アイシテルと嫌い
広い原っぱと、大きな森。
その境目に小さな川が流れています。
そこに一軒の小さな家がありました。
住んでいるのは、これまた小さな男の子一人きり。
彼は今まで誰にも会った事がありません。
だから名前もないのです。
そうですね、仮にアイシテルとしましょうか。
ベッドの側の窓からは、暖かい太陽の光。
アイシテルは今日もその下で、本を読んでいます。
その本は、喜劇の台本でした。
大まかな荒筋はこんな所です。
主人公は、平凡な男。
どうしても気に入らない相手がいました。
自分の生まれが良いのを、いつも鼻にかけて、主人公達平民を馬鹿にしています。
主人公はある事件に遭遇し、高飛車な相手に一泡ふかせる計画を思い付きます。
勧善懲悪物と言えなくもない話でした。
いつものように、アイシテルは分かりません。
喜劇と書かれてあるのに、どこが面白いのかサッパリ分かりません。
主人公は、相手の事が嫌いなんだな。
それくらいです。
アイシテルはまず、嫌いという事から考える事にしました。
と言うのも、アイシテルには嫌いという気持ちが良く分かりません。
僕が嫌いな物ってなんだろう。
アイシテルは、嫌いな物を探しに行く事にしました。
まず川へ。
美味しい水を飲んだ後、嫌いな物を探してみます。
川の周りを歩いてみました。
小さな石ころ位しか見付かりません。
川の中を探して見ます。
上からだと良く見えなかったので、水の中へ顔を突っ込んで探します。
川底には僅かな苔。
水が澄んでいるので良く見えます。
長く探していると苦しくなってきたので、アイシテルは水上へ顔を上げました。
そうか。
長く息を止めているのは苦しいから嫌いだ。
アイシテルはようやく一つ嫌いな事を見付けました。
アイシテルが次に向かったのは原っぱです。
この原っぱにはアイシテルを刺すような虫がいません。
虫どころか、アイシテルの世界には、アイシテル意外に動く生き物は一匹もいません。
見渡す限り、風に撫でられた草花が穏やかに揺れています。
アイシテルは、嫌いな物を探しながら真っ直ぐに歩いて行きます。
小さな花や、柔らかい草が続くばかりです。
そして、"突き当たり"に到着しました。
アイシテルはこれ以上進む事が出来ません。
何故なら、ある所から鋭い棘を向けている蕀が一面に生えているからです。
初めて"突き当たり"に来て時に、蕀の棘に恐る恐る触れて見ました。
指先からチクっと鋭い痛みが通り抜けます。
それ以来、アイシテルはここまで来る事はありませんでした。
"突き当たり"は嫌いだな。
痛いのも嫌い。
さて最後は森です。
木々の隙間を、嫌いな物を探しながら歩きます。
途中でお腹が空いたので、側の木にぶら下がっていた果物を食べました。
休み休み進んでいるうちに、アイシテルはもう一つの"突き当たり"へ辿り着きました。
そこまでは木の生え方もまばらで、葉に光が遮られても少し薄暗い程度でしたが、ここから先は違います。
木の密度が突然濃くなり、昼間でもあまりに生い茂る葉に、太陽の光は完全に遮られてしまいます。
アイシテルは、この暗闇が怖くて仕方がありません。
アイシテルの世界は、夜でも月明かりが眩しい程なので、暗闇は此処にしかないのです。
この"突き当たり"も嫌いだ。
暗くて恐いのは嫌い。
いつになく歩いたアイシテルは、家に着いた頃には疲れ果ててしまいました。
嫌いって疲れる。
それがアイシテルが今日一日嫌いな物を探した感想でした。
何で嫌いな事にわざわざ近付くんだろう?
それが面白いのだろう?
アイシテルには分かりません。
人は時に、自分の理解出来ない物や、気に入らない物を排除したがる事を。
アイシテルは知りません。
人は時に、自ら嫌いなものを調べ、近づき、非難し、時に罵倒し、そして正義という名の喜びや楽しみを感じる事を。
嫌いな事を探すのはもうやめよう。
嫌いな事には近付かなければ良い。
好きな事を考えていれば、楽しくいれる。
"行き止まり"に区切られた箱庭の世界。
そこにいる限り、アイシテルはいつまでも楽しくいれるのでした。
世界がアイシテルを守っているから。
世界がアイシテルを愛しているから。
いつになく疲れたアイシテルは、深い眠りに落ちていきました。
アイシテルは明日も、草や木に、水に太陽に「愛している」という言葉だけ言うでしょう。
好きな物に囲まれて過ごすでしょう。
おやすみなさい、アイシテル。