あさひを追いかけて
51
突然やってきた夏は、街に活気を与えることもなく、ほとんどの人間の体に悪影響を及ぼした。
急激な気温変化は、体調を崩させることができるのである。
あさひがいなくなってから、僕は秘密基地のある古家に住んでいる。
誰一人近づいてこないのは不思議だけれど、誰かに会ったところで何も話すことなんてないだろうし。
時々こうして、街を散歩することもあるけれど、僕のことを知っている人はどこにもいない。
魔法士として、魔法使いとして、僕は空木木葉という名前を残したまま、空木木葉という存在と記憶を失ってしまったけれど、それはきっと、僕だけが認識できていればいいのだと思う。
何度か母の姿を見かけることがあったけれど、その姿はどの街にでもいる普通の主婦だった。
手や足が包帯に巻かれていたのは、きっと僕を探してさまよっていた時の傷なのだろうけれど、その傷が僕のせいだったとしても責任は問われないだろう。
もう、誰かを探していたことすら、思い出せないだろうから。
開きっぱなしの玄関から中に入ると、凸凹のバケツを頭にかぶった女性が、恨めしそうに僕を睨んでいた。
「何してるのさ」
普段下着をつけない彼女は、水浸しの男物シャツで肌を透かして、僕に聞こえないように文句を言っているようである。
「はっきり言えって。どうせまたドジしたんだろ」
「ぶー」
ひたひたと雫を垂らして、まだ身体中包帯だらけの彼女は、それなりに僕と仲良く暮らしている。
あの時のような暗さはもうなく、どうやらもう身体中の魔力を使い切ったせいで、ただの年上のお姉さんとなっていた。
そう言ってしまうと、かなり不機嫌になるのだけれど。
そういったところは、どこか姉妹似ているのかもしれなかった。
「手伝うから、ほら」
手を伸ばすと、バケツを被ったまま僕の手を握り「起きれなぁい」と全く力を入れようとしないので、無理やり引っ張り上げる。
とても重たい。
「痛っ!」
とか思うとすぐに攻撃してくるので、僕はあまり好き勝手物事を考えられないのである。
バケツを取ってやると、頭の上にゴミが張り付いた雑巾が堂々と居座っていた。
僕が頼んだ通り、ちゃんと掃除をしていたらしい。
その過程でバケツを被ったのは、暑かったからいてもたってもいられず、自分を抑えきれず、突然にそうしたのだということにしよう。
と思うと、何か言いたげな彼女が僕を睨んでいるが、転けてぶつかって、いろいろあった結果頭に被ったと思われるよりはマシだと思うのだ。
ため息混じりに視線を外すということは、それで納得したらしい。
僕が彼女の話を聞いて思っていたことは、どうして姉である彼女に、わざわざ他人行儀な頼み方をしたのだろうかということだった。
本当に彼女を家族としてみていないのなら、家畜としてみていたのなら、わざわざ頼むような言い方なんてしなかっただろうから。
僕はこの家にやってきて、まず初めに僕の秘密基地に行った。
中には僕の残骸と、あさひが置いていった遺書が挟んである紙束だ。
そこにはあさひだけでなく、一族代々の遺書が並んでいた。
それを読んで僕は確信したのだった。
きっと、彼女の母は、あさひにだけ魔女の使命を負わせるつもりだったのだ。
才能がある妹が魔女として長い間使命を果たせるのであれば、姉であり、才能がない彼女には何もしてもらう必要はないと。
妹が死なないよう、育て、教えることさえしてくれたのならば、あとは自由に生きて欲しいと、そう思っていたのではないかと。
もう、太陽の魔女にはならなくていい。
そんな風に、彼女の母は考えていたのだろうと、あの場に放っておくわけにも行かなかったので抱えてきた彼女に伝えたのだった。
それが本当のことなのかどうかなんて、死人の話を訊く術がない以上知りようがない話だけれど、決めつけてしまったところで誰にも咎められたりはしない。
死人に口無し――そういうことだ。
「まだやるわけ?」
「二階だけって不便じゃないか。掃除して、全部使えるようにしなきゃ」
