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第二章   レクリエーション(1)

「結局おまえ、春休みは一度も稽古に出なかったなあ」

「んー、いろいろとやることがあって、さ」

 そう言いながら珪は相手の手首をパッとつかんだ。思い切り力を込める。だが相手の指が天井を向くやバランスを崩し、相手を止められなくなる。投げ飛ばされるわけではないが、大きく姿勢を崩されてしまう。陸前流合気柔術の基本動作の稽古だった。

 一緒に稽古をしている相手は専門学校生の成瀬だ。胴着の珪とは違って、下に袴を穿いている。ここでは初段を取ると袴を穿いてよいことになっていた。

 この成瀬は、道場では珪にとって一番接しやすい先輩だった。他の長く稽古してる先輩よりも技は下手なのかもしれないが、誰よりも技が優しい。相手に怪我をさせないよう気を遣ってくれる。

「新学期はどう?」

「どうって言われても、別にクラス替えもなかったし」

「そうか、じゃあつまんないなあ。でも転校生とかもいないの?」

「……」

 いる。そう心の中で答えた。でも珪はあの転校生のことをあまり思い出したくなかった。

 もう新学期が始まって三日ほど経っていた。

 その中で、珪なりに転校生のことを見て出した結論だ。

 おれはあいつが苦手だ。

 なんとかいう古流柔術をやっているそうで、上泉自身もずっと稽古を続けているらしい。そうすると自分と比較されるわけで――。

 パンッと手を叩く音が道場に響く。

 お互いに畳に手を着き礼をする。

 技が変わる合図であり、その都度相手も変えていく。組む相手によって技が入りやすいこともあれば入りにくいこともある。様々な体格の人と稽古することで上達していく、そう祖父は言っていた。

「なになに、珪。転校生入ったの? 女の子? かわいい?」

 矢継ぎ早に質問をまくしたてる。こちらは大学生の半田だ。成瀬とは違ってまだ袴を穿いていないが、締められた帯は白ではなく茶色だ。茶帯は三級以上の者が締めることができた。

 古流武術やってる転校生がきた。そう言おうかと思ったが、やめておいた。この落ち着かない感覚は、もう少し自分だけで考えてみたかったからだ。

 それに半田さんはどうせ茶化すんだろうし……。

 その後も稽古が続き、時間的に次が最後の技のようであった。

 受けを取るのは成瀬だ。

 互いに礼をしたあと、成瀬が構える手には短刀が握られている。師範である神子上(みこがみ)(ただ)(つね)の頭部めがけて振り下ろされる短刀、それを忠恒は一瞬で懐に入り、足もとにしゃがみ込むことで相手はつまづいたような格好になり、大きく宙に飛んで畳に落ちた。成瀬も受け身はかなり上手い。だから珪は時々、本当に祖父の技は効いているのかなと思うことがある。

「えー、これはただ相手のもとに屈んでも相手は崩れないです。大事なのは自分の意識。しっかり相手を攻撃すると意識を飛ばすこと。そうすることで――」

 と言って成瀬に攻撃してくるよう合図を出す。その合図が出るや否や、間髪を容れず成瀬は斬りかかって行く。

 ダンッ、と少し重い音が道場に響き、成瀬が畳に沈んだ。最初より強烈に技が決まったようだった。

「相手が崩れますので」

 わかんねえよ、じいちゃん。

「よし珪、やんぞ」と声をかけられた。

 小幡さんかぁ……。

 小幡はこの道場で師範の忠恒に次いで長く稽古を続けており、実質的には師範代のような位置にいた。当然技は上手いが、容赦なく珪を投げ飛ばすため、珪にとってはできれば組みたくない相手だった。

