復讐鬼 エンカウント ③
表札を確認し、灯篭は大きく息を吸った。
間違いない。
ここに、例の少女はいる。
振り返ると、敵地を前にしているということを全く知らないように、のんきに鼻歌を奏でている少女がいる。
まだ味方とも言えない――いや、言い切りたくないというのが、灯篭の本音だろう。
葵が灯篭に助けを寄越してくれたとして、それはまさに葵がしそうなことだったが、まさか、戦闘能力がないとは。
「トトリ、お前本当に戦えないんだな」
「そうですよ。あたし葵くんの言っていた『魔法士』とも『魔法使い』とも違うらしいですし、ほんの少し妙なことができるだけの人間です。灯篭さんだって、その体じゃあ大食いくらいできますよね。その程度の特技と思ったほうがいいですよ、えへへ」
ハンバーガーなら五つまでしか食べることができない灯篭が、大食いを特技と言っていいのか首を傾げたが、彼女が灯篭の元へやってこなかった時に考えていた作戦を実行するだけだ。
奇襲だ。
先手必勝。
しかし、敵地に踏み込む前から欠片に願うような愚かな真似はしなかった。
恐る恐る、足を踏み入れる。
あの少女が外出している可能性はある。
欠片が崩れてしまう可能性がある以上、使用するのは敵とぶつかったタイミンングしかない。
「あ、灯篭さん。待ってください」
突然の声に、灯篭は小さく悲鳴をあげて振り返る。
「な、なんだ!? 急に声をかけるんじゃあねえぞ! びっくりするだろ!」
「あはは、いやいや、ごめんなさい。中に入るまでに、ちょっぴり時間をください。きっと役に立ちますよ」
「戦えないって言っていたじゃないか。いまさら……」
トトリが腕を振ると、右腕の先が変形していく。
やがて現れた筆先は、淡い光を灯している。
何をするのかと観察する灯篭は、ほんの少し警戒して距離を取ることにした。
「私色」
トトリが何かを言うと、筆先の光が激しいものになる。
灯篭は目を細め、しかし眩さを忘れて、彼女の一挙一動に目を見開く。
光っているのは筆だけではなかった。
彼女の目も、同じように光り輝いているのだ。
「我板」
筆を走らせている。
だが、そこには紙はない。
そもそも、彼女の筆先に絵の具もついていないのだ。
しかし、そこには描かれていくものがあった。
やがて手を止めたトトリは、灯篭を手招いた。
灯篭はトトリが何もない場所に描いた絵を目にし、息を飲む。
そもそも、空間に絵が描かれていることにも驚いたが、その絵は、灯篭が侵入しようとしていた敵地の内部が、精密に描かれていたのである。
「お前、中に入ったことがあるのか?」
「あるわけないじゃないですか。見たものをそのまま描いただけですよ。あたしくらいの画家なら、このくらい、ふふふ、余裕なのですよ」
「外観だけなら納得もできるが、建物の中まで…………ま、待ってくれ! お前、おれになにかしたんじゃあないだろうな? こんなこと、ありえないだろ!」
灯篭は目を塞いで頭を振った。
彼女が描いたのは絵だ。
一目では、建物外観だけしか見えない。
しかし、目をこらすと、中が見えてくる。
まるで透視できているように、外観と内観が同時に存在している。
「見た感じ、中に人はいないようですけど、ちょっぴり気になるところが何箇所かあります。ココと、ココと……あと、ココも」
順番にトトリは指をさしたが、灯篭は指の間から恐る恐る覗き、指を閉じる。
「きっと罠ですね。あたしは魔法についての知識はほとんどありませんので、中に入ることはおすすめできません。なんていうか、これ、かなりやばい雰囲気です。たぶん触ったら即死レベルの……聞いてます?」
「だ、大丈夫だ。問題ない。続けてくれ」
それが灯篭の落としどころか。
片目だけで絵を眺め、トトリの話を聞くことにしたようだ。
それが罠なのかどうかは、灯篭には判断できないが、妙なものであることには間違いない。
触れなければ済むものなのかもしれないが、ただの地雷と同じように、踏んだらズドンと、ダメージがやってくるものではない可能性が高い。
例えば体温を察知して起爆するようなものだという可能性もある。
絵だけではわからないものだ。
しかし、トトリの絵がなければ、罠の存在を知ることはできず、何が起きたのかもわからないまま戦闘不能になっていただろう。
「おい、これは何だ?」
「どれです?」
「これだよ。ほら、この影みたいなやつ」
トトリは長い睫毛を何度も瞬きさせて確認しているようだが、灯篭が言っているものが分からないようである。
「うーん。もう一度描いてみましょうか。丁度二階の部屋のあたりですね」
「ああ、頼む」
「私色――我板」
瞬時に描き終えたトトリは、首を傾げている。
灯篭が指差していたあたりには、もう何もないようだ。
「ん? さっきの絵にあった影、階段のあたりにあるぞ」
「本当ですか? でも人がいたら絵に表現されるはずですけど……見間違いじゃないですか?」
「見ろよ、ほら! これだよこれ! この黒いやつだ!」
首を傾げながら、トトリはもう一度筆を振った。
トトリは階段のあたりをじっと見つめるが、何も見つけらないようである。
灯篭はほんの少し苛立ちを覚えながら、絵をもう一度覗き込む。
階段のあたりを見た灯篭は、先ほどの絵にはあったはずの影がないことに気づいた。
「……ん? 気のせいか?」
「眩しくて目が眩んでいた、とかだったらあたし怒りますよ。まったく、三回もあたしに描かせるなんて、どこの富豪ですか」
ぶつぶつと文句を言うトトリを横目に、灯篭は絵を見つめている。
気のせいだったとは思えないようだ。
「玄関にあるぞ……玄関に、影があるぞ!」
灯篭は咄嗟にトトリの腕を掴み駆け出す。
同時に開かれた扉から、ふらりと何かが現れる。
一度見た男だ――一度殺されかけた男だ。
人がいたら絵になるようなことをトトリが言っていたことを思い出し、その男が人ではないという答えに辿り着く。
まさか欠片が人になったのかと灯篭は考えた。
欠片が酒樽に変化したところを既に見ている灯篭には、信じられないこともない可能性だ。
しかし、欠片はあの少女の頭にあったのだ。
あれが何の力もない石であるはずがない。
「ヒィ! すごくイケメンじゃないですかあの人ぉ! モデルにもできないイケメンですよあれ!」
「黙って走れこの馬鹿! おれにはすでに脂肪っていう大荷物があるんだよ!」
帽子を片手で押さえて、トトリが踏み込むと、簡単に灯篭は追い抜かれてしまう。
しかし、腕は掴んだままだ。
何か嫌な見た目になると思い手を離した灯篭の腕を、逃さないように掴み返したトトリは、にやりと嫌な笑みを浮かべて灯篭を引っぱりながら走っていく。
「ま、待て! 限界がある! それに、すごく格好悪いぞこれは!」
「葵くんなら抱えて逃げてくれるんですよ。ちょっとは男らしいところ見せないと、ほらほらっ」
風に煽られて飛ばされた灯篭の帽子を置いて、二人はただ一目散に逃げていくのだった。