二つの足跡 ③
4
自分が何をしに来たのかが思い出せなかった。
何かに吹き飛ばされて起き上がると、二つの人影が見える。
空き家の前だ。
そうだ、忘れ物を取りに来たのだ。
目を凝らすと同じ年頃の女の子が、誰かにカバンを振り下ろそうとしている。
暴力事件とも疑ったが、その線はないと見ていいだろう。
倒れたままの白いローブと女の子では体格差がありすぎる。
女の子が襲った側だとは想像できなかった。
「だめだ!」
だからこそ、僕はその異変に気がついたのかもしれない。
男が敵だと、悪い人なのだと認識していたからこそ、その悪意を感じ取ることができた。
すでに振り下ろされていたカバンは、頭のあった場所に叩きつけられる――頭はすでに起き上がっていた。
ぐにゃりと竹のようにしなり起き上がる姿は、吐き気を誘う気持ちの悪さだけでなく、背筋を凍らせるほどの恐怖があった。
その動きは反撃のための動きだったのだろう。
男は体全てを包むローブから足を伸ばそうとしているところだった。
カバンを振り下ろした女の子はすぐに体を動かし始めている。
避けようとしているのかもしれない。
「え」
しかし、その二つの影は交わることがなかった。
ほぼ同時、雪を蹴り上げた二つの影は、僕に向かって飛びかかってくる。
「逃げて!」
女の子の声で背を向けて走り出した僕は、数歩で雪に足を取られ滑るように転がった。
起き上がる方法がわからなくなっていた。
何が起こっているのかわからないことが余計に、僕の頭を混乱させていたのだろう。
死んでしまうのかもしれない。
頭の中が暗闇に覆われていく。
「解放!」
少女の叫びと共に爆音が響き渡る。
爆風で浮き上がる体を何かに掴まれて、僕は雪の上を滑るように転がった。
投げ捨てられたのだ。
慌てて顔を上げると、庇うようにして立っている少女がいた。
「はやく立って!」
カバンに手を突っ込んで指に何かをはめている少女は、振り返りもせずに叫んだ。
守ってくれているのだと理解した。
年も変わらない女の子に、自分は守られているのだと理解した。
自分は守られる必要のある弱者なのだと理解した。
自分は死にたくないくせに、何もできない人間であることを理解した。
死にたくないということが、ただ自分が臆病なだけだったのかと――竦んで動かせない体が教えてくれた。
「ぅ」
動き出さない気配を感じ取ったのか、彼女は振り返って瞳を揺らした。
怯えているのか、動揺しているのか、僕には何もわからない。
僕にわかるのは、死ぬかもしれないという可能性だけだ。
爆風のせいで降り積もった雪は空に舞い上がっていた。
より視界を悪くさせる二重の降雪は、白いローブの認識を曖昧なものにさせている。
どこにいるのか、目を凝らさなければ視認ができないのだ。
「はぁ――はぁ――」
震えている彼女の姿は、寒いからでも、動揺しているからでもない。
僕の姿を見下ろして、涙を流して、歯を食いしばって、息を荒げて――それは悔しさのあまりの表情だった。
僕はそこでやっと、彼女の顔を認識した。
初めて見た顔だ。
だというのに、彼女は僕を庇っている。
「置いていってくれ」
彼女は逃げられるはずだ、と思った。
置いていかれるとどうなるのか、僕はわからない。
そもそも彼女が僕を守る理由がないのだ。
そもそも僕が何かをされるという確実な根拠もないのだ。
僕はただ、その表情を見ているのが辛かった。
僕の言葉で余計に表情を歪ませた彼女は、涙を拭って僕を見ることをやめた。
置いていかれるのだと理解した。
視界がはっきりとしない――。
可能性は事実となる。
死の形を理解した。
僕はここで死ぬのだ。
「ぁ……あぁ……」
俯き、口に流れ込む涙は少ししょっぱかった。
死にたくないという言葉が頭の中で反復される。
これ以上心配する必要がなくなるのだと考えてみた。
言ってみれば、僕の人生は心配そのものだ。
手につけた手袋は、決して防寒のためではない。
手の怪我を防ぎ、菌から身を守るためのものだ。
この手袋を捨てて、外気に晒された手で風を撫でている姿を思い浮かべる。
それは僕が死んだ後の姿にしか見えなかった。
「決めた」
何か言ったということだけはわかった。
顔を上げると、彼女と目があった。
もう彼女は震えていない。
震えているのは僕の体だけだ。
しかし、自然と僕は落ち着いたのだ。
彼女の微笑みが、まるで太陽のように眩しく、優しいものだったから。
「君は私が守るから」
「僕を置いていかないのか?」
「うん。一緒にいこう」
彼女が誰かなんて、もうどうだってよかった。
彼女が伸ばす指先から眩い光が発せられる。
のそりのそりと動く白いローブは顔を覆い、動けなくなっていた。
彼女の影になっていたおかげで、僕にはなにのダメージもない。
呻きながら膝をつく様子をゆっくりと見る暇もなく、僕は彼女に手を伸ばした。
「連れて行ってくれ!」
伸ばした手を彼女が優しく握る。
二人で駆け出した雪道には足跡が二つ並んで、それもきっと除雪車に消されてしまう運命なのだろうけれど、僕は残されていくものを振り返った。
深く刻まれた足跡は僕のものだ。
雪を踏みしめていけ、より深く、強く。
彼女の横顔を見つめる。
先を見据える赤い瞳は、月の淡い光でも変わらない力強さのようなものがあった。
後ろで縛られた髪が揺れると、どこか懐かしい香りに頬を緩めてしまう。
もう日が暮れたから母に怒られてしまうけれど、今日だけはどれだけ怒られてもいいと、僕は思った。