3 あ、はじめまして伯爵令嬢です、前世は日本人(男)でした
2度めの目覚めのあと、縋り付いて泣き喜ぶ両親と難しい顔をして腕を組んで仁王立ちする兄に挟まれて大変な思いをした俺、訂正、私は混乱する記憶を整理するために貴族名鑑を見せてほしいと頼んだ。
記憶を整理するよりも、より詳細な情報が欲しいのが本音だった。
それでいま俺、いや、私の膝の上には分厚い本が乗っている。
まずはバーナー伯爵家の親類縁者からだ。
バーナー伯爵家当主はお父様、ロベルト·バーナー、40歳。
その妻マリアンはドルビー侯爵家の次女でバーナー伯爵夫人、36歳。16歳で嫁いで2年間の幸せな新婚生活の末、アランを身籠った。政略結婚でなく、恋愛結婚だった。
ドルビー侯爵家主催の夜会に訪れたロベルトに一目惚れしたマリアンがドルビー侯爵の反対もなんのその、猛烈攻勢でロベルトに迫り、結婚にまで漕ぎ着けた逸話を誇るマリアンは今のお淑やかな姿からは想像もつかないほどのお転婆だったそうだ。
そして格下に嫁がせるのを嫌がっていたジジィがドルビー侯爵家当主のケビン。俺、いや、私の祖父。
ロベルトとの婚約を打診されたときに反対しただけでふた月もマリアンから口を利いて貰えなくなり、その熱心さ?に泣く泣く折れたという。
その妻ノエルは、
「好きな殿方に嫁ぐのがなによりの幸せなのですよ。辛いことに堪えられるのも、嬉しいことが喜びになるのも愛してこそですから」
と夫を諭したというから、マリアンの気持ちがロベルトにある限りは娘を応援していたようだ。
ドルビー侯爵夫妻は未だ健在で、マリアンの弟に爵位を譲って早々と隠居すると、2人で仲良く各地を旅しているとうっすら記憶に残っている。
バーナー前伯爵はすでになく、先に逝った夫を偲ぶためロベルトの母親は修道院で日々祈りを捧げる生活を選んだらしい。
そして次期伯爵である嫡男アランはその見事な体躯と卓越した剣術を惜しみなく駆使して騎士として名を挙げつつある、偉丈夫だった。
これがパトリシアの直近の親族である。
貴族があり、平民がいるということは、その国を束ねる王家が存在する。
それがパトリシアの住むデュラント王国である。
国王は44歳で、治世はまだ10年にも満たない。
名はジャルセール·デュラント。
可もなく不可もない、穏やかな執政は民を虐げることもなく、だからといって富ますこともなく、現状維持をモットーとしたかのような横一直線だった。
王妃はセリーヌ、40歳。
宮廷の薔薇と讃えられる美しき貴婦人。常に世の先端を走る美的センスに憧れる女子は多い。
どうやらパトリシアもその一人だ。
ちらりと鏡の前のドレスに眼をやって妙に納得した。きっとパトリシアはセリーヌを思い描いてドレスを買ったのだろう。
国王夫妻には一人だけ息子がある。
しかし王子は全部で4人。
第一王子は21歳、ベルセール。
母親譲りの金髪に父親から受け継いだ黄金の瞳を持つ。
ちなみに王家に生まれたものの多くは黄金の瞳だ。ごく稀に光によって色の変わる虹色と呼ばれる瞳を持つものが生まれるそうだが、もはや伝説級に珍しいものとなっていた。
第二王子は16歳。
これが国王夫妻の唯一の御子であるアルセール。
父親譲りの銀髪に、やはり黄金の瞳だと言われているが、いつも瓶底メガネを掛けているので定かではない。王太子として立太子する予定だが、学園を卒業するまではそれもやはり定かではないらしい。
第三王子はアルセールと同じ16歳のカルセール。
双子ではなく、異母弟になる。側室の子だ。
気性の荒い側妃メイフィーナの性格を継いだのか、柔らかな微笑みを絶やさないアルセールとは対照的にいつでも不機嫌そうに眉間にシワを寄せて赤い瞳を鋭く光らせている。髪色が似ているだけに常に比較される2人だった。
第四王子はまだ幼い4歳のリリセール。
無邪気な可愛らしさに王宮内の癒しとして誰からも可愛がられているとの噂だが、まだ表に出てこないので詳細は不明だ。こちらはベルセールと同じ側室の腹から出た御子だという。国王の寵姫としても名高いバーレーンが産みの親である。およそ怒りとは縁遠い、たおやかな淑女で慎ましやかに過ごし、ジャルセールの唯一の癒しとして溢れるほどの寵愛を受けていると言われている。
そして現在、第二王子が通っているデュラント王立魔法学園は貴族であれば15歳から3年間、半ば強制的に入学させられるところである。
パトリシアも今年の春に入学することが決まっていた。というのもこの国には魔法が存在し、貴族であれば強弱あれど誰でも魔力を持っていることになっている。以前ほど強力な魔力を持つことはないが、やはり魔力があるからこその危険から回避するために勉強をすることが義務付けられていた。
ときおり平民でも魔力を有するものが現れるので、毎年15歳になるものはこれまた強制的に教会で魔力保持検査を受けなければならない。
そこで魔力があると判断されたものはやはり強制的に学園に通うことになる。
そこで係る費用は国からの援助と貴族からの寄附によって賄われるので、平民は無料で通えた。
私は膝の上の貴族名鑑をパタリと閉じると、ふぅ、と小さく吐息を洩らした。
私だ。
俺ではない。
ベッドサイドに本を置くと、私は降りて鏡の前に立った。
そこにはふわふわと柔らかそうな赤毛の癖毛を持ったエメラルドグリーンの瞳が綺麗な華奢な少女がいた。
褒めるところは眼の色だけ。
あとは平凡な顔立ちだ。
特徴もない。
目立つ雰囲気もない。
デブでもないが、スタイルがいいわけでもない。
すんなりと伸びた手足が美点なだけで、あとはまだまだ発展途上のところばかり。
上も下もつるんつるんのペッタンコだ。
よくケアされているだけあって肌は極め細やかでしっとりと吸い付くような触り心地だが、色は日本人のように僅かにオークルが混じっていた。
こんなとこに前世の要素がいるのか?と首を傾げずにはいられないが、こればかりは諦めるしかない。
専属メイドのマーガレットも母親のマリアンも白磁の肌だったことを思い出して、私はまたひとつため息を溢した。
そして何時間も何時間もパトリシアの記憶と貴族名鑑とにらめっこしてやっとひとつの結論に俺、いや、私は辿り着いた。
ここは前世で爆発的にヒットした乙ゲーの世界そのものだった。