アイシテルが愛してる
広い原っぱと、大きな森。
その境目に小さな川が流れています。
そこに一軒の小さな家がありました。
住んでいるのは、これまた小さな男の子一人きり。
この男の子には、名前がありません。
物心付く前から、ずっと一人きりでしたから。
彼以外の、人にも、動物にさえも出会った事は一度もありません。
そうですね、仮に"アイシテル"と言う名前にしましょうか。
なぜなら、彼が初めて発した言葉が「愛してる」だったからです。
朝起きると、「おはよう」の代わりに「愛してる」。
美味しい林檎を実らせる木にも「愛してる」。
川の水を飲んだら「愛してる」。
そして、眠る前にも「愛してる」。
そんな変わった男の子。
アイシテルが暮らしている家には沢山の本がありました。
いつからあるのか、誰が買ったのかはアイシテルは知りません。
そんな事を疑問に思う事を知りません。
そして、アイシテルは誰にも教えられていないのに本を読む事が出来ました。
アイシテルは、一日の大半を本を読んで過ごします。
お腹が減ったら木の実や果物を食べ、喉が渇いたら川から汲んできた水を飲みます。
そしてまた本を読みます。
アイシテルは、本を読みながら色んな事を考えます。
本の中にはアイシテルの知らない事がいっぱいです。
だって、本の中には沢山の人がいますから。
アイシテルは考えます。
悲しいってどんな気持ち?
嬉しいってどんな気持ち?
お母さんってどんなの?
お父さんってどんなの?
友達ってどんなの?
アイシテルは分かりません。
だから想像します。
アイシテルを包み込む世界は、ただただ優しく、のんびりとしています。
ですが、アイシテルが想像し、考える事で、少しずつアイシテルのその瞳に写る姿を変えるのです。
まだアイシテルが言葉を一度も発したことがない頃、アイシテルはとても素敵な言葉を本の中から見付けました。
『愛してる』
アイシテルが知っている言葉の中でも、一番想像するのが難しい言葉でした。
『愛してる』ってどんな気持ちだろう。
『愛してる』って言われるとどんな気持ちだろう。
そう想像すると、アイシテルは少しだけドキドキします。
アイシテルはこの言葉をとても気に入りました。
愛してる。
愛してる。
綺麗な音。
素敵な言葉。
アイシテルは、声に出して言ってみました。
「愛してる」
アイシテルはこの時初めて、自分の声を聞きました。
何だか不思議な気持ちです。
初めて聞く自分の声。
初めて聞く「愛してる」。
そして、初めて誰かに「愛してる」と言いたいと思いました。
誰かに会いたいと思いました。
「愛してる」と言いたい。
「愛してる」と言われたい。
もし、誰かに会った時、一番最初に「愛してる」と言いたいと思いました。
それからアイシテルは、色んなものに「愛してる」と言うようになりました。
「愛してる」と言う練習です。
愛してる。
愛してる。
アイシテルは、『愛』を知りません。
ですが、「愛してる」と言い出したアイシテルの世界には、確かに小さな『愛』が生まれたのです。