姉 ①
11
父のことを恨んでいた。
母のことを恨んでいた。
彼女がやっと自己を意識始めた頃、すでに二人きりの家族となっていたから、彼女の頼れるものは姉だけだった。
自分が扱える魔法を、彼女はたった一人で本を広げ鍛錬を続ける。
頼れるのは姉だけだったが、その姉が自分よりも劣っていることに気がついたのは、彼女が5歳のころだった。
姉が扱える魔法を全てできる彼女だったが、その逆はなかった。
彼女ができるけれど、姉にはできないという魔法がいくつも――。
妹である彼女の魔法のうち二割も、姉はできなかったのだから。
生まれて二日で家に火をつけた彼女は、一族にとってこれ以上とない希望になった。
六才年上の姉は、自身の限界にすぐ気がつき、妹を守るために生きる覚悟を決めたのも、その火事が始まりだった。
成長を諦めたようにもみえた姉の存在は、妹である彼女にとって見苦しいものになっていた。
姉はただ、自分にはできないことを妹に託しているだけだったが、妹はその言動に腹が立つばかりで、見下して全く聞き入れることはなかった。
だけども、姉という存在は彼女にとって大きかったのだ。
一人ではないというだけで彼女の精神は安定していたし、《こんな人にはなりたくない》という思いのおかげで成長できたことも多かっただろう。
そんなこと、当時の彼女に言ってみたところで、認めることはなかっただろうけれど、姉を失った後の彼女ならば迷いなく頷くのだ。
彼女がいなければ、きっと魔女にはならなかったと。
12
「いままでありがとう」
腹が立つようなことは山程した記憶はあったようだが、感謝されることなどないと彼女は思っていた。
突然そう話を切り出した姉を、また面倒なことを言い出すのだろうかと舌打ちをしたほどである。
「あさひ、ずっと話していなかったことを話すわ。わたしの部屋まで来て」
これまで一度も姉の部屋に入ることを許されていなかった妹、あさひはきょとんとした表情で頷いた。
姉のこれまで一度も聞いたことのない声に驚いたこともあったけれど、なにを話されるのかが予想できたからだ。
きっと、母と父のことである。
記憶にもない母と父の姿は、写真もないおかげで顔を思い出せない。
ただ、いたという懐かしさのようなものが残されているだけで、声も肌の感触も覚えてはいないのだ。
いつのまにか消えた二人のことを、彼女は恨むことで許していた。
三度扉を叩いたあさひは、扉が開かれるのを待った。
しかしどれほど待っても扉が開かれることはなく、扉を開く程度なら姉にもできるはずだったと不思議に思いながら、扉を動かした。
卓袱台だけがある三畳ほどの洋室の中心に、姉は正座をして待っている。
しばらくあさひは、その部屋の光景に困惑し状況が飲み込めず立ち尽くした。
自分の部屋の半分もないその場所は、寝具すら存在していない。
あさひの部屋にあるセミダブルのベッドと、壁一面の本棚や大して気に入ってもいないラグ、あとは青の水玉カーテン。どれもこの場所には存在していない。
窓もない暗い部屋で、姉がどのようにして生活してきたのかが想像できなかった。
「あさひ、座って」
「うん」
姉の前に正座をしたあさひは、目のやり場に困った。
どこを見ても、胸が苦しくなるだけだ。何もない場所を見ていると、自分との違いがわかってしまう。
部屋に入れようとしなかった理由が、あさひには分からない。
姉が何を思って、こんな何もない場所で暮らしてきたのかがわからない。
「どうして」
だからあさひは、姉に聞かずにはいられなかった。
妹にだけ物を与え、自分はなにも欲しくはなかったのかと。
「あさひがいれば、わたしはそれでいいの」
どれだけ姉に酷いことをしてきただろうか。
彼女がいなければ――たった一人で生きてくることはできないのだから。
生きていく方法を教えてくれたのは姉だけなのだから。
「あさひ、これからわたしが言う事を忘れちゃいけないわ。よく聞いて」
当たり前が、当たり前じゃないのだと姉は言った。
魔法は誰でも使えるものじゃない、と。
姉以外を知らないあさひには、信じられないことだった。
ただ魔法には向き不向きがあるだけだと、誰でも使えるけれど皆が同じではないというだけなのだと。
「絶対に、他と接触してはいけないわ。私がいなくなって、きっとあさひは寂しくなると思う。でもこれからずっと一人、私たち一族の使命のために隠れ生きていかなくちゃいけないの。これまで二人で隠れてきたけれど、これからは一人になるというだけだわ」
これまでと同じように、このボロボロの建物の中で、たった一人で。
「使命って、なに」
恐る恐る、あさひは問いかけた。
それはきっと酷い使命なのだろうと想像できてしまったのだろう。
震える声に、それまでのあさひの傲慢さは欠片も残されていなかった。
その姿に姉は開いた口を閉じ、また何かを言い出そうと開いては、結局手で口を押さえて俯いてしまう。
肩を撫でて滑り膝にかかった黒髪が、あさひの視線の先にあった。
あさひの赤の混じった髪とは違い、姉の髪は黒一色だ。
膝に置かれた左の手のひらが、ほんの少し震えていた。
手の甲に落ちた涙が、骨だけのような青白い指を伝って流れていく。
「ごめんね、あさひ」
はっきりと言葉にはなっていなかった。
「ごめんね」
何度も、姉は言う。
泣いてそう言われても、あさひはただ悲しくなるばかりで、きっとこれが最後なのだろうと悟った。
もう姉には会えなくなるのだと、ようやく理解した。
自然と、あさひは姉に抱きついていた。
母がいたならばどんな人だっただろう。
どんな香りがしたのだろう。
まだ幼かったころのあさひは考えたことがあったけれど、彼女の母の香りはそこにあった。
ほのかに暖かい体が、姉の死を予見させる。
きっとこれから起きることは、いずれ自分にも起きる。
家から出て行く姉を見送って、あさひは渡されたボロボロの本を大事に抱えた。