初めて ③
7
彼女には魔法という、戦うことのできる力がある。
魔法士より優れているというならば、わざわざ《逃げ》を選択する必要はないではないか。
公園の後、もう一度白いローブの後ろ姿を見たけれど、僕たちがとった行動はやはり《逃げ》だけだ。
後ろを取るというアドバンテージを利用して、襲い掛かることもできるはずだというのに、彼女はそれをする気がない。
本当に彼女は、僕を守ってくれるのだろうか。
そんな僅かな疑いからか、僕の態度に異変があったのかもしれない。
彼女は何か言おうとしたのか口を開き、しかしすぐに首を振ってやめたように見える。
お互いが何も知らない同士なのだから、魔女と一般人なのだから、うまくいかないのも仕方がないだろう。
「「あ」」
同時に鳴った力の抜けるような腹の虫の鳴き声は、二人の違いを否定するかのようだった。
僕は耳が赤くなっている彼女の後ろ姿をみて、すぐ近くに見えるコンビニを指差す。
「何か食べようか」
指先を追ってコンビニを見つけた彼女は、恐る恐るといった様子で頷いた。
自動で動く扉にぴくりと肩を震わせた彼女は、一歩一歩安全を確かめるように中に入っていく。
それではまるで中に白いローブがいるのかと恐ろしくなり、僕は慌ただしく首を動かして店内を見渡したが、もちろんそんな人影はない。
外の暗さのおかげで痛いほどの光量と、暖房の風に乗ったおでんの出汁の香りが僕たちを迎えてくれた。
バインダーとにらめっこをしている男店員は、僕たちをみてぺこりと頭を下げるだけで、また作業に戻る。
在庫の確認だったり、シフト確認だったり、店員は客相手だけが仕事ではないのだ。
きょろきょろと店内を見渡す彼女は、一歩踏み出しては戻すことを繰り返すだけで、足マットの上から動きそうにない。
作業に戻ったはずの男店員が、気になるのかちらちらと彼女を盗み見ているが、彼女自身そんなことには一切気づきもせず、そしてついに涙目で僕に振り返った。
「っ!」
傍を逃げるように走り出した彼女は、自動ドアに張り付きつつもなんとか外に飛び出し膝を抱えるように座り込んだ。
暖房を嫌がったのか、おでんの香りが嫌だったのか、それとも男店員の視線が嫌になったのかわからなかったが、僕はまばらに並んだおにぎりを抱えて支払いを済ませた。
バインダーを隠すように後ろに置いた男店員は、僕と同じように外で座り込む彼女のことが気になっているようである。
二人でお互いの顔を見もせず外を見ているという光景は異質なものであったけれど、僕が外に出る頃には、彼はもう気にしていないようだった。
「買ってきたよ」
背中を向けたまま立ち上がった彼女は、そのまま早足で暗闇に飲まれていく。
「あ」
と僕は彼女の服装を思い出した。
僕は彼女がどうしたのか心配だっただけだったが、あの男店員は彼女の服装の異様さに驚いていたのかもしれない。
しばらく無言で歩き続けた彼女は、うつむいたままバス停のベンチに座った。
勢いに押し出された雪が音を立てて滑り落ちる。
タイツも履いていないのに、いや、履いていても直に雪に座ることは辛いと思うのだが、僕は雪を払ってから隣に座った。
レジ袋に手を突っ込み、誰にも買ってもらえなかった余り物のおにぎりを差し出す。
彼女は首を振って、両手で顔を覆った。
お腹が空いているのは確かなのだろう。
ダイエットだとか、そういうことではないのはすぐに分かった。
「お腹空いてるんだろ」
手袋を外して1、2、3と数字を追い、海苔を整えてからもう一度差し出した。
しかし彼女は顔を隠したまま首を振り、尻尾のように垂れ下がった後ろ髪が弱々しく揺れる。
「食べたことないの」
震える声に僕は息を飲んだ。
「本当に?」
やっと顔を晒した彼女は、潤んだ瞳でシューズのつま先を見つめていた。
恥ずかしいから泣いているのだとは思えなかった。
どれだけ考えても、僕には彼女の感情がわからない。
二人の間のおにぎりは、ぱたぱたと海苔を羽ばたかせて、今にも消えそうな街灯に照らされていた。
だから僕は衝動的におにぎりを齧った。
「うまいよ」
少し乾いてしまっている米粒を噛み潰し、飲み物を買わなかったことを後悔しながら僕は笑った。