 しかし声をかけられては逃げるわけにもいかない。

「遠慮なく来いよ」そう短刀を手渡してにやっと笑う。短刀といっても金属でできているわけではなく、木製だ。それでも当たればかなり痛いだろう。

 珪は構える。狙いは相手の側頭部。

 思い切って振り下ろす。

 当たる――。

 そう思ったが手は緩めない。

 だが当たる寸前で小幡の姿がふっと消え、珪は宙を舞っていた。

 当たると思ったのに……。

 今度は左に持ち替えもう一度斬りかかる。

 やはり当たる、と思った時にはバランスを崩し身体が吹っ飛んでしまう。わからない。

 左右二回ずつ技をかけると今度は取りと受けが交代になる。今度は珪が技をかける番だ。

 上手くできるかなあ、と自分の身体に意識を集中する。動ける気がしない、身体はできないとそう言っていた。

 そんな珪を小幡は待ってくれず、突如斬りかかってくる。

「っ!」バランスを崩しながらも足もとへ入り込んだが相手とぶつかるだけだった。

「刺されちまうぞ」と、軽く短刀を背中に当てられた。わかってるけどさあ……。

 さらに二度やったが上手くいかなかった。きょろきょろしたところで忠恒がこちらにやってくる。

「先生、上手くいきません」

 普段はじいちゃんと呼んでいるが、道場では先生と呼ぶ。稽古をさぼっても怒られないが、ここでじいちゃんと呼ぶと怒られるのだ。

「やってみい」そう言われて、やってみせた。先程と同じで小幡のバランスは崩れていない。

「最初から気持ちで負けてるなあ」忠恒は笑いながらそう言った。

「さっきも言ったが、攻める気を出さなきゃならん」そう言って忠恒と小幡が向かい合った。小幡の打ち込みを交わして忠恒は掌底で相手の顎を軽く押さえた。

「本当に当てられればこれでいいんだが、十分な当て身が入らない場合ここで屈み込む」

 小幡はそれに合わせてゆっくり崩れて見せる。

「実際手を当てない代わりに意識を当てろ。あと珪は軸が崩れてるな。体軸は保ったまま息を吐きながらストンと落ちる感じで」

 さらに、相手が斬りかかってくる時に珪が出遅れてしまうのを見て言う。

「短刀だけを見てたら駄目だぞ。相手全体をぼんやり眺めているんだ。そうすれば相手の意識を察知しやすいぞ」

 その後珪も何度か繰り返したが、一度も技は決まらずこの日の稽古は終わった。

 稽古は二時間弱、じんわりとした軽い疲労を覚えながら、道場を出ようとして、ふと顔を上げた。

 観客席は誰もおらず、客席部分の電気もついていない。

 本当、同じ場所だとは思えないよなあ……。

 つい先日、自分はここで生まれて初めて試合をした。恐ろしい空手家の担任の先生と。

 あの大歓声は今はない。

 試合に出たことも、道場の誰にもばれていないようで安心した。

 一礼して道場を出る。

 稽古の前は、行こうかさぼろうか迷うのだが、稽古が終われば来てよかったなと思うことが多い。

 しかしあの転校生の上泉はどんな稽古をしているのか。どれくらい続けているのだろうか。嫌だと思ったりしないのだろうか。そんなことを考えていた。

 この道場には今は子供は珪一人だ。昔は何人かいたのだが、皆長くは続かずやめてしまった。

 珪は思う。そりゃサッカーや野球の方が楽しいだろう。自分もなんで武術の稽古をしているのかわからない。祖父が師範で父親も昔から稽古しているという。母は今は稽古していないが以前はやっていた。そもそも両親はこの道場で知り合って結婚したらしい。

 みんながやっているから、自分もなんとなく稽古を始めたんだと思う。でも技は痛いし恐いしで、また試合というものがないので何を目標にして稽古すればいいのかがわからないし、相手は大人ばかりだから子供の珪の技など一度もまともに効いたことはなかった。

 それで次第に稽古を休みがちになった。でも祖父も父も稽古に出ろとは一度も言ったことはなかった。せいぜい、今日は稽古に出ないのかと訊かれるくらい。行かない、と言えば、そうか、と答えが返ってくるだけだ。

