二つの足跡 ①
八月の雪は今年も街の姿を変えている。
数年前、突然に起きた真夏の降雪は、世間をずいぶん騒がせた。
しかし、それが何度も繰り返されるとなれば慣れてしまうのが世の中である。
当たり前のように厚着をする夏の日々は、これから先何年が経とうとも変わることはないのだろう。
もしかすれば夏という季節は、もう見ることはできないと考えられている春の桜や秋の紅葉のように、消えていくのかもしれない。
白い手袋を口に当てて息を吐くと、口の周りだけがしっとりと暖かさに包まれる。
我慢もなかなか辛い気温だが、学校指定のコートを持たない僕は我慢するしかないのだ。
なにしろすごく高いのである。
ずずずと鼻水を吸い上げて雪道を歩いていても、誰一人すれ違うことはない。
冬ならば寒くとも外に出る人はいたのだろうが、夏の寒さではそうはならない。
夏は本来寒いものではないから、諦めのつく冬の寒さとは心の持ち方が変わってくるらしい。
夏なのにわざわざ暖房をつけて、冬よりも少し強めに――夏のような気分を味わっているのかもしれない。
一人だということを強調していると寂しがりのように思うかもしれないが、実はそうではない。
真っ白な細道に僕一人の足跡が残されているのを見ると、一人きりの行進も悪くはないのだ。
しかしそれも、除雪車に塗りつぶされるまでの短な自己満足のようなものでしかないけれど。
学校帰り、日が落ちるまでの数時間秘密基地に行くのが決まりだ。
僕と違って学校指定のコートを着た友人にはいつもの場所でさよならを言って、だからこうして一人でいるのだ。
なにせ秘密基地――それは一人だけで作るのがいいに決まっている。
一人に言ってしまえばその時点で秘密ではなくなっているのだから。
共有できる秘密なんてものは存在しないのだから。
もしバレてしまったのなら仕方なく仲間に入れることになるけれど、そんなことは滅多にないだろう。
一人の行進もしばらくして、街の隅でもなく中心でもなく、そこはただの古家である。
いや、ただのと言うのは違うかもしれない。
そこは誰も住んでいない、空き家だ。
窓は所々ヒビが走っていて、家を囲む塀の上には、まだいけるぞと雪が積もり上がっている。
それは瓦の落ちた屋根にも言えることで、この家が崩れるのも時間の問題だろう。
だれも近づきやしない。
この辺りは空き家が多いこともあって人の目もないおかげで、好き勝手に使っても文句を言われることはないのだ。
まさに秘密基地――完全なる秘密基地だ。
その家に鍵はない。
元々鍵がなかったから進入できたのだが、いくら秘密基地にしたいからといって勝手に鍵をつけるわけにはいかないだろう。
そこまでしてしまうわけにはいかない――あくまで借りているという心算でなければ。
もちろん表の玄関から堂々とは入るわけにいかないので、裏に回って破れている網戸をくぐり抜ける。
盗人と変わらない。
しかしここで大事なのが、堂々とするということだ。
堂々と表からは入れないが、堂々と裏から侵入するのだ。
穴だらけの家だから、屋内には雪が吹き込んでいる。
七畳半の和室から、階段と玄関を繋ぐ廊下を横切って、向かいの洋室に入る。
この部屋だけはやけに日の入りが悪いので、肩にかけた学生カバンから懐中電灯を取り出す。
ちらちらと光を反射する埃を手で煽っても、どこかに飛んでいくことはない。
埃の落ちる先にあるベッドの木枠は、ここが元は寝室だったのだと簡単に想像させた。
部屋の隅に転がっている腕の取れたクマのぬいぐるみが、薄く白の色を被った黒い瞳を光らせている。
埃のおかげで年をとったようにも見えるその姿は、元の可愛らしさを失い、時の流れを感じさせるだけのものになっていた。
明かりを次々に動かして変化がないことを確認してから、やっと僕は押入れの戸に手をかけた。
目的地はそこだったのだ。
中に積まれている空のダンボールをどかすと、そこの板が少しだけ浮いている。
指を入れて持ち上げると、人一人がなんとか通れるほどの小穴が口を開けていた。
まさに秘密基地。
勘違いしないように言うと、この穴は僕が掘ったものではない。