もうすぐ十二月になるけれど、まだ夏は終わりそうにない。
ここ数年分のなかった夏が、急にまとめてやってきたとすれば、何も変な話じゃないだろう。
数年分のセミがまとめて起きたように、大合唱を続けてきた彼らだが、しかし終わりそうにない夏を憂いでいるのか、一時期に比べて数は減ったように思う。
迷い込んだセミが、ジジジと彼女の冷たい背に張り付いたけれど、彼女はそのことに気がつかないまま、ぶつぶつと文句を言い、床を磨いている。
「ねえ、お姉さん」
「何よ」
仕方なく文句を言うことをやめた様子で、僕に振り返った。
「ついてきて」
僕の頭にある光景にはもう気付いているだろう。
先に歩き出した彼女は、一番に掃除したベッドの木枠だけがある部屋に入る。
押し入れを開けて、ずっと入っていなかったその場所に、二人で入っていった。
持ってきた懐中電灯で中を照らすと、しばらく来ていなかったからか、土を被ったガラクタたちが横たわっている。
組み上げられている人型の異物を知っていた彼女でも、実物は初めて見ると何か思うことがあるようで、居心地が悪そうに瞳をきょろきょろと迷わせていた。
「見ていて貰ってもいいかな」
「……ええ」
僕は大きく息を吸ったあと、胴体に蹴りを入れた。
その程度で、完全な、壊れるはずもなかった体が崩れていく。
「そうだよな」
こんなことをしていたって、意味なんてなかったのだ。
何度も蹴りをいれ、殴りつけ、手袋のない拳に傷をつけながらも、僕はずっと思い描いてきた幻想を破壊した。
あっという間だった。
空木木葉は、そこで死んだのだと思う。
その鉄の残骸は、数多の欠片は、もう二度と組みあがることはないだろう。
「お姉さん、僕に名前つけてよ」
「は?」
さすがに心が読めても、僕がこんなことを言うとは思っていなかったらしい。
「葵ね」
特に考えることもなく、彼女はそう言った。
「女の子みたいじゃないか」
「その年で僕僕言っている時点で、女々しいのよ。ぴったりだわ」
そう言われてしまうと、なんとも言い返せないのだった。
「なかなかいないわよ太陽に惚れている男なんて。この家に住むのだから、私たちと同じ名字でいいでしょうし」
「うーん?」
家の表札には、向日と書いてある。
それが彼女たちの名字だったのかは知らないけれど。
もしそれが僕の新しい名前として組み込まれれば、向日葵なんて、確かに、太陽に惚れているとはよく言ったものだ。
「でもお姉さん。向日葵って別に太陽を追いかけているわけじゃ――」
僕の言葉を無視して、彼女は秘密基地を出て行く。
僕は一度だけ、崩れ切った過去の姿を振り返ったけれど、すぐに前を向いた。
もうここには、戻ってこないだろう。
秘密基地を出ても彼女がいなかったので、廊下に顔を覗かせると、彼女は玄関の外で目を細め、空を見上げていた。
まだおとなしく背中に掴まっていたセミが、急にジジジと鳴りだしたので、びくりと肩を揺らし慌てて足踏みをしている。
「しっし」
手で払うと、やっと飛びたったセミを追いかけ、二人で雲ひとつない空を仰いだ。
「別にあなたがヒマワリだなんて言ってないでしょ」
急に彼女は、そんなことを言った。
まあ、そうか。
当たり前のことだ。
僕は人間なのだから、わざわざ真似することなんてないじゃないか。
僕は別に、太陽をずっと目で追っていたって、変じゃないってことだ。
きっと、彼女のことだ。
もう冬の時期だというのに気がつかないまま、必死で世界を照らし続けるだろう。
そんな必死さを、僕は知っている。
これから僕は、彼女が照らし続ける世界で生きていこう。
もう《空木木葉》のことを知っている人間はどこにもいない世界で、生きていこう。
魔女の力をほとんど失った、あさひによく似たお姉さんと、魔法使いとも魔法士とも違う僕の二人きりで――お互い中途半端だから、きっとうまくいくだろう。
「ひっくちゅっ!」
鼻水を頬にぶつけられながら、僕は太陽に手を伸ばした。
かざした手のひらは、彼女の頑張りと、僕の生きている証が透けて見えていた。