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太陽の魔女  作者: 重山ローマ
プロローグ 太陽の魔女
43/80

熱き思いを ④

49


 崩れていく魔具の音を聴いている。

 展開される魔法は次々に、動かなくなった彼の体を貫いていく。


 どの魔法も、姉には扱えないものだ。

 きっと、その魔具たちは、母や、祖母や、それ以上前の魔女たちが残し、受け継いできたものなのだろう。

 私に抵抗するためだけに、彼女は持ち出したのだ。

 私はそんなものがあったことも知らなかったけれど。


「死にたくないのでしょう? 死にたくないのでしょう? でも、回復できるから大丈夫だなんて思っているのじゃあないでしょうね。魔法には魔力コストが掛かるのよ。いつまでもつのかしら」


 分岐を許さない猛攻は、彼の体を着実に削っていく。

 気のせいだと思えばそうなのかもしれないが、彼の異常回復のはやさが少しずつ遅くなり――傷が癒える前に次の傷が刻まれることで、いつかそれが、ただの肉塊になることは予測できた。


 私が何しなければ、彼は死ぬだろう。


「  」


 悲鳴もあげられず、痛みに悶えることもなく、弾き飛ばされる血飛沫が、ただ一粒、私の頬に張り付いた。


 溢れた血液は、魔法の熱量で溶けた雪の下、黒く湿ったアスファルトを泳いでいく。

 まだ溶けきっていない雪にぶつかり、少しずつ雪の色を変えていくけれど、しかしほとんどは雪壁にぶつかることで小さな池を作り、液体だったものが次第に固形化していく。


 どれだけもつのだろうか。


 スプレーを浴びせられた蛾の光景を思い出す。

 それは私が見た光景ではない。


 彼の記憶の中で、一際強く刻まれていたのが、その光景だった。

 死を知らない虫たちを、彼は嫌悪していた。

 それはどこか、羨んでいたのかもしれない。

 無知な存在ほど恵まれたものはいないのだ。


 彼はスプレーをかけて、しばらくその光景を眺めている。

 数秒の間、少しばかり強い風だと思い網戸に捕まったままの蛾は、パタパタと羽を蠢かす。

 動かそうとしているのではないだろう。

 動いてしまっているのだろう。


 やっと異変に気がついたのか、飛び立とうと手を離すけれど、向かう先は畳だ。

 うまく羽ばたかせることができず、しかし開かれた羽は空気を掴み、失敗した紙飛行機のように、前後に揺れ、左右に流れ、ストンと落ちた。


 彼はその嫌悪感からか、触ることはしないし、必要以上に近づいたりはしない。

 腕一本分の距離でしゃがみ、スプレーを構えたまま、観察を続ける。


 まだ羽が動いているうちは、半分も死んでいない。

 仰向けに転がり、羽を広げたまま、足をうにうにと動かしている。


『羽を動かさないと、飛べないよ』


 彼はそう言って、スプレーをかける。

 落ち着いていた蠢きが、一瞬激しいものになる。

 喜ぶこともなく、怒ることもなく、哀しむこともなく、楽しむこともなく――彼はその光景を眺め続けた。


 虫というのはきっと、死を知らないだけに、生きることに必死なのだ。


 やっと死んだと思い、彼が立ち上がろうとすると、ピクリと一本だけ動く。

 どこかしらがピクリと――。

 一時間が経って、二時間がたって、もう動くことはない屍を、彼はずっと眺め続ける。


 無理やりに流れ込んでくるものだったから目を離せないものだったけれど、もしその光景が目の前にあったとしたら、私は同じことをしたかもしれない。

 網戸を開ければ、自由な場所に逃がすことができるのだけれど、私はスプレーを持ってくるだろう。


 私の場合スプレーなんて使わずに燃やしてしまうのだろうけれど。


 コンビニにいた蛾を逃したのは、もがく蛾を見ることは私もするだろうけれど、それをじっくり眺める彼を見たくなかったからだ。

 その目を見てしまったらきっと、私は踏ん切りがつかなくなる。


 その目で、私が死ぬところを見られるのだろうか、と。