元々この家にあったものである。
いったい何のためにあったものなのかは知らないが、もしかすれば僕と同じように秘密基地趣味を持つ家主がいたのかもしれない。
三畳もない洞穴は、一人だけで過ごす空間としてはこれ以上とないものだ。
どれだけ音を出しても外に漏れることはきっとない。
本音を言えばもう少し広いと息苦しさのようなものがマシになるのかもしれないが、我儘は言わないほうがいいだろう。
そして、僕は僕の前に立つ。
土壁に背を預けて眠るように座っているその姿は、いつか完成したときに歪さを失うだろう。
そこは秘密基地。僕は今日も僕を造っている――。
1
そして彼女は、家を出て行く少年を見送った。
階段の一番上に座り、彼が廊下を横切っていく姿をじっくりと。
端的に言えば、彼が空き家だと思っている家が空き家ではないということ。
二階には彼女が一人、暮らしているのである。
夕方頃、金曜日を除く平日に彼は家にやってくる。
そして日が暮れる前に彼は帰って行く。
彼女は彼の足音が消えると階段を降りて、地下室に向かった。
彼が何をしているのか彼女には理解できないでいた。
土壁にもたれかかる人の形をしているだけの異物は、彼の精神の異常さを感じさせるには十分過ぎる代物だ。
「……」
約二年。
日に日に形にはなっている――人形には近づいているのかもしれないが、やはりそれは異物でしかない。
もし彼が、異物を造っているつもりであるなら、彼女は決して表情を曇らせたりはしないだろう。
彼女は彼が何を作ろうとしているのか知っているからこそ、眉間にしわを寄せその異物を見下ろすのだ。
彼が造っているのは彼自身である。
彼女が直接彼に聞いたわけではない。
彼女には人の弱みを知ることができる体質のようなものがあった。
それは能力ではない。
あくまで体質でしかない。
魔女として生まれ、人の弱みを掴み、力を得る魔女だからこそ手に入れさせられたものだ。
恐る恐る、しかし大胆に――彼の初めての侵入を思い出さずにはいられない。
彼女は突然の侵入者に身を強張らせていた。
人が近づいてくるはずのない場所に突如現れたただの人間は、彼女の孤独な人生を変えたのだ。
会話をすることはなかったが――生の声を聞いたこともなかったが――生涯孤独を定められた彼女には、目の前に他の存在がいることこそ救いのようなものだった。
そこで初めて、彼女は自分の体質を知ったのだった。
少年の苦しみを観てしまったのだった。
『死にたくない』
彼の人生はただその一言で済まされる。
彼は赤信号を渡らない。
他大勢が渡る車の通らない赤信号を、彼は怯えて立ち止まる。
交差点では車との間に遮蔽物がある場所にしか立たない。
車が向かってきても、少しでも被害を減らすために。
自室には大量の水と食料、枕元の靴と共に手動で充電のできるラジオライト。
もしもの大災害、自分だけでも生き残るために。
枕と布団の間に隠してある包丁は、きっと彼の親も知らないものだろう。
武器は命を守るために必要なものだ。
山積みにされた健康医療の本は、そのほとんどがくたびれてしまっている。
何度も読み返したのだろう、その知識は彼の人生を酷く見苦しいものにしていた。
結論に辿り着いたのだろう。
彼はその山積みの本に、もう手をつけていないようだ。
人間は寿命で死ぬ――彼はその現実が受け入れられなかったのだ。
そして彼女はまた、異物を見下ろす。
彼が造っているのは彼自身だ。
自身の体が滅んだ後にその体を使うつもりなのだろう。
機械を造る知識など何も持たない彼に、そんなものを造れるはずもない。
だからそれは異物にしかならないのだ。
「彼を救ってあげたかった」
いつまで時間をかけても、異物は異物のままだ。
彼は異物に夢を託し死んでいく最後を迎えるのだ。
例え魔女の力をもってしても、その夢は叶わない。
彼女にできることは何もなかっただろう。
それは魔法なんてもので救われるものではないからだ。
人間の心は人間の心でしか治せないのだ。
やがて日が完全に落ちる。
最後の夜がやってくる――。