復讐鬼 イレギュラー ④
時間にして十二秒。
しかし、灯篭にとっては、何時間にも感じられる絶望の時間だった。
カサカサとビニール袋が走っていく。
その音が恐ろしかった。視線を動かすわけにはいかない。
しかし、もしかしたら、その音が攻撃なのかもしれないと思うと、気が気ではなかったのだ。
名乗りもせず、ただ姿勢が良い男は、灯篭の数倍、王家が似合っている男だと思った。
姿勢もそうだが、一番は見た目だ。
吐き気がするほどの格好がいい男である。
彼がただの人間だったら、意味もなく舌打ちをぶつけてやりたいと思う灯篭だが――。
「……」
何もされなかった。
背を向けて、力を入れた様子もなくふわりと浮かび上がった男は、振り返ることなくビルの街へ飲み込まれていく。
いつもの灯篭なら「助かった」と安心して腰を落としてしまうだろう。
一瞬、葵の横顔が脳裏を横切った。
罪悪感か――欠片を邪な理由で求めている自分が申し訳なく思いつつあった。
自分が汚い人間だと自覚しているからこそ、白竜の言葉のあの瞬間の横顔を思い出してしまうのだろうか。
希望を見つけたあの表情を。
自分の汚さは、これからどうしても変わることはないだろう。
しかし、葵の手助けになりたい感情は嘘ではなかった。
あの男はただの男ではない。
きっと、太陽の欠片が関係しているだろう。
灯篭は再度走り出した。
一日でこれだけ走ったことはなかったが、思ったよりも疲れを感じていない灯篭である。
ほんの少ししか休めていなくても、足はまだまだ動きそうだ。
消えていった男を追って角を曲がっては走り、脇腹を抑えながら咳き込む。
葵が灯篭から離れていった時、彼は驚くべき速さで駆けていった。
それに比べれば、追いかけている男の速さはたいしたものではない。
空を飛ぶように走っているだけで、足の速さは一般人のものと大差がないのだ。
足が遅い灯篭でも、見失わないことだけは可能だった。
追いつくことは、彼が足を止めるまで出来そうにないが。
ずっとビルとビルの間を走ってきた男は、ふと姿を消した。
人気のない道である。
尾行にばれたのかと思った灯篭は、咳き込みながら身構えた。
そもそも隠れて追いかけてきたわけでもなく、ただただ必死に走って追いかけていたのだから、ばれないほうがおかしな話なのだが。
ビル風に煽られて眼を細めると、どうやら一人だけ、この路地には立っているようだった。
しかし、灯篭のほうを見向きもしない。
「……学生か?」
女子高生だ。
肩を摩りながら、ふらふらと歩いている。
声をかけようと数歩歩いた灯篭は、妙な感覚に足を止めた。
「な、なんだ」
寒気か。
生唾を飲み込んだ灯篭は、体が震えていることに気づいた。
これまでにない感覚だ。
視線の先にいるのは、ただの女子高生のはずなのに、灯篭は恐れている。
息を止めなくてはならない。
灯篭は口を両手で覆い目を見開いた。
あれから目をそらしてはいけない。
しかし、彼女を追いかけることはできない。
追いかけていた男だけでも精一杯だというのに、灯篭でも感じてしまう嫌な気配は、ビル風に乗って正気を抉っていくようだった。
「だあれ」
膝をついた灯篭は、一度だけ瞬きをした。
彼女が振り返っている。
風に色が見えた。
黒ずんだ紫だ。
毒にも見えた灯篭は、跡がつくことも気にせずに口を押さえた。
それは毒ではないが、結果的に、灯篭の命を救うことになる。
『息してるやつなんて、みんな死んじゃえばいいのに』
吹き飛ばされそうになる暴風を、体を丸めて耐えた灯篭は、風の音の中に混じる断末魔を聞いた。
振り返ると、鼠の死骸、猫の頭――この道で息をしていた生き物が一瞬にして滅ぼされたのだ。
頭のない尾を持ちぶら下げている男が立っている。
灯篭が走って追いかけてきた男だ。
目が合った。
もう灯篭は口を抑えていない。
目を瞑った。
目を離すまいと考えていたはずの灯篭に限界がきたのである。
目の前で刃物を突きつけられれば、人間は誰でも目を瞑る。
恐怖心もあるだろうが、体が身勝手に体を守ろうとする反射が原因だ。
目は潤っていた。
ずっと無理に目を開け続けてきたせいで、涙が溢れていたのだ。
瞬きをしてしまったせいで、視界が歪んでいる。
振り下ろされる腕を見ても、灯篭は落ち着いていた。
諦めているわけでもなく、いまなにをするべきか考えていたのである。
「うあっ!」
動きに無駄はなかった。
初めからそうするべきだとわかっていたように、彼の体は勝手に動いたのだ。
太陽の意思なのか。
灯篭は感謝した。
大事に仕舞っていた欠片を握り、振り下ろされる腕に向けて掲げると、小さな泡が発生したのである。
それは衝撃を吸収し、次第に大きくなっていく。
灯篭の丸い顔に張り付き、しかし割れることなく巨大化し続け、最後には彼の体を囲った。
繰り返される猛打を、泡は簡単に防ぐ。
灯篭は泡が少し凹むたびに体を震わせたが、自分の身が安全になったと確信した途端に――。
「や、やれるもんならやってみやがれ! ばっ、馬鹿野郎が!」
人差し指をさして言い放った灯篭だが、飛んでくる拳に怯えて、指を大事に握って隠した。
「なあにそれ」
泡を踏みつけて、遠くにいたはずの女子学生は言った。
安全だとわかっていても、近寄りがたい人間だった。
人間でいいのだろうか。
灯篭が躊躇してしまうのも仕方がないだろう。
彼女の体は人間だが、一部だけにある異物を無視することは不可能だ。
「痛くないっていいよね。痛くないってすごく幸せなこと。どれだけ蹴っても、殴っても、痛くないんだから。お前、すごく報われている人間なのね」
一度蹴りを入れた少女は、笑い声をあげながら続けざまに数回蹴りを入れる。
とはいっても、男とは違い衝撃は殆どない。
しかし、灯篭は仰け反った。
男よりも、この少女のほうが危険に思えて仕方がないのである。
腕には赤い線がいくつも走っている。
ペイントというには生々しく、じんわりと滲んでいる血は、どうやら傷のようだ。
爪先の汚れは、その傷を作った時にできてしまったものだろう。
そらしていた視線を、覚悟して顔に向けた灯篭は、息を詰まらせる。
右目の辺りから生えている角のような――赤く点灯する欠片は、おぞましい気配の原因に違いない。
手で握られるほどの大きさではなかった。
数倍、下手をすれば十倍はあるかもしれない。
光が灯篭を睨んでいる。
それが右目の代わりをしているのだ。
「まあいいわ。関係ない人なんて、どうでもいいし」
最後にもう一度蹴りを入れてから、彼女は背を向けた。
『いつのまにか、家に帰っていたらいいのに』
男は彼女を抱え上げ空に飛び上がる。
もう安全になったとわかっていても、灯篭はしばらく動けないでいた。
握っていた欠片が砕けてしまっても、息をすることを忘れていて咳き込んでしまうまで、灯篭は呆然としたままだったのだ。