 それでも、どんな顔で私の死ぬ姿を見られたとしても、ここで彼を助けなければ、守らなければ――私が太陽の魔女としての覚悟を決めたのは、彼のためだったのだから。


 彼を死なせないためだけに、私は決めたのだから。


 《解放》


 一時的なものではない。

 今から、私は太陽になる。

 その過程で姉を、彼から引き剥がすだけだ。

 一度解放してしまえば、もう止められない。


 一年溜め込み、ほんの少しだけ使ってしまったけれど、その魔力量は私の想像していた以上のもので、まだほんの一部しか解放されていなかったというのに――。


 街を覆っていた雪雲が、熱波によって大きく口を開け流されていく。


「同情なんてしない。私のせいで苦しんだって言うのなら、最後までそうしてあげる。私のお姉ちゃんはもう、二年前に死んだんだから」


 だから、目の前にいるのは姉の亡霊だ。

 だとすれば、消してしまったところで問題はない。

 姉はもういないものなのだから。


「あさひぃ!」


 残された魔具を全て使ったのだろう、数多に展開される魔法が、歪に混じり合って収束している。

 ひとつであれば、私に届かないだろう。

 彼女の判断は決して間違いではない。

 それしか手段がないのだから。

 それだけしかできないのだから。


 でもだからといって、最後に残された手段が答えになるとは限らない。


「……」


 射出されるまでもなく、私の体から漏れるように流れ出た魔力波が、収束した彼女最大の一撃をかき消したのだった。

 もし、彼に一度も魔具を使わなかったとすれば、初めから全ての魔具を私にぶつけていたとすれば、かすり傷程度つけることはできたかもしれないが、結局のところ、どちらにしたって彼が阻むことで、私は無事だっただろう。


 振りかざした姉の腕だけが、虚しくも残されていた。

 射出されるはずだったものは消え去り、彼女に残された攻撃手段はない。

 瞳孔が開き、血走った目のまま、姉は歯を食いしばる。

 圧倒的な戦力差。

 絶対に敵わないということは、もう十分にわかったはずだ。


「あぁああああああああ!」


 でも、姉は諦めたりしなかった。

 向かってくるのだった。


 私が太陽だとすれば、姉の火はマッチ棒の火よりも小さなものだった。

 身体中の魔力を練りに練り上げ、指先に現れたほんの小さな炎は、私の一睨みでかき消される。


 何度も火を灯しては、かき消されてしまうのに姉はやはり諦めず、ただ何度も。


 垂れ流しになっている鼻血と、唇を噛み切り流れる一際鮮やかな血が、交わって顎先に滴っている。

 無理な魔力行使は体を蝕むだけである。

 そんなこと知っていても、姉は止まらない。

 私を殺すまで、止まりはしない。


 けれど、それは気持ちだけだ。

 姉は血涙を流しながら倒れ、細く呼吸をしながら悶えている。

 これ以上、姉には何もできない。


 髪が割れ始めている――。


 体が魔力をより通しやすいものへ変化していくのだ。

 髪の毛は肉がない分、はやく反応が始まったようである。

 この結晶のようなものに全身が包まれれば、それで終わりなのだ。

 そこで、私の生は終わるのだ。


 後悔なんてしない。


「あ……さひ……」


 姉がほとんどの魔力を失ったおかげで、彼にかかっていた洗脳――強制力は失われたようである。

 彼は片眼が潰されたまま、足を失ったまま、手を伸ばしていた。

 まだ私を守ろうとしているのかもしれない。


『死にたくない』


 きっと彼はもう、そんな感情を持っていたことすら忘れてしまったのかもしれない。

 とすれば、私が彼と出会ったことも、無駄ではなかったのだろう。

 彼がその呪われたような感情から解き放たれたとするならば――。


「ごめんなさい……」


 いま彼の中にある感情が、指針が、私を守ろうとすることにだけ向いているのだとすれば、私が死んでしまえば、彼はどうなってしまうのだろう。


 また元に戻ってしまうのだろうか。


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