覚悟 ③
22
音を抑えるということをやめたあさひは、ただ走っていた。
息が乱れ咳き込むけれど、足を止めることだけはしなかった。
彼女の出した結論は、どうせ見つかるなら追いつかれる前にすべて終わらせるということ。
弧を描いて走っているから、ほぼすべての道を確認できているが、あくまでそれは《ほぼ》という域を脱することはない。
彼女が円を大きくしていくほど、一度通った場所付近に戻ってくるまで時間が掛かる。
通り過ぎた後に、捜索済みの場所へ侵入されてしまう可能性は十分にある。
しかし、もう始めてしまったことをやめるわけにもいかない。
中に入ったとしても、それが彼ではないことを祈るほかないのだ。
それに、すでに彼女は二十以上の分身を倒したけれど、本体に見つかってはいない。
そうなると、白兎の耳はあさひが仮定したより劣っているのかもしれない。
それとも、あさひがどのように移動しているのかすでに気がついていて、どこかで待ち伏せているという可能性が浮かんできた。
これは、身体的疲労のある状態のあさひにとって考えたくないことだった。
そして、あさひはもうひとつ、気がついてしまったことがある。
「……」
白兎がもし、彼を救いに来るだろうと予測して、分身にした彼を近くに置いて待っているとすれば、他の分身がどうなろうと白兎は関係ないのかもしれない。
待っていれば、あさひは近寄ってくるのだ。
分身は戦闘で役に立たないということは仮定でもなく断定できているあさひには、その待ち伏せが一番ありうるものだと思わずにはいられない。
となると、やはり彼女の弧を描く捜索はやめることができないのだった。
追われているはずが、いつの間にか追っている立場になっている――予感は少しずつ確信へと変わっていく。
やはり彼は見捨てるべきだ。
「息があがっても関係ない。もう決めたんだから、曲げたりなんかしない」
どこかで待っている白兎を探さなければならない。
確信しながらも、しかし見かけた分身は倒して確認しなければならない。
かごバックの耐久は申し分もなかったが、問題は魔具の消費量だった。
一度かごバッグに魔具を使えば、おおよそ二分で元に戻ってしまう。
魔具の魔法に持続性があればよかったが、魔具に必要とされているのは瞬発力のみ。
畑違いだ。
一体を発見してから魔具を使用し、かごバックで殴りかかるまでには一分もかからないだろう。
しかし、次の分身を見つけるまでには何分も時間がかかってしまう。
一つの魔具で一体ということだ。
一年の間毎日魔具を作っていたあさひは、うまくいっても三日にひとつしか作ることができなかった。
彼女の膨大すぎる魔力に、封じ込められる道具の方が耐えきれなかったのである。
しかし、だからといって手加減した魔法を封じ込めても意味はない。
戦闘に使うものなのだから。
とっておきの五つの魔具はそれぞれ一週間の時間がかかっている。
つまり、彼女の魔具は多くても百個ほど。
すでに消費した魔具や、かごバッグでの打撃により砕けてしまったものを考えると、残されたものは半分もない。
つまり、彼女が倒せる分身は、残り五十体もいないということだ。
分身を倒せば倒すほど、本体である白兎への攻撃手段が失われていく。
捜索を始めてからもうすぐ二時間がたってしまい、日が変わるのも時間の問題だ。
いよいよ、あさひには決断する必要があった。
街を徘徊している分身の中に彼がいるという可能性を捨て本体だけを探すか、あるいはまだこの捜索を続けるか。
二つを追っても首が締められていくだけなのだ。
確信しているはずなのに、決断を躊躇っていた。
そうして、あさひはやっと足を止める。
足が震えていた。
それは疲労によるもので、耐えきれない足が折れ尻餅をつく。
「何してるんだろう」
魔女の使命を忘れているわけではない。
彼を連れて待っているのだとすれば、逃げる絶好のチャンスである。
他にあさひに襲いかかる魔法士の存在をないものとはできないが、少なくとも白兎という敵からは逃げ出せるのだから。
雪に落ちたかごバックから、魔具が零れ落ちる。
あさひは俯いたまま砕けた魔具に目を向ける。
仮に残された魔具だけで白兎を倒すことができたとする。
しかし、敵対する魔法士は一人ではないかもしれないのだ。
白兎以外の存在を無視できない。他にはいないと、仮定することは不可能だ。
いないはずがない。
すぐに気がつくべきだったとあさひは後悔するが、そんなことを考える余裕はなかったのだ。
目の前の敵だけで手一杯だったのだから。
五時間と見たとしても、その時間はあまりにも長すぎる。
残された魔具を単純に割り振ってみると、一時間に十個だ。
実際は五十個も残されていないのだから、それよりも少なくなってしまうし、なによりいまでこそ白兎も余裕をもっているのだろうが、時間が迫れば思い切った策に出てこられる場合もあるのだ。
一時間に十個なんてことを言っていられる余裕はない。
しばらく止んでいた雪が、今になってもう一度降り始めていた。
彼女の座り込んだ雪道は溶け始め、彼女がいたという跡をはっきりと残している。
むき出しになったアスファルトの上でしばらく動けないでいたあさひは、ゆっくりと立ち上がりびしょ濡れのショートデニムを叩いた。
額の汗が目元を通り抜け頰を伝っていく。
寒くもない彼女はズルッと鼻水を啜って何かを我慢するように息を止めた。
咳き込むように吐き出した空気と共に涙声が漏れ口を押さえる。
この数時間で自分が何度口を押さえたのか数えてもいなかったけれど、あさひにはそれだけ、我慢しようとした出来事があっただけである。
ただ今回ばかりは、あさひは口を押さえることをやめようと思った。
栓をしているわけではなかったが、それとも栓がゆるゆるだったのかはともかく、あさひの嗚咽は漏れ出てしまっている。
せめて名前だけでも、彼の口から聞いておくべきだったと後悔した。
そうすればきっと、あさひも自分の名前を名乗り覚えておいてもらうことができただろう。
いつか奇跡的に洗脳が解けて、その時に名前を覚えておいてもらえるのなら、あさひは幸せだった。
感謝されることはなくとも、覚えていてくれるだけで。
「空木木葉くん、私は君を忘れない」
魔女は一人、夜道を進む。