 そう思うと、やはり上泉のことが気になってしまうのだ。明日、それとなく稽古のことを訊いてみようか……。

 考えごとをしていると、あっという間に家に着いてしまう。夜九時を過ぎているのだが、武道大会のときよりも心持ち暖かくなっているように感じられた。



 翌日、学校の休み時間、珪は上泉の様子を窺っていた。

 もうクラスになじんでいるようで、周りの女子と仲良くしているように見えた。

 右目は見えないということだが、クラスのなかで、今のところ不自由そうなところは見せていない。体育も問題なくできている。

 できている――、というより運動神経は抜群に良さそうだった。でもさすがに自分たち男には勝てないだろう、そう思っているのだが……。

「ねえねえ、沙奈のところで子猫が産まれたんだって、命ちゃんも一緒に見に行こうよ」

「めっちゃくちゃかわいいいんだって、超楽しみ」

 どうやら放課後猫を見に、羽深の家に行くらしい。動物は苦手というわけじゃないんだな。しかし女子は猫好きだよなあ。あと呼び方は命ちゃんで定着か。珪は情報を拾いながらあれこれ考える。

 羽深とは、珪の嫌いな女子ナンバー2の羽深沙奈のことだった。容姿はかわいいらしく、他のクラスで羽深が好きだというやつを何人か知っている。だが、同じクラスにいるとわかるのだが、こいつは性格がすこぶる悪い。珪には好きだというやつの気が知れなかった。

「おい、珪聞けよ、すごいぜ!」

 善也が急に机を叩いて話しかけてきた。

「龍のやつが今朝学校来る途中、でかいカエルが内臓吐き出して死んでるの見つけたんだってよ。帰りに見に行こうぜ!」

「うわ、本当かよ。面白そうだな」

「みんなで行こうぜ。そんで最初に触ったやつの勝ちな」

 しばらく男同士で話し合っていた。だがまて、たしかにカエルに興味はあるが、もう少し上泉の話を聞いていたいんだが……。

 そんな時、一際大きな女子の声が聞こえた。

「えーっ、命ちゃんって武道やっているんだ?」

「そうなんだって。すごいよね」

 別の女子が続けて言う。

 でもそれはすでに珪も知っている情報だった。

「珪ー、命ちゃんって柔道やってるんだってー」

 知ってるっての! というか柔術だろ。珪はわざと顔を背けた。

「神子上君も武道やってるんだよね?」

 上泉の問いかけに先程大声を出した女子生徒が答えた。

「そうだよ。でも珪はだめだよ。まじめに練習してないもん」

 わざと珪に聞こえるように言う。

 うるさいなあ。誰がしゃべっているのかはよくわかっている。珪が嫌いな女子ナンバー1の大石すずだ。

こいつは女のくせにクラスで一番でかい。力も強いし、ボールで遊んでいても、男子を力で圧倒することもしばしば。たぶんクラスの男子全員がこいつのことが嫌いだ。

「私、四年生の時もあいつと同じクラスで、一度見学に行ったことあったんだよ。柔道ってやったことなかったし。でも珪はいなかったよ。道場の人に聞いたらよくさぼってるってさ」

「柔道じゃなくて柔術だよ! ほっとけよ」

 一応噛みついてやったが、大石はけらけらと笑っている。

「ちゃんと聞こえてるじゃん」

 そこで授業開始のチャイムが鳴った。

 結局この時間では情報はあまり仕入れられなかった。

 やっぱりあいつのことを知るには、体育の授業が一番わかりやすいのだが、体育は男女別で行うため、情報が仕入れられない。

 一緒にやらなきゃわからないよなあ。

「ねえ、午後の学級会って何やるんだっけ?」

「何かレクリエーションするらしいよ。ドッジボールとか」

 後ろからそんな女子の言葉が聞こえた。

 それだ!

 たぶん男女混合の対抗戦になる。そう言えば五年生の春にも最初にやったような気がする。

 よし、ここで確かめられる――。

 そこへガラッと扉が開き、先生が入ってきた。珪は先生に睨まれる前に、大急ぎで机に教科書を並べ始めた。

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