二つの足跡 ②
2
「あ」
日が落ちていくのを追うように歩いていた僕は、何か忘れ物をしたことに気がついた。
いつもなら次の日にと考えるが、今日はそうはいかない。
なにせ木曜日だ。
今日取りに行かなければ、次に行くのは月曜日。
それまで置いたままというのも気になってしまって落ち着かないだろう。
しかし、とバス停の時計を確認する。
もう時間だ。
はやく家に帰らなければ、母が癇癪を起こしてしまう。
「走れば間に合う」
僕はすぐに秘密基地に戻ることにした。
3
呼び鈴が鳴っていた。
ピンポンと鳴って、丁度4秒静寂が続く――。
またピンポンと、無人の家を音が駆けていった。
「……」
そこに人はいない。
いるのは魔女だけだ。
穴だらけの家を、凍ったような風が吹き抜けていく。
息を潜めている彼女は、それまでずっと生きてきた部屋を振り返った。
もう戻ってはこない。
ダメージデニムのショートパンツにグレーのTシャツ、淡い赤のカーディガンを腰に巻いてお気に入りのかごバッグを肩にかける。
彼女にとって最初で最後のお出かけである。
その姿は外の寒さからは考えられない薄着だった。
しかし彼女には関係のないことだ。
何度目かの呼び鈴が鳴ったところで、扉の破られる音がした。
彼女は揚々と階段を降りていく。
玄関には白いローブが立っているが、彼女はそれを気にもとめず空色のシューズのつま先を蹴って傍を通り過ぎた。
「どうも、初めまして」
白いローブの男が、玄関を出た先に待っていた。
彼女は両手で髪をまとめ、口に咥えたゴムで髪を縛り上げる。
若干赤の混じった黒髪は、真っ白な外の光景から浮いているように見える。
それ以前に、彼女の服装は完全に浮くどころか飛び上がるほどだったが。
「白兎とお呼びください。太陽の魔女よ」
「礼儀がなってないわ。頭を下げなさい」
それは拒否できない命令だ。
人間であるなら、彼女の命令を無視することはできない。
人間には彼女に、いや、彼女の一族に返しきれない恩がある。
男はしかし、その強制的な礼を拒絶した。
「太陽の魔女よ。日は落ちたのだ。もはや恐るものなどあるまい」
「確かに、私は太陽の魔女。太陽下でこそ真価を発するのかもしれないわ。でもよくって? 外に出てきた太陽の魔女を襲うという意味を、あなたは理解しているのかしら」
「この時を待ち続けたのだ」
おおよそ二メートルを超える巨体――頭をしっかり隠しているフードからは、ローブと変わらない真っ白な髪が風に流されていた。
その顔に表情というものはなく、仮面のようなのっぺりとした絵が張り付いているように見えた。
彼女にはなぜかその男の心内が見通せないでいる。
彼女の体質がうまく機能していないということだ。
それだけで、男が魔法齧りではないのだと理解した。
十分に、彼女を殺す力はあるのだと、殺されてしまう可能性があるのだと覚悟せざるを得なかった。
「覚悟はよろしいですか」
「魔女をなめないほうがいいわ」
彼女の人差し指の指輪から吹き出す炎は、彼女の周囲に霧のようなものを作り出した。
彼女に向けて舞うように落ちてくる雪の結晶が、熱によって溶かされ瞬時に蒸発する。
急激な熱によって起きたその現象は、空気の圧となり男を吹き飛ばした。
「あなた程度、魔具の力だけで十分よ」
砕け散る指輪を逆の手で払い、彼女はまた手をかざした。
動く気配はない。
一撃で倒されるも納得できるほどの威力ではあったが、彼女は気を緩めないでいた。
自分の力に過信はしない――これまで外に出たことがないからこそ、自分の知らない魔法を使われる可能性があるからこそ、これ以上手を出せないという状態だった。
自分が優勢なのか判断できないのだ。
失敗した、と彼女は後悔した。
相手の技量が分かる前の攻撃は、ある程度の手加減が必要だ。
相手が倒れたのかどうかが判断できない。
ずっと、動くかもしれないという疑念が彼女を襲い続ける。
つまり、硬直を強いられるのだ。
追撃が最適解であることは彼女にもわかっていた。
しかし、彼女には攻撃を渋る絶対的理由があった。
魔法を閉じ込めた魔具の数には限りがある。
彼女の魔法は有限なのだ。
したがって彼女にできる攻撃手段は、魔法を用いないものになる。
その行動に限られてしまう。
振り上げたバッグは、微量の魔力でも反応し硬質化する。
魔具から発生した魔法の魔力を帯びて、そのバッグの硬さは鉄をも超えていた。
魔法を扱うとはいっても、彼らの体は人間そのものだ。
あまりの硬さに殴られてしまえば、そのダメージは軽くない。
振り下ろし男の頭部に触れるその一瞬、彼女は男の顔の変化に気がついた。
魔法での追撃をしなかったことを後悔する間はない。