第二章 レクリエーション(2)
給食を食べ終わった昼下がりの時刻、クラス全員校庭に集まっていた。下級生の体育の授業が始まるのか、何クラスかの生徒が整列して集まっている。
校庭の端の桜が芽吹いている。あと数日で咲きそうだった。本当にここ数日で春になった感じがする。天気も良好、暖かい日差しを浴びながらの深呼吸、悪くない。
このまま日向ぼっこでもしていたい気分だが、そうもいかない。なにせ、これから始まるのは戦いだ。
チーム分けはすでに教室で済ませてある。幸い上泉とは敵同士になった。善也とは同じチームが良かったのだが、残念ながら敵チームになってしまった。善也は背は小さいがスポーツ全般みな上手だ。だが敵になるのもこれはこれで、まあいいとしよう。
実のところ珪は、ドッジボールが得意ではなかった。そもそも球技自体がやや苦手だ。サッカーや蹴り野球は得意なのだが、ボールを投げる種目を苦手としていた。
ドッジボールの特に序盤が嫌いで、大人数がゴチャゴチャいると、避けようにも身動きとれないし、他の人にぶつかって急に向きが変わったボールには対応しづらいしで、珪はあえてボールを持った相手から距離を取らず正面に立つようにした。これなら周りに人がいない分動きやすい。目立つ分狙われやすくもあるがそれは仕方ないことだ。
序盤はなんとか生き残り、適当に人数もばらけてきた。これくらいになってからが面白い。珪は燃えてきた。
今ボールは敵陣、善也が持っている。奥には上泉が見える。当然あいつも生き残ったか。
善也は狙う相手を決めかねているようだったが、コート隅のおどおどした女子に狙いをつけた。
まあ、そいつを狙うよなあ。珪は反対側で安心して見ていたが、何とボールは珪の顔面めがけて飛んできた。
「ッ!」
咄嗟に手を出したが止められず、ボールを弾いてしまった。
くっそ……。珪は諦めた。が、地面を滑るようにして、ボールをキャッチしたやつがいた。善也と同じくらい球技が得意な上田龍之介だ。
「助かったよ。龍」
「貸しだからな」そう格好いいセリフを吐いて親指を立てて見せた。
しかしやられたな。頭の片隅でひょっとしたらと思ってはいたが、一度もこちらを見ずに狙ってくるとは。ずっと意識していたんだな。悔しいがさすが善也だ。
意識……。稽古の時を思い出す。相手の意識を読み取れればもっと上手くキャッチできるのではないか。さっきも、来るかなとは感じていた。でも一度も見てないのに来るはずがないと自分に言い聞かせてしまったんだ。
そのままコート上での応酬が続く中、上泉を見ていると、避けるばっかりで一度も投げていない。キャッチしてもすぐ仲間に回してしまう。苦手なのか、まだ遠慮してるのか。
そもそも片目で遠近感がわかるのかと思うのだが、その避ける動きには目を見張るものがあった。地味と言えば地味なので、誰もそのすごさに気づいていないようだったが、バランスを少しも崩すことなく、最小限の動きで躱しているように見えた。
すると珪にボールが回ってきた。上泉を狙いたいところだが、その前に善也が鬱陶し過ぎる。さっきの借りも返したいし、と善也を狙うことにした。
「さあ、来いよ珪!」取る気満々で構えている。善也は、珪が投げるのが苦手なことを知っている。格下と認識している自分のボールを避けたりはたぶんしない。がっちりキャッチして優越感に浸りたいタイプだ。
意識……。
その顔面に思い切り意識をぶつける。そのまま投げる寸前で膝の力を抜いて低い姿勢から、足は狙わず顔を狙った。
下から上がってくるボール、避けるのはたやすいが、キャッチしようと思うとかなり難しいはずだ。
「あっぶねえっ!」善也もこれは予想できなかったようで、滑稽な格好でギリギリで躱した。
おしい。ボールは外野も取れない高さまで上がって行く。抜けてしまうと取り行くのに時間がかかりそうだ。
善也がこちらを挑発しているのが見える。
とその時、
「おらあああ!」
