アイシテルと人
広い原っぱと、大きな森。
その境目に小さな川が流れています。
そこに一軒の小さな家がありました。
住んでいるのは、これまた小さな男の子一人きり。
彼は今まで誰にも会った事がありません。
だから名前もないのです。
仮にアイシテルとしましょうか。
アイシテルは部屋の中にいました。
ベッドの側には椅子があり、そこにちょこんと座っています。
ベッドの反対側には窓があります。
太陽が傾くと共に、窓枠の形に四角く切り取られた光が、徐々に移動して行きます。
じっと見ていると、いつまでもそのままでいる様なのに、気が付くと足元まで延びて来ていたり。
アイシテルは、それが不思議でたまりません。
動かないように見えて、確かに動いて行く四角い光。
それを眺めながら、アイシテルは今日も考えています。
アイシテルが今日読んだ本は『赤い夜の夢』と言う題名の歴史小説でした。
と言っても、もちろんアイシテルにとっての歴史ではありません。
アイシテルの生きている、箱庭の世界の外。
その昔にあった出来事です。
その当時の外の世界では、人種や思想、信仰している宗教などの違いによって、人々は絶えず争いを繰り返していました。
特に激しい争いは、人々を虐げ支配する側と、支配される側との争いです。
その軋轢は、年を重ねる事に積み重なり、濃縮され、ついに爆発しました。
そして、支配される側だった大勢の人々が勝利します。
人々は喜びました。
もう私達は自由なんだ。
皆の顔は一応に満面の笑みです。
人々は、自分達の手で幸せを掴んだと、自由を手に入れたと思いました。
ところがそれから数年経つと、何故だか人々の顔は元の暗い表情に戻っていました。
支配する側がいなくなると、人々は自分達の思い思いの事をし始めました。
自分の付きたい職業に付き、信仰したい宗教を信仰し、そして人種の壁を越えて愛し合いました。
それでも、上手くいかなかったり、期待していた生活がおくれなかったり、不満は生まれる物です。
人々は、不満をぶつける大きな相手がいなくなった今、互いにぶつけあうようになっていきます。
自由を手にした人々は、自分の自由をかけて戦い始めました。
隣人を蹴落とし、小さな違いによって虐げ、差別はより深まっていきました。
自分は自由を手にしていたのではなかったのか。
幸せになれるのではなかったのか。
その思いが、さらなる不満を生み出します。
人々は気付きませんでした。
人々を虐げ、支配し、差別していた者もまた、自分と同じ人間だと言う事に。
そして、それらは自分の中にもあるのだと言う事に。
そんな、寓話めいた歴史の話。
アイシテルはよく分かりません。
けれど、アイシテルは感じました。
悲しいお話だと。
人って、こういうものなのだろうか。
自分にも、こんな気持ちがあるのだろうか。
アイシテルは分かりません。
知る事が出来ません。
アイシテルは、誰かに会いたいと思っています。
誰かに会い、「愛してる」と言いたい。
「愛してる」と言われたい。
それがアイシテルの唯一つの夢。
唯一つの望みなのでした。
だけれども、アイシテルは初めて怖いと思いました。
人と出会うのが。
自分にも、こんな悲しい気持ちがあるのかもしれない事が。
そして、それでもやはり、誰かに会いたいと思うのです。
アイシテルに、「愛してる」と言う素敵な言葉を教えてくれたのは本であり、その中に生きる人なのです。
人は怖い。
でも、人を求めているアイシテルがそこにいました。
そして、初めての感情に戸惑っている者がもう一人。
"私"は初めて迷いを抱きました。
アイシテルをこのまま、この箱庭に閉じ込めていて良いのだろうか。
人の怖さを知り、それでも人を求めている、そんなアイシテルをこのまま"私"だけの物にしていて良いのだろうか。
私の愛しいアイシテル…。
アイシテルは眠ってしまいました。
その瞳からは一筋の涙。
その綺麗な滴を、アイシテルの世界は、"私は"、躊躇いながら見守るのでした。