第三章 家庭訪問(1)
両手を組んで上に伸びをする。息を止めずに細く長く息を吐いていき、気持ちよく感じられる範囲で全身に力を入れる。そのまま息を止め、さらに力を込める。じわじわじわ、と身体の中に溜まった不純物が燃えていく感じがする。
「うああぁーっ、ぷはぁー」と力を抜いて楽に息を吐き出す。
全身の疲労感が流れ落ち、すっきりする。不純物を燃やしきってなくなったところに、新鮮な血液が充満していく感覚だ。
別に呼吸法でも鍛練法でもない、ただの伸びを終えて一息つく。数人がこちらに視線を向けるのを感じ、ちょっと声が大き過ぎたかと少し恥ずかしくなった。ずれた黒ブチ眼鏡を直すフリをする。
ここは仲町小学校の職員室だ。珪のクラス担任山岡精太郎は、気まずさから書類を急ぎ整え鞄に入れた。
今日もこれから三件だ。失礼のないように、信頼してもらえるように……。
「山岡先生、気合入ってますね。家庭訪問ですか? 頑張ってくださいね」
同僚が声をかけてくる。
気合? 抜けてるの間違いじゃなくてか?
「はい。今週でようやく終わりですよ」
いいよなあ、さっさと終わってるやつは。
とそこは胸の中にしまっておいて、早めに車で出ることにした。
授業が終わった放課後、競うように次々と玄関口から帰って行く生徒たちを眺めながら、珪たちは校舎の掃除をしていた。玄関から外階段の下までが割り当てられている範囲だ。
席順で決まっている班単位で掃除を行うのだが、今日はいつもの面子とはちょっと違っていた。
――上泉がいる。
本来は班が違うので一緒に掃除をすることはないのだが、萩野がどうしても休めないピアノのレッスンとやらがあるらしく、上泉に掃除を代わってもらうようお願いしてるのをさっき聞いた。
何だよ、この時間のピアノのレッスンって。ただのさぼりじゃないの。そう珪は思ったが、上泉は疑いもせず快諾した様子だった。
人が良すぎるんだよ。おまえだって今日家庭訪問あるんだろ。少しは疑えよな、東京のやつはみなこうなのか?
外の空気が吸える外階段の掃除は、掃除の割り当て場所の中では好きな方だった。
とはいえもちろん、早く帰れるならそれに越したことはない。歪んだロッカーを開き、先端の丸まった毛の固い外用の箒数本の中からできるだけましなものを選んだ。
振り返ると上泉がいた。
右目を閉じたまま、左目でこちらを見つめている。
転校して来て、初めはたしかに変なものを見るような気持ちだったが、こいつの片目姿にも慣れてきた。
「ほら」しかたないから持っていた箒を渡す。ちぇ、あれが一番ましなやつだったのに。
残りの箒はみな同じようなもので、珪は足で箒の先端を踏んで毛の丸まりを直そうと試みたが何の効果も得られず、すぐ諦めた。
「おれたちは外階段やるから、おまえら女子は玄関な」そう言って珪は上の階から階段の砂を掃き落とし始める。毎日砂を落としてるってのに、どうしてこう砂が溜まっていくんだろう。
そんなことを考えていた珪だが、ふと人の気配を感じた。見上げるとまた上泉だ。自分の掃いたところをまた掃いている。
「おい、そこはもうやったよ。それに玄関はどうした」
「なんか、手が足りてるみたいだったし、外階段の方が広いし。そっち男の子一人少ないでしょ」たしかに 珪の班は、男子2人と女子3人になっているが。
「砂、結構残ってるよ」
そう言って上泉はもう一度上の段から掃き始める。
「いいのに。おれたち男子でやるからさ」
「なんでここでは男子と女子で分かれちゃうの? そんなの関係なく手伝ったらいいのに」
たしかにこのクラスの男子と女子はすこぶる仲が悪い。だが今まで男女仲が良い学年なんて一度もなかったぞ。それが普通じゃないのか?