外野の大石がその長身を活かしてジャンプしてボールを取り、善也の後頭部にぶち当てた。
「いってええ!」善也がわざとらしく悶絶する。大石、ナイス。心の中で珪は親指を立てた。
その後試合は進み、気づけばもう残っているのは珪と上泉の二人だけになっていた。
珪にとっては願ってもない状況だ。これで遠慮なく投げ合いができる。
上泉の投げる球は、拍子抜けするほど普通だった。だが避け方がただものでないように、キャッチの仕方も独特だった。ボールをぴたりと吸いつけるような、勢いを上手に殺しているというか。片目で距離感がつかみにくいだろうからキャッチの方が難しいはずなのだが、まともに投げてもとてもアウトにできそうにない。
どうするか、もっと勢いをつけてみるか……。そう考えてコートの一番後ろまで下がった時、バンッと音が聞こえた。一瞬何が起きたのかわからなかったが、手にはあるべきボールの感触がない。
振り向くと外野に行った善也がボール持って振りかぶっている。
こいつ叩き落としやがったのか! 相手とはほぼゼロ距離、わずかでも距離を取りたいが、下がれば自分のバランスを崩しそうな気がする。
意識――。ふと昨日の稽古を思い出す。相手はどうしたい? 何を考えてる? 力を抜いて、腰を高くして構えた。
善也が大きく振りかぶったボールは――。
バシッと善也の左手で止められた。フェイントをかけたのだ。もう一度投げようとするもバシッと止まる。
善也の表情に焦りが見えた。三度目は……、投げて来る! 珪は下がらずほんの半歩踏み込んだ。
そして相手の足もとにしゃがみ込む。ボールはバウンドして高く飛んで行った。
これにはどよめきが上がった。普段から男女仲の悪い珪のクラスだが、これにはみな感心したようだった。
見たか、と上泉を振り返る。すごいすごい、という表情で拍手していた。
相変わらずやりにくいな。もっと露骨に敵愾心でもぶつけてくれた方がやりやすいんだが……。
そんなことを考えていたが、問題は上泉をどうやって倒すかだ。上泉の何ということもない普通のボールをキャッチして、今珪の手にボールがある。
ふと外野を見ると、龍之介が手を挙げている。何か策があるようだ。
パスを投げると、すぐ隣にパスを回す。もらったやつはさらに隣へ――。
珪は作戦を理解した。
そういうことか。やつは片目だ。パスを回して見えない右方向から投げつけてやればいい。
見ている周りもややあってその作戦を理解できたらしく、女子の間から大ブーイングが巻き起こった。
「男子、最っ低!」、「男として恥ずかしくないの」、「死ねよ、珪!」、最後の一番ひどい言葉を言ったやつが羽深だ。これだからあいつは嫌いだ。
これは作戦だ。そして上泉の強さを認めたからでもある。別段恥ずかしいとは思わない。勝つためにはルールの範囲で全力を尽くすべきだ。
そして隙を見て、死角の右側方からボールが投げつけられる。振り向いた時にはもう当たっているだろう。
だが、上泉は振り向きながら上体を捻って躱した。反対側でボールを受けた龍之介が即座に投げつけるも、あの柔らかさでボールを事もなげに受けて止めていた。避けるときに少しでも軸がぶれていたら二度目のボールは受け止められなかっただろう。
その動きにクラス全員の賞賛の声が上がった。珪は拍手はしない。まだ戦いの途中だからだ。
しかしこのままではらちが明かない。そして珪には上泉がまだ本気を出していないように感じられた。こいつの本気を出させるには……。
そうだ、間合いだ。
「おい上泉、おれはおまえにもっと近い距離での投げ合いを申し込みたい! 受けるか」
前へ出て大声でそう言った。
一瞬置いて、敵味方問わず、男子の間から歓声が上がる。
「さすが珪だぜ」、「面白そうじゃねえか」、「受けろ受けろ!」次々に声が上がる。
「えー、いいよそんなの!」、「命ちゃん無視していいよ」、「付き合うことないって」女子の間からはまたしてもブーイングだ。
珪の読みでは半々と思っていた。どうする……?
