発現 ③
28
彼女は急に走り出していた。
彼の名前を呟き胸を締め付けたような苦しみは、ただ悲しかったからではないと気がついたのである。
「でもっ!」
そんなはずはないとあさひは走っている。
魔法使いの話を彼にしたけれど、彼には詳しく言わなかった。
魔法に使われるような人はいないと、そんなことを言ったけれど、厳密には違う。
彼に言ってはいた。
『魔法使いは滅多に存在しない』と。
いないとは言っていないのだ。
魔法使いが滅多に存在しないというのは、その存在を作る過程が特殊だからである。
魔法士は魔女の一族の血を僅かにでも受け継いでいる場合、ごく稀に魔法が使えるようになったものとして、魔法使いは魔女との契約によって生まれるものだ。
魔法使いは、魔女に名前を献上することで、存在を魔法化されたもの――名前という、個人存在を文字として簡易化したものを献上するということは、その人間はそれまで積み重ねてきたものを全て失うことになる。
とはいっても、それは魔女が一方的にできるものではない。
魔法化される人間が自ら名前を教えること。
魔女が聞いた名前を唱えること。
勿論、それならば脅迫して名前を得ることで無理やり魔法使いにするということもできるが、そのことにメリットは存在しない。
魔法使いは、言うことを聞かされる使い魔たちとは違って、個人の意思は無くならないからである。
個人の意思――それは魔法化されてしまったから、魔法の意思でしかない。
それが魔法使いと呼ばれる所以でもあるのだが、魔法化された人間に人間としての意思は失われているのだ。
記憶こそ残されていても、経験こそ残されていても、それはすでに体を蝕む魔法のものだ。
自分が選んだのだと思っても、それはそう思わされているだけで、魔法による意思で決定されたものになってしまう。
つまりそれは、魔法に洗脳されていると言っても違いないだろう。
魔法使いにしてしまった時点で、さらなる上書きは不可能だ。
魔法士や魔女同士の洗脳の上書きならば、より上位な魔法に塗りつぶされてしまうが、魔法そのものである魔法使いが塗り替えられることはない。
存在がこれ以上歪むことはないのだ。
あさひが慌てて走っていることは、彼の名前を言った後すぐに何かが起動したと気がついたからである。
魔法使いのシステムを知っているあさひは、そんなはずはないとは思っても、そのタイミングで何か起きたのなら疑わずにはいられない。
彼は間違いなく洗脳されてしまったが、もし魔法使いにあさひがしてしまったとすれば、洗脳が解けたということになる。
ならば、助けにいく理由は十分だった。
魔女と魔法使いは親と子のような関係だ。
実際の親子ならありもしないものだが、この魔法の親子関係は、お互いの位置を曖昧に認識することができる。
音で位置を知らせる白兎の分身のように、わざわざ音を立ててもらわなくとも、親であるあさひには場所がわかるのだった。
ならばなぜ魔法使いにしてしまったかのか決めつけないのか。
こっちにいるはずだという曖昧な感覚が、彼女のまだ諦めきれない感情のせいなのか、親と子の関係によるものなのかがわからないからなのだ。
それに、彼女は記憶を覗き込んで《空木木葉》という名前を知っていただけで、彼から聞いた覚えはないのだ。
聞いていないのに、魔法使いにする魔法化が起きるはずない。
そしてあさひは、頭を踏みつけられ、それでも足首を掴み抵抗している彼を発見した。
太陽の魔女としての使命を忘れているわけがない。
これまでいた何百人の太陽の魔女の中で一番の魔女だと母の遺書には書かれていたが、姉しか知らないあさひにはイマイチ実感のない話だ。
姉の使命がたった二年で終わってしまったことに対して、あさひの太陽の魔女として活動できる期間は最低でも三百年である。
そこまでがんばる必要はないのかもしれないと、彼女は考えた。
百年でも、少なくとも今生きている人間は全て救われるだろう。
踏みつけられている彼も、百年もすれば朽ちていくだろう。
作り上げたもう一人の自分にはなれないまま、腐っていくだろう。
だから、彼女は魔具を使うことをやめた。
魔力量が仮に三百年分あるのならば、二百年分は使ってもいいと――。
「彼から離れて」
足から噴出したエネルギー波で体は浮かび、爪と指の合間から漏れ出る熱が少しだけ掠っただけのローブを黒く焦がしている。
