、妖精たちからお願いされて裏庭の池に行ってきました」


「サボってどこに行ったのかと思ったが、また趣のないところへ行ったもんだね」


呆れたように殿下は肩を竦めた。

サボったことがすでにバレていることに驚きつつ、私は言葉を続けた。


「そこの池でサーシャという幽霊に会いまして」


「幽霊?!」


「はい、池のなかで大切に護っていたブローチを盗まれたと嘆いていました」


「ブローチ?護っていた?はぁ…」


まったくパトリシアと話すと私の脳内がメルヘン仕立てになるよ、と失礼なことを小さく呟いたアルセール殿下がちらりとこちらに顔を向けて、突然怯えたようにひきつった笑顔を作った。


「ダグ、少しでいい、顔を弛めてくれ」


僅かに震える声で殿下に注意されたダグラス様に私は視線を移したけれど、通常モードの鬼瓦だ。

見慣れているはずなのに殿下には怖いんだな、と私は気の毒になった。

未来の近衛騎士団長筆頭候補に怯える主君てどうだろう、と思わずお節介な心配までする。


「それでそのブローチがどうしたのだ?」


促されて気を取り直した私は姿勢を糺した。


「はい、取り返すとサーシャに約束しました。そのブローチには魅了の魔法が掛かってるからです」


「………」


無言。


あれ、話し方が悪かった?理解して貰えてない?

小首を傾げ、私は殿下をまじまじと凝視した。


珈琲ののったトレイを手にコルソン様がサロンに来るまで重苦しい沈黙は続き、唐突にアルセール殿下がテーブルを飛び越え、私の頭を鷲掴んだ。


「?!」


「パトリシアがそのブローチを持ってるのか?!」


なにをどうしたらその結論に至るのか、さっぱり理解できない私は大いにパニクった。唖然としてしまって、現状がまったく把握できない。

気付けばダグラス様が不敬にも殿下の手首を捻っていて、無表情のコルソン様が痛がる殿下を救おうとダグラス様に縋り付いている状況だった。

おかげで私は髪が多少乱れた程度で済んでいる。


「パトリシアが持ってるわけないだろうが!アルセール殿下はなにを考えているんだ!」


激しい恫喝に身を小さく竦める殿下の怯えきった態度に胸が痛む。私はダグラス様の腕に手を置いて、彼に座るように促した。


「えっと、サーシャは黒いローブを纏った男性が盗った、と言っていました。少なくとも私は持ってないです。もしも手に入れてたら話を聞いてすぐサーシャに返していたと思います」


「あぁ、そうだろう、すまない、取り乱した」


「いえ、それより大丈夫ですか?」


ダグラス様に捻られた手首が真っ赤になっている。アルセール殿下は手首を擦りながら、大丈夫だ、と頷いた。

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