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第三章   家庭訪問(2)

 次の訪問先を目指しながら山岡はハンドルを握る。

 今年はクラス替えはなかったんだし、別に家庭訪問しなくていいと思うんだがなあ。

 運転しながらあれこれと考える。

 家庭訪問を毎年行うことはこの学校の決まりであり、さすがに教頭に逆らう気など微塵もなかった。あいつはすぐ楽をしようとする、そんなレッテルを貼られるのも損でしかない。

 これから行くのは転校してきた上泉命の家だ。

 本当はもっと早い日に行きたかったのだが、向こうの都合で今日になってしまった。

 転校の際に命の母親とは会っているから、まあいいだろう。

 そんなことを考えているうちに目的のアパートの前まで来たが、予定より時間が早かったため、途中通った本屋で時間を潰すことにした。

 自動ドアを抜け、最初に店内全体を一目で捉える。その焼きつけた景色の中から各本棚に付いてる案内標識だけを浮かび上がらせ、必要な情報を選び取る。

『趣味・スポーツ』

 最短距離で素早くそのコーナーへ向かう。静かに、他の人に触れぬように。

 山岡が興味があるのはもちろんスポーツではない。スポーツコーナーの片隅にひっそり置かれている武道コーナーだ。

 空手関係はすでに目を通してあり、今日来た目的はまた別にある。置いていない店も多いのだが、さあここはどうだ?

 バスケットやサッカーの雑誌をずらしながらくまなく棚を探す。あった――。

『月刊古流武術』。タイトル通り古流武術を紹介している雑誌だが、空手の師範が出ていることも多く、また剣術や柔術でも、空手の参考には大いになったからだ。毎月買うのは空手雑誌と合わせると出費が厳しくなるため、今月号を買うかどうかは充分吟味する必要があった。

 ――などとそう自分に言い訳をして山岡は立ち読みを始める。

 グラビアは、皺くちゃの老師範の顔のアップであった。

 鋭い目つきだな。これは只者ではない、何流だ?

 そうして夢中で読み進めていくと一つの記事に目が止まった。

 ――若き達人 期待に応え再登場‼――

 伊勢(いせ)(もり)命綱(めいこう)、その名前は山岡も知っていた。一般に達人といえば六十歳以上がほとんどだ。五十代でも若いとされる。山岡が最初に記事を読んだ時はたしか四十七で紹介されていたように記憶している。どんなに非凡な技を身につけていても、四十代で達人という言葉は武道の世界では普通使わない。逆に言えば、その言葉を使わざるを得ないほどに、その技は達人級であったと考えることもできる。

 まあ、こういうのは実際見てみないとなんとも言えないんだけどな……。

 しばらく雑誌で何度か見かけたのだが、急に伊勢森命綱の名を見かけることはなくなった。山岡も今見るまでその名を忘れていたほどだった。

 写真を見る感じでは、背丈は小さい方だろう。屈強な弟子を投げ飛ばす様は、この雑誌ではよく見かけるが……。

 山岡は、基本的に空手こそが武道で最も強いと思っている。だからこういう雑誌は疑いながら読んでいくのだが、この師範は本物のように思えた。

 特に一枚の写真が気になった。

 空手をやっている自分よりも遥かに強そうな大柄な弟子が、必死になって倒れまいと堪えている。技をかけている伊勢森命綱は穏やかに、いい景色でも眺めるように遠くを見ている。

 その立ち姿には一本線を通したしなやかな中心軸が見え、肩はストンと力が抜けて、胸の前で天を指差す節くれだった指先にはほとばしるような気力が満ちており、大きく反り返ったぶ厚い足の親指は、長年続けた苛烈な稽古の様子が窺えた。

 いいな――。

 記事の内容は一度読めばだいたい頭に入るのだが、この写真だけはずっと見ていたかった。仕方ない、買うか。

 そう思い雑誌を閉じた時にハッとする。時間! 腕時計を見やるが約束の時間にはまだ十分間に合いそうだった。

 山岡はほっとして雑誌をレジに持って行った。



 上泉命のアパートに着いた。もっと立派なマンション住まいかと思っていたが、割と簡素な印象を受ける。

 教師になってから何度も家庭訪問をしているが、その家庭というのは本当に様々だ。きれいに掃除された家や、散らかり放題なのを急ごしらえで片づけた部屋、離婚などいろいろ複雑な家庭事情を抱えたところもある。

