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最終章   不動智(3)

 そして卒業式の前日になった。落ち着かない生徒たちを前にして、山岡が話す。

「残る学校生活は今日と明日だけだ。本当に俺はこの一年、皆と勉強できて心から楽しかったよ。中学で嫌なことがあったら俺に相談しろよ。社交辞令じゃなくて本気だからな。このこと忘れるなよ。では最後にみんな卒業おめでとう。ただし――」そこで山岡は言葉を切る。

「神子上珪以外な。以上」

 クラス中がシーンとなった。そのまま山岡は教室を出ようとする。

「ちょっと先生、珪以外ってそれどういう意味ですか?」大石が大声で言った。

「珪は一人だけ、一昨年の読書感想文未提出だからな。再三の呼びかけにも応じなかったんだからな」

 それを聞いて珪は言葉が出なかった。

「出す気があるなら明日の朝までな。あとわかってると思うが要約はだめだぞ」そう言って教室を出て行った。

クラス中が騒然とする。なぜ出さない、おまえはあほかと、珪は男子のみならず女子からもすごい剣幕で怒鳴られる。

 そこから先は、とにかく珪は書くしかなかった。クラスの皆が各々アドバイスを送る。こう書けだの、これを読めだの。

 上泉が一冊の本を教えてくれた。『日本の弓術』という文庫本だという。薄くてすぐ読めるし絶対に気にいるからと念押しされた。帰りに家に寄っていくように言い、その本まで貸してくれた。

 珪は家に帰るや即座にその本を読み始める。

 なるほどたしかに話は短くすぐ読めた。しかし内容の深さに驚く。

 簡単に言えば、それはドイツ人の著者が弓道を通じて東洋思想を理解するという内容だった。

 珪は自分の柔術の稽古思い出しながら感想文を書いていった。同じ武術家として、著者の気持ちに非常に共感できた。

 著者は理屈で考え的を狙うが、日本人の先生は自然に放たれるのを待てと言う。著者はこの理屈と感覚の狭間に苦しむのだが、それはまさに今珪が稽古で悩んでいることと同じだった。

 このドイツ人著者の、弓道に対する誠実な思いが伝わってくる。そしてその日本人の師匠もまた、弟子のことを真剣に考えていた。

 珪はその内容に素直に感動した。ものの一時間ほどで珪は感想文を書き上げることができた。

 そのまま珪は学校へ駆けて行く。職員室にはまだ山岡先生がいた。

「おまえもう書いたのか? 随分早いな」驚きながら感想文を受け取り読み始める。

「『日本の弓術』か、いい本だよな。俺も読んだよ」

 珪はどきどきしながらその様子を見守る。

「ほう、いい内容じゃないか。うちの道場の仲間にも読ませたいくらいだ」

 それを聞いて、安心のあまり珪はその場に崩れ落ちた。

「おつかれさん」山岡は笑って珪の頭に手を乗せる。空手家の大きい手だが、柔らかい優しい感触だった。

「でも俺はおまえに意地悪してこんなことをしたわけじゃないからな」

「はい」珪は立ち上がる。

「いいか珪。中学に入ったら、おまえはいろんなことに頭を悩ますと思う。簡単に答えの出るものもあれば、そうでないものもある。真っ向から立ち向かうべきこともあれば、時には逃げていいこともある。正解はないんだ。だからこそ、俺はこんな課題程度でおまえに逃げて欲しくなかったんだよ」

 逃げる、か。たしかにずっと逃げていたな。勉強からも、武道からも。

「門前中はいろいろ柄の悪い生徒も多い。それでもおまえは自分で自分の道を選んだんだ。立派だよ」

 珪は先生にお礼を言い、ドアのところでまた一礼して職員室を出る。

 そこには、なんと上泉が待っていた。

「よかったね珪君、卒業おめでとう」

「ああ、おまえが本を貸してくれたおかげだ」そう言って珪ははっとする。

「本持ってこなかったな。返すのは明日でいいか?」

「いいよ、しばらく珪君が持ってて。高い本じゃないし、また今度会うときに返してくれればいいよ」

 そのまま一緒に帰りながら、珪は上泉と話を続けた。

 とある交差点で二人は立ち止まる。

「じゃあ、ここで」この先は互いに帰る方向が違う。明日も最後会えるはずなのに、どこかうら寂しい気持ちがするのはなぜだろうか。

 上泉が右手を差し出した。

「忘れないでね」

 珪は間を置かずその手を握る。

「中学はいろいろ忙しいんだろうな。おれは頭悪いから忘れてしまうかもしれない。でも、身体は忘れないと思う。この一年経験したことは全部この身体に刻まれてるから」

「うん」

「忘れても三回蹴られた顎の痛みで思い出すと思う」

「ばか」

 そうして二人は別れていった。



 翌日。

 神子上珪は卒業の日を迎える――。










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