歩み寄る観察者 ④
35
昇山という山は結局地図には載っていなかったのだけれど、街の観光フリーペーパーには隅にぽつりと、山にしてはあまりにこぢんまりと居座っていた。
たまたまあさひが地図と間違えて手に取ったから気づいただけで、それがなければきっとたどり着けなかっただろう。
簡易的すぎる観光地図を見ていると、自分の住んでいる街なのにほとんど何も知らないものばかりで、きっと無理やり観光スポットにしているだけなのだろうと想像がついた。
確かに最近滅多に見ない駄菓子屋や銭湯は、観光として見ることはありなのかもしれないが、ただ少なくとも、この街にしかないようなものはないだろう。
「この道をまっすぐ行けばすぐに銭湯がある。その次の交差点を東に行こう」
「銭湯?」
まさかそんなことを聞かれると思わず足を止めた僕を、首をかしげたまま振り返るあさひは、特に気になったから訊いたという様子ではなかった。
ただ聞いたことのないものだったから、思わず口にしたような様子だ。
食事をしたことがないと言われたことがあったことを考えれば、もう彼女が何も知らなくても驚かないだろうとは思っていたけれど、自分が当たり前として知っているものを知らない様子でいると妙な居心地の悪さのようなものを感じてしまう。
「お風呂は知ってる?」
「知ってる。毎日入ってたからね。綺麗でしょ」
「き……」
綺麗ですとは言えないので咳でごまかした。
「それで?」
「銭湯っていうのはお金を払って入るお風呂なんだよ。結構広いんだ」
その銭湯には数年前の一度だけしか行ったことがないので、今も同じ内装なのかはわからないが。
「いまもやってる?」
「まさかいくの?」
二十四時間営業の立て札を見て驚いたことを覚えているし、手元のフリーペーパーにも営業時間ははっきり二十四時間と書いてある。
休みもなしとは、それでうまくいっているのだとすれば驚きである。
銭湯がよくわかっていなくても、見ればそれが銭湯だとすぐ気がついたらしい。
あさひは声をあげて走り出し、暖簾の隙間から溢れる光を細目で覗いている。
ずいぶん昔からある銭湯らしく、一度改装されたと観光案内には書いてあるが、それでも外観だけは昔ながらのまま、味わいのある古風さを残していた。
「いこう」
と言う割にひとりで先に入ろうとしないのは、やはり知らない場所だからなのだろうか。
先に僕が入り中を確認するが、番頭のおばちゃんがひとりうつらうつらと座っているだけで、さらにそれより先は赤と青の暖簾で見えなくなっている。
何も持ってきてはいないけれど、改装のときに入れたのだろうか、貸しタオルの自動販売機なんてものが気の沈むような重い音をたてて居座っていた。
タオルだけあれば、風呂に入るだけなのだから。
その自販機に石鹸等がないことを思うと、中に共用として置いてあるのだろう。
財布を取り出した僕は、何も持たず青の暖簾に向かうあさひに気がつき引き止める。
首を傾げているが、いろいろ間違っていて何から言えばいいのかわからないのだ。
「タオルは?」
「すぐ乾くからいいよ」
魔女なら確かに、そういうものなのかもしれないとして。
「そっちは男湯」
「あ、そうなの?」
赤の暖簾に向かおうとするので、また引き止める。
「あさひ、髪ゴムはあるのか? 燃えちゃってたけど」
白兎との銭湯で燃えてしまった後、彼女は髪を縛らず好き勝手に風に流させていたけれど、ただ面倒だっただけなのかわからなかったのだ。
「ないけど、いるの? お風呂入るだけで?」
「いるだろ。こっち来て」
手招きして呼び寄せると、しかし彼女はなんだか不服な様子で背を向けた。
「さっきのコンビニで買ってたんだよ。ここでも売ってたみたいだけど」
タオル自販機の中のすみっこに、髪ゴムも入っていたのだ。
もちろんコンビニより安かったけど、いまさら買ったものをわざわざ買い替える必要はない。
元々フリーペーパーが手に入り、他に必要なものなんてなかったのだが、ただそれだけを持って外に出るのも申し訳なかったので、僕は気になっていた髪ゴムを買ったのだった。
結果としてよかったのかもしれない。
「痛かったら言ってよ」
赤の混じる手入れの行き届いた髪を集め、ひとつに縛った。
妹の髪を何度もこうしてまとめていたから、うまいとは言わないにしても、不恰好にはなっていないはずだ。
振り返ろうとするあさひの肩を掴んで止めて、またもうひとつのゴムを構える。
二つ入りでよかった。
先を掴んで既に縛ってある髪に寄せあげる、すこし長すぎるのでうまくいかないかと不安だったが――とりあえず首以上にまでは持ち上げなくては。
それは銭湯のマナーなのである。
「これじゃあさ、髪を洗えなくない?」
「あ、そうか。じゃあ洗った後でも縛り直してよ。お湯に髪付けちゃだめだからさ」
「えー」
見た目を意識した縛りではないから、結局なんとも言えない髪型になっているけれど、彼女は大して気にしていないようだった。
まあ鏡もないから評価も何もできないだろうけれど。
「体洗ってから入るんだよ」
「洗わないとだめでしょ」
当然のように言われても、なんだか納得いかなかった。
やはり何を知っていて何を知らないのか難しい人だ。
二枚のタオルを借りて、いらないと言っている彼女に念のため手渡す。
番頭のおばちゃんはもうすっかり眠っている様子だったので、なんだか起こすのも忍びないから、お金を目につく場所に置いて中に入った。
時間も時間だったので誰もいない男風呂は、開きっぱなしの金属ロッカーと、背の丈ほどの扇風機が出迎えてくれた。
くるくるととりあえず回っているだけの扇風機は、首も動かしてはいるけれど弱々しく、やはりそれはとりあえずという域から脱することができていない。
改装されたといっても物が新調されているだけで、内装は塗装を変えた程度なのかもしれないが、いざ服を脱ぎカタカタと音のなる戸を開けると「おお」と声が出るほど立派な絵が壁面に描かれていた。
実物をみたことがない僕では、それが本当に富士山なのかどうかはわからないけれど、まさかその辺の野良山ということはありえない。
昔のものは色の剥げた鯉の絵だったはずで、それは管理人の直筆だったらしいが、今回はどうやらどこかに頼んだのだろう。
以前の鯉も悪い物ではなかったが、今の富士山のほうがずっといい。
カタカタカタと音がして、僕は音のなったほうに顔を向けた。
よく見ると完全に分離されているのではなく、仕切りの上部分は吹き抜けになっているようだ。