アマタの咆哮
何度目か分からない夢の中で、彼女はまた、僕に何かを訴えかけている。
「××××」
分からないよ、と僕は答える。
もちろん、僕の声も声になっていないのだ。
ただ口が動いているというだけで、お互いに言葉は通じない。
これは夢なのだ。
だから、もし言葉が通じたのだとしても、僕が望んで見ている光景に違いない。
僕の声に、そう答えてほしいという願望を叶えてくれるだけだ。
けれど、この夢はそうはならなかった。
彼女の声を求めているのに、僕からの声を届けたいのに、それが叶うことはない。
必死な顔は懐かしくて、あの、二人で駆けた夜を思い出してしまう。
いつもなら、そこで目が覚める。
夢で彼女と出会ったことも忘れて、どうして涙を流しているのかも分からないまま、ジリジリと止まることのない目覚まし時計を止めに行くのだ。
「××け×」
夢を見ている間だけ、そういえばこの間も同じことがあったと思い出す。
「葵」
突然、世界が移り変わる。
頬を叩かれて目を開くと、同居しているお姉さんが、真剣な眼差しで僕の顔を覗いている。
「どうしたの、お姉さん」
「嫌な予感がする」
その言葉を聞いて、僕は自ら頬を叩いた。
寝ぼけている場合はない。
あれから随分時間が経った。
お姉さんの魔力は、ほとんど元に戻ったようである。
彼女が言うには、無理をしすぎて容量が少なくなってしまったらしい。
けれど、もともと強力な魔法を使わない彼女には、あまり影響はないようだ。
「わたしは行く。あなたはここにいて」
出て行こうとする彼女を慌てて引き止めた。
「どこに行くのさ。何が起きるんだよ」
「わからない。けれど、きっと良くないことが起きようとしている」
止めても止まらないのは薄々気づいていた。
数ヶ月の間一緒に生活しただけだけれど、彼女の性格はほとんど理解している。
自分がそうだと思えば譲らないのだ。
僕が何を言っても、自分が正しいと思い込んでしまうのである。
「危ないことが起きようとしているのなら、お姉さんが行ったって、何もできないんじゃないですか」
「……」
厳しいことを言っている自覚はある。
けれど、もう止まらない彼女には、まずはっきり言うべきなのだ。
「僕も行くよ」
「だめ」
「僕も行く」
彼女だけが自分の意思を通すのはずるいではないか。
僕だって、たまには好きにさせてくれたっていいはずなのである。
「僕はこの数ヶ月でお姉さんから教わった魔法の知識がある。もう僕には敵わないって、自分で言っていたじゃないですか」
「う……」
数ヶ月、ただのんびり暮らしていたわけじゃない。
何もすることがない僕たちは、お姉さんの魔法力を回復する合間に、僕の使える魔法を鍛えてきた。
以前のような、ただ爪を伸ばすだけの戦いなんてしない。
「体をひとつ置いていって。それなら、ついてきてもいい」
「よし」
二つだけだった分岐も、今では三つまで可能になった。
ここに一つ選択を置いていったとしても、戦闘になってしまったとして問題はない。
外出用の服に着替えると、玄関で待つお姉さんと合流し街にでた。
どこに向かうのかまだ教えられていない。
何かが起きるかもしれないというお姉さんの予感は、この街の光景からでは想像できないものだ。
信号を渡る人波の中に紛れて、どこにでもいる人間のように僕たちは歩いていく。
「車を拾う」
歩いて行ける距離ではないとわかったらしい。
お姉さんの魔法《透視》だ。
遠くを見るだけでなく、その場にいる人間の心まで観ることができる。
すごい魔法だなんて、感心している場合ではない。
観測できたのだ。
お姉さんは敵の存在を見つけたのである。
これから本当に、何かが起きてしまうということだ。
何が起きてしまうのだろう。
お姉さんはまだ何も教えてくれない。
もしかしたら、彼女にもまだ、何が起きるのかまでは分からないのかもしれない。
「開けなさい」
信号待ちをしている車の窓を叩き、彼女は命令した。
一瞬怪訝な表情を浮かべた運転手は、お姉さんを見て途端に態度を変える。
きっと僕も、あんな状態にさせられていたのだろう。
自覚もないまま、見事に洗脳されてしまう。
いつも買い物の帰りになると、歩くのは疲れると言って勝手にこんなことをする。
タクシーではお金がかかるので、一般人をうまく利用しているのである。
タクシーの運転手を洗脳しないのは、征服感がないからだと言っていた。
どこまで本気なのかは分からないが、いつ通るかわからないタクシーよりも、よっぽど捕まえやすいのは確かである。
「あれ?」
車に乗り込んだはずだった。
見慣れた光景に困惑する。
当然、ここにはぼくがいたのだから、何もおかしなことなんてないはずなのである。
「収束したのか……!?」
体に痛みはない。
死んでしまえば、一方に強制的に収束することは、すでに経験済みだ。
けれど、死の経験はそのまま残るはずなのだ。
痛みがないまま、こうして一つに戻ることなんてないはずなのだ。
一足しかない靴を後悔しながら、スリッパでアスファルトを蹴る。
しばらくして、街からサイレンの音が聞こえてきた。
「……」
ついさっき見たはずの乗用車は、もう元の姿を思い出せないほど歪んでいた。
何が起きたのかわからないのは僕だけじゃないらしい。
近くには大勢人が集まっているが、なぜこんなことが起きたのか分からないのだ。
街中の、ビルが建ち並ぶこんな場所で、岩石に押しつぶされた乗用車の姿など――。
先手を打たれたのだとすぐに理解した。
車で移動する必要があるほどの距離から、僕たちがいたあの場所に、ピンポイントで岩石を?
魔法だけでそんなことが可能かどうかは僕にはわからないけれど、実際に起きたことだ。
僕は死に、きっとお姉さんもあの岩石の下敷きだ。
「あ」
誰かの声だった。
その声につられて、その光景を不思議がる声が雪崩のように押し寄せる。
空を一閃――。
何かが走っていく。
どこに向かうのだ。
『たすけて』
どうして今になって、今にならないと、その言葉がわからなかったのだ。
あんなにも、彼女は僕に助けを求めていたのに、僕は――。
時間にして、おおよそ五分。
それは空を見上げるにはあまりに長い時間だった。
けれど、誰もその長さを苦だとは思わなかったのだ。
神秘的にも思える空を走る光線は、ミサイルだとか、飛行機だとか人々の声を無視して進んで行く。
行く先に真っ先に気づいたのは、もちろん僕だった。
世界が割れる音だ。
明るく世界を照らしていた太陽は、ほんの一瞬、一際大きな光を発して爆発した。
砕けた光が花火のように散っていく。
その日、空を見上げなかった人は居ないだろう。
太陽が散った――。
だれもが、その光景をはっきりと記憶しているはずである。
それは、何にも例えることのできない、誰もが息をのむ絶景だった。
空から降ってくるなにかを、彼らは惚けた表情のまま、例え自分のもとに落ちてきていようとも、ずっと目で追い続けていた。
新章より、夜のみの更新となります




