第四章 通り魔(3)
翌日、肩の痛みはいくぶんましになったものの、動かすと痛みがあるのは変わらない。
鏡で見ると、左の鎖骨のところに大きくアザができていた。こりゃ母に見せたら悲鳴を上げるな、その姿を想像して笑ってしまった。
Tシャツを着ればアザはまったく見えない、大丈夫だ。
珪はいつも通り学校へ向かう。昨日宮本静流にあった場所を迂回しようかと迷ったが、逃げるのも癪なのでいつもの通学路を通った。もちろんあの男はいなかった。
鉄鋼所ってどこなんだろう、と思ったが場所はわからず、そのまま何事もなく学校へ着いた。
授業も終わり、帰りに鉄鋼所の場所を探そうと思っていた。あいつとは会いたくないが、自分の知らない場所に気持ちの悪い男がいるというのも落ち着かない。場所が分かっていれば避けたらいいんだし。
校門を出たところで上泉に呼び止められる。またこいつか。
「ねえ神子上君、ちょっといいかな?」
「なんだよ急に」
「神子上君、左腕、怪我してるでしょ」
「……」なんでばれた? 珪は驚いた。親も騙し通せたのに。
「何のこと?」そうしらばっくれたが、上泉に左腕を持ち上げられて、つい声が出てしまった。
「痛ってえよ!」
「ほら、やっぱり」
「なんでわかったんだよ」やっぱりって思うなら動かすなよ、痛いんだから。そう心の中で文句を言いながら左肩をさする。
「喧嘩とか?」
「稽古に決まってるだろ」
いちいち鋭いなこいつは。そう思いながらも、稽古で肩を痛めるなんて珍しことではなく、実際珪も稽古で痛めたことがある。痛みも今のと同じような感じだった。
武術やってるこいつなら、普通はすぐ稽古の怪我って思うはずだけどな。
「友達から聞いたんだけど、神子上君昨日大人の人に絡まれてたって……」
見られてたか。いや誰かはそりゃ見ているよな。下校時の通学路だったもんな。
「だからなんだよ。別におれは変なことしてないぞ」
どう考えても自分は悪くなかったと思う、手を出してきたのはあいつだし。
「先生に言った方がいいよ、それと仕返しなんて考えちゃだめだよ」
「考えてねえよ。いやあいつがまた絡んでくるなら別だけど」
「ならいいんだけど。本当に、そういうのには気をつけて欲しかったから……」
何なんだよ。おまえはおれの親か。
心配されるのも過剰になるとうっとうしいものだ。
「じゃあおまえだったらどうしてたんだよ」
「え?」
「状況はこうだ。いかにもチンピラ風情の男がなん癖をつけてきた。とりあえず謝れと言う、どうする?」
「謝る……」あっさりと答えが返ってきた。
「わかってない! 謝ろうものなら相手はつけ上がってくるぞ。頭を下げて相手から目をきった瞬間殴られるかもしれないぞ」
「そうだね……、それもあるかもね」
「だろ」
珪は上泉が同調したのを見て満足した。
「でもやっぱり、そいう時は大声で人を呼ぶとか。危ないもの」
しつこいな、そう思いながらも、昨日の状況をイメージしながら珪も負けじと返す。
「向こうが気弱なやつだったらそれでもいいかもな。でも気の強いやつだったら逆上して殴りかかってくるぜ」
たぶん宮本はそうしたんじゃないかと思った。だいたい気弱なやつは因縁つけてきたりしない。
「でも、本当に危ない人は危ないよ」
「でもどうしようもないだろ。どうやったって危ない時は危ないんだよ」
珪はいらっとして続けて言う。
「おまえはさ、理屈ばっかりでわかってないんだよ」
言い終えて、すぐに言い過ぎたと思った。
「ああ、悪い。言い過ぎたけど……」
女子と口喧嘩してもいいことはない。十一年生きて珪の悟った真実だった。言い負かされたら負け、言い負かして泣かせてもこちらの負けになる。まったく割に合わない。
「神子上君には、わかって欲しかったから……」
やばい、こいつ泣く……。
珪はそんな気配を感じた。
「クラスに同じ武術やってる子がいて嬉しかった。同じように稽古を頑張っている子がいて本当に嬉しかった。小学生なのに大人相手に試合するなんて、本当にすごいって思った……」
「いやだからあれは」またその話かよとうんざりする。
「私と同じ思いは、して欲しくないから。同じ目には遭って欲しくないから……」
そう言って上泉は涙で濡れた左目を向ける。
「おまえ……」そう言って珪ははっとする。
「その右目ってまさか」
しばらくの沈黙の後、上泉が言う。
「そう……、刺されたんだよ」
珪は何も言えなくなった。
「小学三年の時にね、強盗だった」
「そんなこと……」
おれに言うなよ――。
言われたってどうしようもないじゃないか。
しばらく黙って上泉が泣き止むのを待った。
泣くぐらいなら言わなきゃいいのに……。
上泉の経験してきたことの重さは珪には到底わからなかった。
「神子上君にはね……、知って欲しかったの。ただ、それだけ」
そう言って上泉は背中を向けて帰って行く。
やけに小さな背中に見えた。いつもの上泉の凛と背筋の伸びた姿勢からはほど遠い。
珪は声をかけようかどうか迷った、が。
「上泉!」
上泉は足を止めた。
「おまえは……、何で武術を続けているんだ?」
返事はなかった。それでも珪は続ける。
「おまえこそ、仕返しをしようと思っているのか?」
上泉は振り返った。
「ないよ……。その犯人が、今どこにいるのかも知らないし」
涙はないが、今にもまた泣き出しそうだった。
「私はただ、ただ……」もう一度顔を拭って言葉を続ける。
「この右目はね、眼球もないし、涙はもう流れないんだよ。もう開かないように縫いつけてもらってる」右目を押さえながら上泉は言った。
「この目は、私の敗北の証だから」そう言って右目から手を離す。
「仕方がないだろう……。相手は大人だろ、男だろ。かなうわけないじゃないか」
その珪の言葉に、上泉は首を振る。
「私はただ、もう一度同じことが起こった時に、その暴漢に立ち向かいたい。そして、次はこの父母からもらった身体を守り抜く! 絶対に」
泣いていた時の弱々しさはなくなっていた。
「私はそのために、武術の稽古を続けているんだから」
背筋も伸びてはいる。でも――。
おれはいつものおまえの方がいい。自己紹介をした時の、ドッジボールをした時の。
無理しているんじゃないのか、今のおまえは。立派なことを言っているのかもしれないけど、おまえの背負ったものは相当重いのかもしれないけれど。
もう一度暴漢に襲われる確率ってどれくらいだよ。一生にあと一回あるかないかくらいじゃないのか。そんなことのためにおまえはずっと稽古してるのか? これからもか?
「おまえは女だろ、身体も小さい。無理だろ、かなわないよ……」
珪も稽古をしてきているからこそ、骨身に沁みてよくわかる。力の強いやつにはかなわない。大人には絶対かなわない。
「じゃあ神子上君は、大男にナイフで襲われた時、仕方ないと思って諦めるの? 諦めて殺されるの?」
「……」
いつの間にか言ってることが逆転してしまったな。
珪の沈黙を聞いて、上泉は背を向けて歩き出す。最初の時の背中よりはましに見えたがやはり寂しそうに見えた。
「珪君は……、死にゆく自分を想像できる?」
その言葉を置いて、今度こそ上泉は帰って行った。
珪は一人残された。宮本のことも、左肩も、もうどうでもよくなった。
そのまま珪はうつむいて、重い足取りで家路に着いた――。