コヲトシの夢 ②
いつもならそんな、はしたないことをする少女ではない智子でも、角を曲がる瞬間、覚悟を決めた。
正体不明――それがコヲトシの落ちたこどもであるとは何となく想像できても、理解はできない。
彼女はただ見送っただけであり、復讐の対象になるはずもなかった。
けれど、智子は追われている。
逃げ切らなければ、殺されてしまうに違いない。
智子は、女子高生としての羞恥を捨てた。
スカートを引き裂き、走ることだけを考える。
角を曲がった先にいたスーツ姿の男性は、一瞬目を見開いた。
智子は自分が地味な、何の取り柄のない女だと自己評価している。
胸は小さいし、髪は純粋な黒でもない。
癖っ毛はいつもならヘアアイロンで整えているが、今日はその前に外に出てしまったために癖が残ったままだ。
それでも、智子の華奢な体つきは、見る人からすれば見惚れるほどの美しさだ。
走った勢いで髪は踊り、癖など誰も気付きやしない。
布の切れ間から覗く下着を期待して、男性は足を止めた。
智子は男性の目をとらえる。
目が合わないが、自分が見られていることはわかった。
智子は、それでも男性に向かって走った。
ここからは一直線、どこに向かうにしても、人がいない場所にはいけない。
人が多い方向に行く必要があると智子は判断したのだ。
その判断が正しかったかどうかは、その数秒の間で確信を得ることになる。
急激な方向転換を追って、コヲトシは足を滑らせ地を蹴った。
羽を羽ばたかせてバランスをとり、電柱に体を擦らせながらも、曲がり切る。
その光景を見ていたのはスーツ姿の男性だけだ。
若い潤いのある肌に見惚れていたはずの男は、その少女の背後から、何かがやってきていることに気づいたようだ。
黒一色――いや、一色ではない。
クチバシに赤い血が見えているはずなのだ。
しかしその一瞬で、全身の黒に隠れるほんの少しの血に気付くはずもない。
智子は声をかけることもなく、男の傍を走り抜ける――。
男の疑問は、彼女がいったい何に追われているのかというところだった。
その点を説明できるのは智子しかいないと考えるのは、仕方のないことである。
説明を求めて、初めて視線を合わせようとした男性だったが、智子は全く彼を見ていない。
逃げることしか考えていないからこそ、彼女はスカートを引き裂いたのだから。
「ぎっ」
男性はビジネスバッグごと宙に浮いた。
何が起きたのかと視線を落とすと、底の見えない闇があった。
光を本当に見ているのかわからないほどの深い黒の瞳は、しかしどうしてなのか、純粋さのようなものを感じさせる。
子供が見たことのないものを初めてみたような瞳だ。
だからなのか、男性は悲鳴をあげることはしなかった。
クチバシに挟まれ、持ち上げられているとしても、安心できたのだ。
智子はその光景を振り返った。
足を止めることを戸惑ったが、その光景にはそうさせるだけの衝撃があったのだ。
角を曲がるまで、智子は一度も振り返らなかった。
というのも、ただ逃げることに必死だったということだけでなく、後ろを向いて走るという方法を知らなかったことが一番の理由だろう。
智子が自身を地味だと思っている理由の一つに、自身の所属している部活動がある。
彼女は短距離走の陸上選手をしていて、その競技のシンプルさが気に入っていた。
ただ走るだけ。
もちろん、走るだけと言うにはあまりに多くの技術が、短距離走には必要とされるのだが、智子はそれを難しいことだとは思わなかったのである。
しかし、走るだけと言えるだけのシンプルさが、見ている側にも理解できてしまうところ――そこが地味だと、智子が思うところなのである。
智子が陸上競技の中で、一番華があると思っている競技は、棒高跳びである。
走るだけでない。
跳ぶだけでもない。
棒と戯れるだけでもない。
そこには美しさがある。
宙に浮かぶ体には、芸術性が溢れている。
もしかしたら長距離走にはと智子は思ったことがあった。
が、あるワンシーンを見てから、智子は敗北を認めざるを得なかった。
先頭を走っていた選手が、ゆっくりと後ろを振り返ったのである。
十分に距離は離れていたから、そのようなことをする必要はなかったはずだ。
智子が所属している陸上部にも長距離走をする選手はいる。
智子が親友と認めている桃花という同い年の少女も、その長距離走の選手だ。
「順位は後からついてくるもの。桃花だけじゃないと思うけど、自分のタイムさえはやくなっていたらそれでいいんだよね」
だから、桃花は後ろを気にしない。
彼女を応援しに行く智子も、桃花が後ろを振り返ったとことを見たことなかった。
でも、後ろを振り返る選手はいる。
離れている選手を煽っているわけではなく、その距離を確かめ、安心して走るためだ。
つまり、自分のペースを乱されないために、ということだろう。
そこには華がある。
その、安心した走りには、美しさがある。
もし安心できず、ペースを上げることになったしても、その決意の表情には、歪んだ表情には、胸を打たれる熱さがある。
短距離走で後ろを振り返る者はいない。
そもそもほとんどの場合横並びで、後ろを振り返っても誰もいないのだが。
キィ。
鳴き声をあげたと思うと、次に聞こえたのは男性の悲鳴だった。
三メートルはある巨体のクチバシは、男性の左半身をほぼ飲み込んでいる。
もし足や頭から咥えていれば、飲み込まれていたかもしれない。
家で見た時はもっと小さかったはずだ。
智子は男性を助けるべきか考え、すぐさま切り捨てる。
