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第四章   通り魔(2)

 その日の放課後、家へと向かう帰り道だった。

 珪は一人の知らない男に声をかけられた。

 見ると、あまり清潔とは言えない服装の中年男だ。だがホームレスというわけでもなさそうだった。

 背はあまり高くなく、小学六年生の珪より少し大きいくらい。ただし顔は自信に満ちた余裕のある表情で、小柄でも手足の太さ、胸の厚さなどで、普通の人間でないのは一目瞭然だった。

 もちろん道場の先輩などではない。学校の先生の中でも、こんな顔は知らない。まったく初めて見る顔だった。

「……何ですか」珪は警戒しながら答えた。

 男は近づいてくる。珪は足が軽く震えてくるのを感じた。

 落ち着け落ち着け、そう自分に言い聞かせる。頭は冷静なつもりだった。

 東京の通り魔のニュースを思い出す。母親の言葉も思い出す。逃げるか戦うか早く決めなければならない。

 しかしナイフでも持っていれば別だが、見るからに手ぶらの人間、いきなり逃げ出すのもどうだろう。道を訊くだけなのかもしれないし、そんなことを考えているうちに、まん前まで近づけてしまった――。この距離で突然刺されたら避けることなどできない。男は言った。

「おまえ、四月の県武道館の大会に出てたろ」

「……」珪は答えない。何をされるかわからないからだ。

「答えろって」

 決定だ。まともな人間の初対面の喋り方じゃない。

 珪は露骨に構えを取った。右足を前に出した右半身の構えで相手を見据える。

 男はさっき武道大会のことを訊いた。つまり、そういうことか。

 改めて男の拳を見る。ごつごつした(いびつ)な形、間違いなく空手家だろう。大会の時も感じたが、本当に空手家ってのは品がない。今この男を前にして、その理由が分かった。

 空手は素手で木材や瓦や瓶を砕くという。言わば常時武器を持っているようなものなのだ。素手の人間を相手に、自分は両手に武器をぶら下げている。そうやって勝負に挑もうという姿勢と、絶対に自分は強いんだという自信に、品のなさを感じたんだと思った。

「やんのか、おまえ? 喧嘩を売るなら俺は喜んで買うぜ?」

 その男も構えを取った。

 足の震えは止まらない。男に気づかれていないか心配だった。心臓が早鐘を打つ。武道大会で山岡先生と試合したときとは比べ物にならない。

 恐い……。

 この男は小学生を前にして、人目もはばからず遠慮のない構えを取っている。間違いなく手加減はない。

 今周りに人はいるのか……? 気になったが目を逸らした瞬間に殴られそうで動けなかった。

「おい、素直にごめんなさいを言えば許してやるよ。初対面のやつにいきなり構えを取るなんて、どこの道場で習ってるんだよ」

 珪は何も答えず、動かない。

「じゃあいいんだな? 試合開始ってことで。本当にガキは勝手だな、自分が強いって思ってんだろ? 最後は必ず自分が勝つって。顔に書いてあるぜ」

 道場でもこんなプレッシャーは感じたことがない。まったく身体が別物になってしまっている。たぶん、一度は動く。荒っぽい動きになるだろうが。でも動いた瞬間にやられる。腹か顔を突かれるか蹴られるか、それで終わる。だから今動けない。

 すると男は突然顎を狙って蹴り上げてきた。

 大きく動いて躱す、しかし大きく動き過ぎてバランスを崩してしまった。

 そこへ踵が落ちてくる。

 避けることもできず、珪の左の鎖骨に大きな衝撃が伝わった。

 痛ってえ……。

 何か鉄柱でも倒れて落ちてきたような感触だった。痛くて痺れて全身が動かない。

「あー、やっぱり子供の骨は柔らかいんだな」男は残念そうに言った。

「本気で折るつもりで蹴ったんだぜ」

 足は動いた。右手も動く、でも攻撃を受けた左腕は全く動かない。今も痺れている。

 折れたんじゃないのか? そう思った。

「じゃあ次こそ折るわ」

 どうしたらいい? 今こそまさに逃げるべき時なのだろうが……。

 相手と対している以上、いきなり背中を見せて逃げるわけにはいかない。確実に攻撃されるからだ。

 ならどう逃げたらいい?

 全身が熱くなってくる、尿道を締めた筋肉が一瞬緩むのを感じる。普段は絶対感じない変な感覚だ。

 身体はどうかしてしまったらしい。でも頭は働く。そこはいつもと何も変わらない。

 前へ出よう、そう思った。

 体当たりだ、それならできる。そしてそのまま走り抜けて逃げよう。

 珪は覚悟を決めた。

静流(しずる)ちゃあん! 何やってんのこんなとこで!」怒声を帯びた大声が響き渡った。

「勝手にさぼられちゃあ困るよ! 一体何やってんだよ!」

 やや太った作業服を着た男がすごい剣幕で近づいてくる。

「社長、なんでここにいるんスか」

 空手の男は驚いた様子だった。

「だって今日は休むって言ったでしょう」

「聞いてないよ! そんなこと。休むなら事前に休暇届書いて、許可もらって!」

 書きましたって、そう言いながら男は引きずられていく。珪はただ呆然と眺めるだけだった。

「おい、神子上珪。俺はそこの鉄鋼所で働いてるから、あとで文句あるならいつでもいいから来いよ」そう声を投げてくる。小学生相手に何やってんの、隣の社長にそう言われながらも、まだ喋り続ける。

「俺は宮本(みやもと)静流(しずる)ってんだ。覚えといてくれよ。静かに流れると書いて静流だ。武道家らしいいい名前だろう?」

 どこが……。そう思って危機が去って行ったことに安心し、珪はその場に座り込んだ。

 家に着く頃には痺れは消えて、左腕は動かせるようになっていた。それでも動かすとまだ相当痛い。あの宮本とかいう男の言うことが本当なら骨は折れていないらしいが。

 善也たちと遊ぶ約束だったがやめることにした。明日謝ればいい。もちろん稽古も休む。

 そのまま珪は夜まで寝てしまった――。



 夕食も終わり、稽古から帰ってきた祖父も居間にいた。食事ではまだ左肩が痛かったが、ばれないように、いつも通りに振るまった。テレビではまた朝の通り魔のニュースをやっていた。

「父さんはさ、後ろから突然切りかかられたら躱せる?」本を読んでいた父に声をかける。父が読んでいるのもどうせ武道の本なんだろうと思って背表紙を見たが、珍しく違っていた。何かビジネス書のようであった。

「まあ、無理だろうな」こちらを向いてそう答えた。

「先生ならどうですか?」そう祖父の方に話を向ける。父の典明は忠恒のことを常に先生と呼ぶ。

「朝も珪に聞かれたなあ。俺だって無理だよ。まあ達人なら別なんだろうがな」

「達人なら避けられる?」

「避けて欲しいよな」笑いながら忠恒は言う。茶化さないで答えて欲しいなあ、そう珪は思った。本当のことが知りたかった。

「開祖は躱したんじゃないですか? そういう逸話、たくさんありますよね」

「ああ、武道先生ならそりゃあな。あの方は神様だもの」

 陸前(りくぜん)武道(たけみち)、珪も名前は知っている。陸前流合気柔術の開祖だ。忠恒の部屋には写真が飾ってある。明治時代の人だとか、珪はそれくらいしか知らなかった。

「すごい話があるなら聞きたいな」

「ああ、いろいろすごいのあるぞ」そう典明が身を乗り出して喋りかけたものを、忠恒が制する。

「もっと技が上手くなったらいろいろ話してやるよ」忠恒は笑った。


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