「前の学校はそんなことなかったなあ……」
そうかい、東京の学校では男女仲良く楽しくやってたのかよ。悪かったな田舎の学校でさ。
このクラスで男女仲良く――と珪は想像してみて悪寒が走った。考えたくもない。
「なあ東京って、本当にみんな仲いいの?」
あまりに理解できない世界に、珪はつい訊ねてしまった。
「……」
その問いには答えず、上泉は珪の掃いた玄関を出てすぐの床を終え、階段を掃きながら降りてくる。もうすぐ珪に追いつきそうだ。階段の隅までしっかりと砂を残さず掃き落とし、かつ速い。
いい箒を回してやったからだよ。珪はそう思うことにした。降りてきた上泉は珪に並ぶ。
どうするんだよ、速さで勝負でもするのか?
「じゃあ、神子上君はそっち半分、私はこっち半分をやるから」
要するに階段を縦に半分に割り、右と左で分けようって提案だった。
まあ、たしかに被らないけどさあ、やりにくくないか? 掃除の手際がいい割に、要領を得ないというか……。
下の階は龍之介がやっているはずで、珪はいろいろ言うのも面倒くさくなってきた。
ただそうやって並んで掃除をしていくと、ちょっと速さで競いたくなるものだ。手足に力が入ってきたところで上泉が声をかけてきた。
「あの武道大会のこと、訊いてもいい?」
「……いいけど、他のやつには言うなよ。小学生禁止だったし、ぼろ負けで格好悪いし」
正直訊かれたくはなかった。ましてや武術やっている上泉には。
だがその珪の返事を聞いて、上泉の表情が明るくなる。
「初めて参加したの? ああいう大会にはよく出てるの? すごいよね、大人相手に。陸前流合気柔術だよね? どれくらい稽古してるの? 今度見学に行ってもいい?」
次から次に質問を飛ばしてくる。こいつ本当に武術好きなんだな。
「初めてだよ。それに好きで出たわけじゃないし……」
「小学生禁止なんでしょ? 神子上君のお父さんそれなのに出ろって言うの?」上泉は驚いて言う。
「そんなんじゃないよ。親にも内緒で出たんだ」
「好きでもないのに?」怪訝そうに訊き返す。
自分で言ってて筋道が通っていないのは自覚している。でも自分でもあのときの気持ちは正確には伝えられない。が、一時の気の迷いではない、確固たる気持ちで参加した。それは自信を持って言える。
そりゃそうだ、試合開始に漕ぎつけるだけでも、いくつものハードルがあった。今思い出したって、あの針の莚の感覚は身が縮こまってしまう。途中で帰る理由は山ほどあった。
「嫌だけど、どうしても参加したかったんだ!」
それを言葉にするとこうなってしまう。聞く方はわけがわからないかもしれないが、珪の中では矛盾しなかった。
「なるほど……。そうなんだね」
何がなるほどだよ、素直に分からないって言えばいいのに。珪は少しむっとした。あのときのおれの気持ちなんて一生おまえにはわからないよ。
「それでさ、今度見学に行ってもいいよね」
なに? それは困る。自分の稽古姿なんて見られたくない。自分がいないところで勝手に先輩方の稽古を見るのはいいけど、それだと自分が稽古をさぼったと思われてしまう。
「いや、だめだよ」
「えー、なんで?」断られたことに上泉は驚いた。
「見学するだけだよ」
「も、門外不出だから……」
以前道場の先輩が冗談で使った言葉を借りることにした。
上泉がしつこく食い下がるが無視して掃除を続ける。
「じゃあさ、今度うちの稽古においでよ」
は? 想定外の質問に、今度は珪が驚く。
「私のところは見学オッケーだし、稽古に参加してもらったっていいよ、ね」
武道のことを語ると、こいつは本当に楽しそうだな。
「いいよ、おれは……」一瞬間を置いて少し強い口調で言う。
「おれはおまえみたいに――」
そこで言葉を切った。
武道好きじゃないんだよ! そう言いかけたが必死で堪えた。
おれはおまえと違って武道が好きじゃない、そう思ったのは確かだ。でも認めてはいけないと思った。それを認めると、自分の中の大切な何かをなくしてしまいそうだったからだ。
そして上泉との会話は途切れた。二人はただ無言で掃除を続けた――。