これではっきりしたのだ。
狙われているのは智子ではなく、目についたものなのだと。
智子以外に何かがいれば、それを狙う可能性は高い。
素足を見せてやったのだから、そのお礼として犠牲になってもらう――非道と言われても仕方がない。
智子は彼を見捨てて背を向けようとした。
キィ。
想定外だったことは、コヲトシが男性にすぐさま興味を無くしたことだ。
吐き捨てるように地面に叩きつける。
男性は意識を失っているが、それが逆に功を奏したのかもしれない。
コヲトシと目が合う。
キィ。
コヲトシは口を開けて、声をあげた。
「違う」
コヲトシは意識を失ったままの男性を、確認するように何度も突いた。
体格差のせいか、男性の体は力に押されて転がる。
キィ。
コヲトシはまた、智子を見た。
「違うってば」
コヲトシの子供が声をあげる時は、そのほとんど場合お腹が空いているという意味である。
智子はそのことを知っていた。
それは体こそ大きいが、一度は死んだはずの存在――つまり中身は子供のままなのだ。
食事の仕方を知らないのである。
だから、とりあえずは口にいれた。
しかし、口に入りきらなかったから、それは食べ物ではないと判断したのだろう。
智子はただ、コヲトシは追いかけてくるだけだと思っていた。
そもそも人が多い場所を目指したのは、誰かに助けてもらうためである。
街に行くまでにこの光景を見られたことは幸福だった。
人が多い場所にはもう逃げられない。
今は大人の男だからよかっただけだ。
もし、子供がコヲトシに捕まれば、どこから咥えられても簡単に飲み込まれてしまう。
まだ大きくなってしまえば――智子自身も、食べられてしまう可能性はある。
笑い声が聞こえた。
どうやらその声を聞いたのは、智子だけではないらしい。
コヲトシは首を伸ばし、キョロキョロと辺りを見渡している。
近くではない。
でも、子供の声だ。
小学校の登校時間になってしまっていることを、智子はすぐに理解した。
「いい? いい子だから、そこから動かないで」
笑い声が聞こえる。
朝の登校は、憂鬱ながらも、ほんの少しの時間会っていなかった友人に再会するだけで楽しく思えるものだ。
だから、自然と笑ってしまうことも仕方がない。
いつもならそんな笑い声を微笑ましく思う智子だが、この時ばかりは子供たちを恨んだ。
「お願いだから静かにして……」
思っていることを口に出していることも気づかない。
智子はコヲトシを睨み、手のひらを見せて必死に静止させようとする。
キィ。
瞳が瞬時に、道の先を横切っていく子供たちをとらえた。
子供を見ていない智子でも、コヲトシが何を見たのかはすぐにわかった。
だから智子は、背を向けて走りだす。
体をひねり、足を回し、腕を振り――体をぶつけられた街灯が、簡単に砕けて落ちていく。
智子は後ろを見ない。
聞こえてくるのは智子たちに気づいた子供の悲鳴と、街灯の崩れていく音、そして四メートルは超える巨体の揺れていると錯覚させるほどの足音だ。
刹那――。
智子は動けなくなっている子供に手を伸ばして、後悔した。
子供は三人。
抱えて逃げるなんてできるのだろうか。
普段からトレーニングをしている智子になら、一人を抱えていくことくらいならできるだろう。
一人だけだ。
二人を見捨てることになる。
伸ばした指の先に、落とされていくコヲトシの子供の幻影を見た。
彼女がこれからしようとしていることはそれだ。
一人を助けて二人を見捨てる――ではなく、一人を突き倒し、二人の手を引いて逃げ出すということ。
なんて残酷なことを思いつくのだ。
男の子二人と女の子一人。
突き倒すとすれば、男の子のうちのどちらかだ。
一人の男の子は女の子を庇うように前に立ち、怯えながらもコヲトシを睨んでいた。
勇敢な少年だ。
もう一人の男の子は、ただ怯えているだけ。
弱い少年だ。
智子は、その少年を選んだ。
「その子を連れて逃げて!」
女の子を指差して、勇敢な少年に指示した智子は、怯える少年を突き飛ばさなかった。
どうしてか、智子はこのコヲトシには襲われないという自信がある。
お腹が空いていると、まるで親にいうように鳴き声をあげるからだ。
食べ物として智子を見ているのなら、そんな声をぶつけてくるはずもない。
逃げていく二人の子供を見送って、泣くだけの男の子の頭を撫でた智子は、謝りながら小さな体を抱きしめた。
「私も一緒だから」
口が大きく開かれている。
いつの間にかまた大きくなっているようだ。
もう智子も、一口で食べられてしまう大きさである。
男の子を離さなければ、智子も道連れだ。
いや、そもそもこの少年がこのような目にあっているのも、智子の責任なのだ。
彼女はだから、少年に謝ったのである。
食べられない可能性があった智子は、可能性を断ち切り、また強く、男の子を抱きしめた。
光が遮られる。
もう後は、これが閉まっていくだけだ――。
キィ。
覚悟して閉じた目を開ける。
空が見えた。
腕の中の男の子は、智子ではなく、二人と巨体の間に立つ背中を見上げている。
「大丈夫かい」
癖のついた前髪。
ぱっちりとした二重。
茶色の混じった瞳。
口元の二つ並んだ黒子は同じ年頃の少年にしては色気を感じるものだった。
「あなたは……?」
逃げ出す必要がある。
とわかってはいても、智子は自分たちを助けてくれた少年に、そう尋ねてしまった。
どうしても、訊かなくてはならないと思ったのだ。
「葵だ。ほら、はやく逃げて」
智子の初恋である。