「うん。いいよ」上泉はそう言って、不敵に笑ったように見えた。今までの屈託のない笑顔とは違う。雰囲気も変わった。
「……。じゃあその場で小さく丸を書いてくれ」珪はつま先でコンパスのようにクルッと足もとに丸を描いて見せた。上泉もそれに倣う。
「ここから出ちゃだめだぜ。この距離でお互い投げ合うんだ」
その距離は、武術の間合いとして見るとまだやや遠く見えるが、熟練者なら一足で詰められる距離だった。
珪は持っていたボールを前へ放る。一度弾んで上泉の両手に収まった。
「提案したおれから投げるのもずるいから、おまえからでいいよ」
そして上泉にだけ聞こえる声で言った。「本気で投げろよ」、と。
内心恐さがあった。それと同時に奥底から膨れ上がってくる歓喜も感じた。きっとこいつは何かすごい技を見せてくれるに違いない。
上泉は左足を前にする半身の構えを取っている。右肩の上でボールを両手で担ぐような形だ。これから投げるぞ、という力みは感じられない。それが逆に恐ろしかった。
「なんだよあいつ。やる気あんのかよ」善也が野次を飛ばす。
周りのやつはわからないのかな。まだ投げるフォームには入っていないが、こいつの意識は投げる気満々だ。獲物に跳びかかる前の猫、そんな感じだ。おそらく一瞬で来る。瞬きも許されないような緊張感があった。
力むな、力を抜いて柔らかく受けるんだ。そう自分に言い聞かせた。
と、突然上泉は担いだボールを身体の正面に持ってくる。
何を考えている? 見開かれた上泉の左目を見てその意識を探る。
さらにその瞳が閉じられる。珪は驚いたが、これは投げる直前の合図と理解した。
が、様子がおかしい。投げる気配は消え、一瞬上泉の口が開きかけた。おい、なんだよ……?
何を言うつもりだよ。
上泉の発する言葉を頭で考えた時、ボールが大砲のように放たれた。
珪はまったく動けず、ボールは脛に当たり、どこかへ転がって行った――。
オオオオオオと地鳴りのような歓声が上がった。珪以外の全員が上泉の所に駆け寄る。
次々に賞賛の言葉がかけられた。
見えなかったし、何も感じ取れなかった……。あの瞬間、自分は何を考えていた? 今になっては思い出せなかった。意識の隙間を突かれた、そんな感じだろうか。
みんなに囲まれていた上泉は、珪の視線を感じるや、抜け出してこちらへ向かってくる。表情はいつものおとなしそうな雰囲気に戻っていた。申し訳なさそうな、気まずそうな顔をしていた。
「ありがとう。本気で試合してくれて嬉しかった」そう言って手を差し出す。
握手? するかよ女と握手なんて。
そう言いたかったが、拒むのも人間として小さく思われるかも、と思った。
差し出された手を握ろうとしたが、やはりやめた。
「次はおれが勝つからな。絶対負けないからな」明らかに強がって言った言葉だが、それしか言葉が出なかった。
上泉は困ったような表情を見せた。
「感じ悪いねー」、「命ちゃんあいつのことは気にしなくていいからね」女子に囲まれて上泉は校舎に戻って行った。
その時、春の突風が辺りを吹き抜けていく。
「このまま、舐められっぱなしじゃいけねえよな」善也が肩を叩く。
「でもおれだっておまえには絶対負けないからな」
そう言って善也も校舎へ走って行く。その小さな背中を見送りながら、珪は考えていた。
武道大会の帰りは悔しくて仕方なかったが、今の気分は悪くない。なんでだろう……。空気が暖かく、気持ちいいからかな。悔しくないわけではないのだが、それ以上に――。
そうか、嬉しいんだな。
同じ武術を学ぶ者、片目というハンデがありながら、あんなすごい技を見せてくれた。
おれもあれぐらいになりたいな。
そして珪もみんなを追い駆け、校舎へと戻って行った。