余り物だから、具はよくわからないものだ。
噛むたびに広がる磯の風味は、パリパリの味付け海苔とはミスマッチである。
作った人間の味覚を疑いたくなる味だった。
そうして噛むたびに、うまいと言ったことが嘘になるではないかと気がついた。
これを彼女に食べさせるのも気が引けたので、僕はまた大口を開けて半分ほどを噛み切る。
花が咲くように開いた海苔につられて、お米と具材が転がり落ちようとしている。
口いっぱいの僕はもごもごと顎を動かしスペースを作ろうとした。
口に運ぼうとしたところで
「ふぁ」
僕の指ごと咥えた彼女は、顔を逸らして咀嚼している。
唾液に濡れた指先が、雪風で凍ってしまいそうだが、僕はまた袋に手を入れて次のおにぎりを手に取った。
「なによ、おいしくないじゃない」
何故彼女が泣いているのかなんて、どうだっていいのだ。
彼女の口におにぎりを向けて、咀嚼する姿を見守った。
膨らむ頬が、喉のうねりが――飲み込むたびに目を瞑り、体全体で食事をしているようだと思った。
ぎこちない食事風景はしばらく続き、最後のひとかけらを飲み込んだところで彼女はほっと息をついた。
細い指がほんのりと赤くなった頬を撫でて、ゆっくりと目を閉じる。
手のひらはそのまま胸を伝い、ふとももに届いたところで僕の行き場のない視線が突然開かれた彼女の瞳に捕まった。
「あ、いや……」
ごまかそうと慌てて背を向けたけれど、それでは悪いことをしていたと認めるようではないか。
じっくりと見ていたけれど、それこそ目が乾くことを忘れてしまうくらい、ぱっちりと見てしまっていたけれど。
「食事が初めてだったのよ」
と、彼女は言った。
僕はしばらくその言葉の意味を考えたが、うまく答えにたどり着かない。
いや、言葉の意味だけは簡単なのだ。
ただその意味が、理解できないだけなのだ。
納得できないだけなのだ。
二度目の心からの笑みを僕は見たのだと思う。
「ありがとう」とお礼を言われても、僕は釈然としなかった。
「私は二歳の頃に親を亡くして、姉も二年前に亡くしたわ。姉が親代わりみたいにいろいろ教えてくれたけれど、外のことだけは教えてくれなかった。きっと姉も何も知らなかったのだとは思うけど」
「だからって」
食事をしたことがないということはおかしいではないか。
これまで彼女はどうやって生きてきたのだろう。
何も食べていなければ生きられない。
人間には外からのエネルギーが必要なのだ。
「魔女だもの。必要なかったのよ」
お腹が空いたと、彼女のお腹は悲鳴をあげた。
その時彼女は恥ずかしそうに顔を逸らしたというのに、空腹は知っているというのに。
でも僕には、彼女の嘘を問い詰めることができなかった。
僕が知っている食べ物とは違うものを食べていた、という可能性だってあるだろうけれど、彼女の陰のある表情には口を閉ざすしかなかったのだ。
時刻表と並んでいる時計の長針がカチリと音をたてる。
膝上に置いていた手袋が、風に流されて雪の上を転がっていった。
僕が動く前に立ち上がった彼女は、手袋を拾ってクスリと笑う。
「大事なものでしょ」
もしこの風が彼女の力によるものだとしたら――僕は首を振った。
話を切られたように思ってしまうけれど、ただの偶然なのだ。
夜九時を回り、日が昇るまで八時間ほどだろうか。
またカチリと時間が進む。
いずれ僕たちは別れることになるだろう。
守られているだけでいいのだろうか――。
「……」
僕はハッとして口元を押さえた。
あまりにまずかったおにぎりのせいでもなく、自分のものではないような感情を吐き出し、追い出さなければならないと体が反応してしまったのだ。
僕は死にたくないだけなのに、それと同じくらい、彼女にも死んでほしくないと思い始めていることが――。
そんなことはできない。
一番は自分でなければ。
同率なんてものは許されない。
「大丈夫? ほら、すぐに手袋をはめて」
心配して手袋をはめてくれる彼女の前髪が、見ていられなかった。
彼女は――太陽は、僕を守ってくれるだけの存在だ。
だから、太陽のことを訊くのはもうやめよう。