復讐鬼 エンカウント ④
奇襲に失敗した灯篭は――そもそも奇襲をしかけようとしていたことも忘れて逃げ出したことを後悔していた。
しかし、それは失敗したから後悔しているのではなく、女の子を前にして言い訳もせずに、手を引っ張られ逃げてきたことが恥ずかしかっただけなのだ。
『これは戦略的撤退なんだぜ!』
そんな言葉を残しておけば、きっと格好がついたに違いない。
息切れして腹で呼吸をしている灯篭は、腹が膨らむたびに「おぉ」と目を輝かせるトトリを見上げ、結局今の状況はどうしようもないのだと目を閉じた。
格好つけるも何も、腹があっては変わるまい。
「あのイケメン、結構やばそうでしたね。あれがターゲットだったんですか?」
おそらく人間ではない何かだ。
あれが人を殺したのであって、少女が人を殺しているわけではない。
始末するべきなのはイケメンのほうだが、欠片を持っているのは少女の方である。
「あの男と、もう一人女の子がいるんだが、その子がターゲットだ。名前は香山姫。できれば、一人きりのところを、男が来るまでになんとかして欠片を回収したいが」
やっと落ち着いた呼吸に灯篭はちょっとした幸福感を得ていた。
走ることが増えてしまい、こうして息が切れて苦しくなったことが多々あったが、その後にやってくる疲労感のようなものが心地よいと感じているのである。
なんだ、運動も悪くないなと――肥満の彼が思っているとは信じられないが、実際にそう感じているのだから、これは彼にとって立派な成長なのだろう。
「じゃあ今ですね。今、その女の子は一人なんですから。チャンスは今しかないというわけですよ」
「あのなあ、簡単に言うなよ。家にいなかったんだぞ。残念ながら、住所と、彼女の境遇くらいしかわからなかったんだからな。そもそもどこかにいるとわかっているなら、家に向かっていない」
「ふふふ、あたしがいるじゃないですか」
人差し指をくるくると回して、トトリは胸を張った。
思わず固定された視線を誤魔化すように灯篭は咳払いをして、すぐに思考を巡らせた。
どうやら彼女、家の中の様子まで表現できる技術によって、香山姫を見つけ出そうとしているらしい。
「とは言っても、あたしは万能じゃありません。あくまで目で見えるもの――目に見える範囲を描くことしかできません。精密に描けるとしたら、精々百メートル程度でしょう」
「それで、百メートルの至近距離まで近づかなければ、ターゲットは捕捉できないんだろう? それじゃあ無謀だ。どれだけ時間がかかるか……あの男に合流されてしまう」
「まあ、その、そうなんですよね。でも、相手が相手なら、わざわざ精密に書く必要なんてないじゃないですか。妙な気配みたいなものは、どうやら絵に影として現れるようですし」
影を思い返す。
彼女が描いたあの影は、精密に描くことができない存在を、なんとか存在感だけでも描いたものなのである。
なにか妙なものがあると、影として現れれば、ある程度の位置を把握できる。
香山姫はおそらく、高速に移動はできない。
彼女は学生であり、何かしらの運転免許は持ち合わせておらず、自転車も所持していない。
一度彼女が移動するところを見た灯篭は、彼女が持つ徒歩以外の移動手段は、あのイケメンに抱きかかえてもらって移動するものだけだと推測する。
つまり、影を発見すれば、そこに急ぐだけで、香山姫を発見できる可能性は高いということである。
ある程度の距離――百メートルの位置で念のためにもう一度トトリが絵を描けば、香山姫がいかに擬態していようとも、容易に特定できるに違いない。
「ああ、でもひとつ問題があるんです」
「……前にもそんなことを聞いたぞ」
灯篭はなんとなく察しがついた。
彼女のその技術は、魔法のようなもの。
なにかしらのコストがかかっているだろうことくらい、灯篭にでも想像がつく。
腕を変形させ、元に戻すたびに見せる苦痛の表情――まさか、腕が痛いだけですむはずがないことを、彼女は行っているのだから。
つまり、彼女の絵を描くという行為は、何度も行うことができない、限界のある魔法なのだ。
「不便だな、魔法ってやつは」
「さっきも言いましたけど、あたしは別に『魔法士』でも『魔法使い』でもないですからね? これはちょっとした呪いみたいなものです。魔法のようなことが出来ていますけど、やっぱり違うんです。葵くんもそう言っていました。でも不便なことは違いないですね、ふふふ。まあ、これがなかったら彼にも出会っていませんし、だから腕を切断しようとは思いません」
トトリは笑顔を見せたが、灯篭は言葉を失った。
絵を描くために集中し始めたトトリの横顔を、灯篭はどう見ればいいのか分からなかったのだ。
どうして彼女が『切断』という言葉を簡単に口にしたのか――一度考えたことでなければ、そうすぐに口に出る言葉ではない。
少なくとも一度は、切断したいと思ったことがあるということだ。
痛みか、それともその、目をそらしたくなる醜さか。
灯篭が見る限り、トトリココという少女は、笑顔に満ちた存在だ。
作られた笑顔ではなく、心の底からの笑みが、彼女にはあるのである。
しかし、その裏には確かに、灯篭には感じ取れない何かがあった。
ここにきてやっと、灯篭の中で彼女の存在を判定することになる。
敵か、味方か――。
「正直なところ、おれはお前を警戒していた」
「知ってます。でも、あたしは責めたりしませんから。あたしも、あなたのことはずっと警戒していましたし。お互い様です」
トトリはそう言って、帽子の中から拳ほどの大きさのものを取り出してみせた。
布に巻かれているが、それが何なのかは輪郭でわかる。
その程度の大きさのナイフでも、灯篭は簡単に殺されていただろう。
いや、もしかしたら、肉厚で無事だった可能性も十分あるが。
「あたしは人を信用することが苦手なんです。葵くんが『灯篭くんは信用できる男だ』って言っても、葵くんを信じることはできるのに、あなたを信じることはできなかった。でも、もうあなたを警戒することはやめます。だって、葵くんが言った通り、あなたは『人を救うことに躊躇いを持たない尊敬できる人』でしたから」
灯篭は目が眩んだ。
自分がそんな立派な人間ではないことを誰よりも知っているのは、彼自身だったからだ。
隠し事をしていると、葵は知らない。
だから、当たり前だがトトリも知らない。
忘れてしまおうとする感情――いつもならそのまま、感情の通りにする灯篭は、初めて踏みとどまった。
彼の言う通りの人間にならなければならない。
彼が信頼してくれている、尊敬できる人間にならなくては。
次に葵と会う時には彼に謝ろうと、灯篭は決意した。