 時間はぴったり。インターホンのボタンに手をかけ一瞬躊躇する。別に押し売り訪問するわけではないのだが、初めて行く家は緊張するものだ。

 押してから間を置かず扉が開いた。はにかんだ笑顔の命が迎えに出てくれた。

 

 家の中は小ぎれいに片づけられていた。全体的に物が少ない。台所で母親と挨拶をした。その隅に段ボールの箱がいくつか見える。

 東京から先月越してきたばかりと聞いているから部屋がきれいに見えるのはそのためか。

 そんなことを考えながら居間へ案内されると、部屋の前で命の父親が迎えてくれた。

 一通りの決まり切った挨拶のやり取りをして、部屋に入り正座をしながら怪訝に思う。

 この顔は――。

 相手も山岡の様子に気づいたようだった。

「先生、どうされました?」 

「い、いえいえどうも。まだこちらに来て日が長くないでしょうから、いろいろ不便でしょう」

 当たり障りない言葉を返しながら様子を探る。

「いやあ、先生も武道をされているそうで安心しました」

 先生も? よし、質問なら今だ!

「失礼ですが、上泉さんも武道、いや武術をされていますよね?」

「お恥ずかしい。娘から聞きましたか」

 いや、聞いてはいないが――。おそるおそる山岡は訊ねてみた。

「伊勢森命綱先生ですよね……?」

「はい。本名は上泉ですが、先代伊勢(いせ)(もり)(まもる)より号を頂き、伊勢森命綱を名乗らせて頂いております」

 本当に若き達人かよ……。

 改めてその正座している姿勢をみるに、只者ではない様子が見て取れる。以前別の達人の正座した写真を見た時に感じたのだが、妙な喩えだが、上半身と下半身を切り離して、正座した下半身の土台の上に、上半身を乗せてるように見えたのだ。

 立位をとっている人間の上半身と、正座しているときの上半身はイコールにはならない。それは骨格が変化するからであるが、そこに変化が生じて見えないというのは、それだけ骨盤周りの関節がやわらかいということだろう。山岡はかねてからそう分析していた。

 目の前に達人がいる。達人だ。

 武道・武術を学んでいるものがこの日本に、いや世界にどれだけいるか知らないが、何十年と稽古を続けたって達人と呼ばれる人は数十人といないのではないか。

 その一人が今目の前にいるのだ。卓を挟んだすぐ目の前に。それこそ手を伸ばす――、もとい突けば当たる距離に!

 達人だぞ? 当たるわけがない。しかしこの距離だ、当てられそうに見える。というかこんなにリラックスしていて、避けられる気がしないが……。

 伊勢森命綱と目が合い、そのまま伊勢森が頭を下げた。

「どうか娘をよろしくお願いします」

「……」

 たぶん皆お見通しなんだ。俺だけが特別じゃない、きっと伝説の達人と会った者なら今の俺と同じような反応をするはずだ。

 この伊勢森先生はそんな連中をいつも相手にしている。わかってるんだ、今の俺が何を考えているかくらい。

「こちらこそよろしくお願い致します。いじめの類は絶っ対にさせませんので。それだけはここでお約束させて頂きます」

 事前にこの言葉は必ず伝えようと思っていた。これは自分の教師としての信念であり、嘘偽りない本心だった。

「よろしくお願いします」そう命が畳に手を着いて礼をした。

 そういやこいつがいることを忘れてた。達人にすっかり飲まれてしまったな。

 山岡は急ぎ姿勢を整え、命に向かって礼をした。そして伊勢森も山岡に礼をした。

 まいったな……。達人に礼をしながら思う。この達人の娘に何かあったら、俺は切腹だな。

 自分のばかばかしい考えに笑ってしまったが、誰であろうといじめには合わせない、そう改めて心に誓うのであった。


 途中で命は部屋に引き上げた。

 ある程度話はできたし、次の予定もあるため早めに切り上げるか、そう思った時だった。

「……ところで先生、命の目のことについてはきちんとお話しておきたいのです」

 命の母親にお茶を注いでもらいながら山岡は訊き返す。

「事故だったとは最初に伺いましたが」

 そう言って転校の際説明してくれた母親の方に目をやる。母親は目を伏せた。伊勢森は続ける。

「本当のことを言うと色眼鏡で見られてしまいますので。先生を試したわけではないのですが、事故ということで説明させてもらいました」

 いったい何が語られるんだ? 伊勢森のただならぬ気配に、山岡は緊張してきた。

「本当は、刺されたのです。暴漢です」

 驚いた……。高名な武術家の娘が暴漢に。

「東京の道場でした。たまたま通りかかった男が道場内に侵入し、そこに偶然いた娘に切りかかったのです。弟子たちがすぐに異変に気づき、暴漢は取り押さえられたのですが――。いや、正確には投げ抑えたのです。相手は暴漢の現行犯、襲われたのは道場生。何の遠慮もなかったのでしょう。暴漢は床に頭部を激しく叩きつけられ、昏睡状態になったそうです。一命は取りとめたそうですが、後遺症が残ると」