首にできた黒線は、敗北を感じさせるには十分すぎるものだった。
足を浮かせ腰を抜かすように倒れた白兎は、風に煽られ飛ばされていく焼け切れてしまったフードを目で追い、恐る恐る、悪魔のようなその姿を見上げた。
「太陽の魔女よ。太陽は出ていませんが――」
「勘違いしないで」
太陽下で魔力が増えるから、魔法が強くなるからそんな名前なのではないのだから。
「やはり貴方は、恐ろしいことを!」
「いまから死ぬあなたには関係のないことよ」
一歩踏み出したあさひの髪は燃え上がっていた。
髪を縛っていたゴムはチリとなって雪に紛れ、髪先が濃い赤黒に変色し溶け出している。
指先から滲み出てきた光を発する液体は、垂れ落ちると雪に触れると同時に沸騰させ、ジュウと焦げついた匂いが漂わせる。
今日は全力を出すことができないと、そう知っていたからこその襲撃であるとあさひは知っている。
だから姉も、魔法を使えないこの日のために魔具を用意するように指示していたのだから。
だから、捜索能力にのみ秀でた白兎がこうして襲いに来たのだ。
「やめてください、殺すのですか? 貴方はやはり、人を殺すのですか?」
白兎の表情は引きつっていた。
太陽の魔女がいったいどんな存在なのかを詳しく知らないからこそ、何をされても仕方がないのだが、殺される可能性を完全に切り捨てていたのだ。
「当然よ」
当たり前のことだった。
邪魔をするなら排除するということは、誰だってすることだ。
道端に転がった石を蹴飛ばすように。
もちろんあさひはそんなことをしたことがないけれど、その程度の軽い気持ちで、あさひは指先の雫を白兎に垂らした。
燃え上がることもなく、確かにそこにあった白い何かは消えていた。
鼻をつく嫌な匂いが、風に乗って流れていく。
起き上がった少年は涙と血で汚れた顔を拭い、助けてくれた魔女に対峙した。
気まずそうに顔を反らすあさひと、自身を責めているようにも見える苦しげな表情の少年は、しばらく何も言えず立ち尽くしていた。
目の前に立ってしまった今、あさひにはその少年が人間ではなくなっていることに気がついてしまう。
間違いなく、それは魔法使いだった。
《空木木葉》という皮を被った魔法である。
いったいどんな魔法が彼の体を奪ったのか想像もできなかった。
魔法使いの情報はほとんどなく、元に戻す方法なんてものは知っているはずもない。
そもそも人と関わるはずもなかったのだから、知る必要もなかったのだ。
ただ、奪った名前は魔法と深い関係があるということだけは知っている。
名前という、個人を決めつけるものを奪ったのだから、その空いた空白に侵入できるのは同じ形のものだけだ。
それが、魔法化ということなのだ。
「いつ、私に名前を言ったの」
あさひの目の前にいる少年は彼女の知っている《空木木葉》ではないし、だからそんなことを言っても答えるのは、彼の記憶を持っている魔法である。
彼は首を振った。
彼女に名前を言うなと言われたから《空木木葉》は名乗らなかったのである。
それは間違いないことだ。
あさひは彼の表情の豊かさに困惑していた。
魔法使いはあくまで魔法であり、人間の皮を被っているだけであって、感情が表に出てくることはない。
魔法は自己を維持するためにだけ動くのだ。
「僕は、君のせいだって言ったんだ」
だから、そうして感情を露わにすることはありえないことだ。
「君なんかに出会わなければ、きっとこんな目に合わなかったんじゃないかって思ったんだ」
涙まで流して言葉を話す魔法があるはずないのである。
「僕が勝手に動いただけなのに、君のせいにしていたんだ」
あさひは首を振った。
彼の言っていることは正しいのだ。
彼女が、初めて彼が家にやってきたときに、もう来られないよう細工をすればよかったのだから。
そうすれば、もう彼は家にやってこなかった。
どうして戻ってきたのかまでは知らなかったけれど、あさひと白兎の戦闘を見てしまうことはなかったのだから。
『死にたくない』
彼の歪みに気づいた時点で、まだそこで追い返すこともできたのだ。
今日のあのタイミングで彼が来なければ、せめて今日だけは来られないようにすれば何も起きなかったのだ。
やはりあさひの責任は大きい。
後悔できるなら、きっとまだ大丈夫だというのがいつもの彼女の考えだが、今回ばかりは後悔もできない。
「私に守らせて」
あさひの言葉は、人間でもない彼に届くのだろうか。