歩み寄る観察者 ③
34
ガラス窓に張り付いた蛾を睨みつけ脈動する腹部を見ていると、虫の生というものを感じずにはいられない。
寒さでは虫もなかなかに見かけないものだったが、そいつは元気良く、窓から漏れる二十四時間の光を浴びているのだった。
「木葉くん」
「ああ、ごめん」
僕が目を離した隙にパタパタと飛び出した蛾は、野良猫に反応した自動ドアを潜って中に侵入してくる。
暖房の風を受けてぐんと飛び上がったが、バランスを崩してはたはたと羽ばたき抗っている。
「……」
もちろんのことながら店員が歓迎することはなく、ハエたたきを持った女性店員がつま先で歩き蛍光灯に抱きつく蛾を煽った。
おそらく僕の身長でも届かないだろう。
僕がなかなか来ないからか、あさひはもう慣れてしまったコンビニを闊歩し立ち止まっている僕の腕を掴んでくる。
僕は引き寄せられる力に抵抗して、彼の行く末を見守ることにした。
「届きませェん」
にっこりと笑って、女性店員田中は会釈した。
反射的にあさひと二人頭を下げたが、どうやらまだ新人である彼女はそいつを見逃すことにしたらしい。
「いやいや田中! 虫は追い出せって」
「でも届きませんので仕方ないと思うんですよ」
レジにもう一人いた店員は、ネームプレートに苗字はなく店長と書かれている。
まだ新人だから指導している最中なのだろう。
「脚立持ってくるとか」
「レジを離れたら強盗がきて、店長が襲われます」
「大丈夫だ、レジの中身を丸ごと差し出すから無事だ」
「そして何も知らない私が脚立を抱えてふらふらと戻って来て、出ていく強盗と鉢合わせしてしまい、私を守ろうとして店長が襲われます」
「嫌なら嫌とはっきり言ってくれ」
「私はせめてと思いカラーボールを投げつけるのですが、見てくださいこの腕」
腕まくりしてペチペチと二の腕を叩く。
「このかわいい腕ではうまく投げられず、おでんの中にダンクシュートです」
「ふぐっ! ……いいぞ、帰ってよろしい。あと、かわいい腕ではなく、かよわい腕だと俺は思う」
「おつかれさまでした店長。ツッコミまだまだですね」
店内を駆け店の奥に隠れた彼女は、制服のままカバンを抱え外に飛び出していく。
なにがあったにせよ、蛍光灯に夢中の蛾は助かったようだ。
「芸人になりたい、か」
店長がひとりでクスリと笑っている姿を見ていると、何か懐かしさのようなものを感じていた。
きっとこれまでの僕にあった姿だ。
内面がどうだったとしても、僕にだってなんだか笑ってしまうようなことだってあったし、何気ない会話が心地よかったりしたのだ。
忘れかけていた日常がそこにはあった。
自動ドアが開いたおかげでできた風の乱れが、蛾を煽って光から引き剥がしてしまう。
声を出すまでもなく床に着地した蛾は、また飛び上がろうと羽を広げていた。
「さて」
スプレーを手に持った店長が、カウンターを超えて近づいてくる。
上にいるときにスプレーを使うわけにはいかないが、足元ならば平気だと決めているのだろう。
本当に平気なのかは知らないけれど、店長がしているのならばきっと平気なのだと思う。
彼は光にたどり着いたのだ。
もう後悔はないだろう。
「待ってください!」
蛾の前に屈んだ店長に、慌てて駆け寄ったのはあさひだった。
何をするのだろうと見ていれば、彼女は躊躇せずに蛾を両手で囲い、まだ不慣れな自動ドアに張り付きながら外に出ていく。
「ほら」
追いかけてあさひの手を覗き込むと、手を開き自由になった蛾はしばらく彼女の手を離れないままだったが、助けてくれたあさひに数歩近づき立ち止まったと思うとすぐに飛び上がった。
感謝なんてしていないだろうけれど――。
「ありがとう」
「な、なによ」
僕が代わりに礼を言うことにした。誤魔化すように「ちずちずちず」と今度は自動ドアにつま先をぶつける程度で店内に戻ると、頭を掻いて会釈をする店長に、また二人揃って頭を下げる。
あさひは僕に気を使ったのかもしれない。
スプレーを受けた蛾を、僕は最後まで見ていただろう。
着々と近づく死の光景を、蠢く足から一度も目を離さず見続けていただろう。
いつかくると、自分の姿を写して。
「きっとまた光に吸い寄せられていくと思う」
「うん?」
全国地図を広げて、僕は曖昧に返事をした。
「何度も、何度も、死にかけても後悔しない。死んだって後悔しない。そういう生き物なんだよね、あれって」
「そうだね」
全国地図を広げたは良かったが、こんな小さな街のことが詳しく書いてあるはずもなく、ため息溢しながら棚に挿す。
「後悔できるのなら、生きていけるからね」
次の地図に手を伸ばした僕は、視線に気がつき、手を伸ばしたままあさひを見下ろした。
じっと僕の目を見る赤の瞳には、訴えかけるような思いの強さを感じる。
後悔することなんて、何があるだろう。
僕に後悔することなんて何もないのに。
なんというか、彼女がいればそれでいいのに――そんなことを、僕は思っていた。