「そんなもの自業自得でしょう!」

 声を荒げてしまったが、隣室に命がいることを思い出す。

「そして裁判沙汰になりまして、理不尽なことに過剰防衛とされてしまったのです。上告していますが、いまだ裁判中なのです」

 重いな……。とても口を開ける空気ではない。

「娘は右目以外は怪我はないのですが、何せ目です。日常での不自由さもそうですが、どうしても顔ということで目立ってしまう。また、恐ろしい思いをしたという心の傷もある。学校では皆と上手く馴染めなくなってしまったそうです。目のこともからかわれて、学校を休みがちになってしまいました」

「それは……本当に、お辛かったですね……」失礼にならないか散々思案した揚句、山岡はそう言った。

「でも娘さんは強いですね。今は学校ではそんなことを微塵も感じさせません。すでに友達も多いし、人気がありますよ、あの子は」

 命にも聞こえるように少し大きな声で山岡は言った。

「ええ、山岡先生のおかげだと思っております。本当に感謝しています」

「いや、やはりご両親の接し方ではないですか。ご立派ですよ」

「いやいやとんでもない。私は父親としては失格でして。この不憫な娘になんと接したらよいのかわからなかったのです。私はただただ、甘やかすことしかできなかった……」

 甘やかす……、意外だな。達人のことだ、そんな時こそ厳しく言うのかと思ったが。

「私でさえ、急に片目を失えば狼狽するでしょう。今このように平然としていられるかわかりません。ましてや相手は九歳の子供です。学校に行きたくないと言えばそうさせるしかありませんでした。欲しいものがあれば極力買ってやりました。ただ一つ感謝しているのは……」そこで言葉を切った。

「武術です」こちらを静かに見据えて言葉を続ける。

「この伊勢(いせ)(もり)(しん)陰流(かげりゅう)。娘はなぜか武術の稽古だけは続けました。学校に行かなくとも、稽古にだけは来たのです。そして私も、普段娘に厳しいことは言えないが、道場ではいつも通り、必要があれば厳しく接することができました。本当に、武術をやっていてよかった、そう思っています」

 気づけば母親はハンカチで目を押さえている。父親の伊勢森はさすがに落ち着き払っているが、内心はどうであろうか……。

「では、いつ頃彼女は立ち直ったのですか?」その質問に、伊勢森は少し驚いた様子だった。が、すぐに笑って答える。

「あの子が立ち直ったとそう見えるのなら、やはり先生のおかげなんでしょうね。よい友達のおかげなんでしょう。あの子が明るくなったのは本当に最近です。ここへ来てからなんですから。どうしてもあの子が学校に行きたくないというから、ここに転校してきたのですから……」



 その日の仕事をすべて終え、山岡は家に着いた。最後の生徒のところには大遅刻してしまい平謝りだったが。

 それにしても――。

 心が落ち着かない。重い話を聞いてきたこともあるが、それだけではない。ちょっと不謹慎だろうか、そうも思ったが、山岡は携帯電話に手を伸ばし電話をかける。

「あ、俺だけど」

 普段教室で響かせている太い声とは違い、低くぼそっとした声だった。

「あー、いいだろ別に。食べてるよ、ちゃんと。それより親父いる? ああ、あのさ。俺今日生まれて初めて達人に会ったよ。親父も名前くらい知ってるかな、伊勢森命綱ってんだけど、本物の達人だよ。探せばネットで動画出てくるよ。いや、それがうちの教え子の父親でさ。すごいだろ、いやーオーラあったわ」

 この興奮を誰かに伝えたくて、滅多に電話もしない実家の父に喋り続けた。

 もちろん命のことは言わなかった。たぶん誰にも、生涯話しはしないだろう――。

 でも命が本当に立ち直ったならば、この事件を克服したならば、自然と本人の口から周りの親しい者に語られるだろう。きっとそれでいいんだと、そう思った。

 電話を終え、狭い六畳間の静寂の中思う。

 たぶん、おまえは結構重要な位置にいると思うぜ、珪。

 山岡は、いつも手を煩わせる問題児の名をそっと呟いた。

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