第八章 無明住地(2)
翌日、珪は仲町小学校の方へ向って自転車のペダルを漕いでいた。
実戦とはどんなものなのかいまだよくわからず、上泉を止めるべきなのかどうかも、答えは出ないままだ。
ここのところ珪はずっと柔術について考えている。実戦に詳しそうな人間、そう考えて一人思い当たる者がいた。きっと祖父よりも伊勢森命綱よりも実戦に関しては詳しそうに思えた。
その者は宮本静流だった。
道場破りをして回り、ちょっと気に入らないからといって小学生の鎖骨を本気で折ろうとする男。さぞ実戦経験が豊富なことだろう。
片手で自転車のハンドルを操作しながら、以前蹴られた左の鎖骨を擦る。もちろん痛みなどとっくになくなっているが、あの時の恐怖は今でも瞬時に思い出せる。
また会ったら何をされるかわからない。しかし前に会った時、最後に宮本はこう言った。――そこの鉄鋼所で働いてるから、文句あるならいつでも来い、と。
なら今から行っても文句はないだろう。とはいえ小学生がいきなり鉄鋼所に入ってきたら、訝しがられ追い払われそうな予感が大いにした。
そこで珪は作戦を立てた。夏休みの自由研究で近所で働く人たちを調べていると言う。そうすれば宮本静流と話せるかもしれない。それでダメなら宮本に訊くのは諦めよう。そう考えて鉄鋼所の前まで来たのだが――。
『暁鉄鋼』と大きな看板が掛けられている。入口は開いたままで外から中の様子がよく見えた。ここから見る限りでは、宮本の姿は見えなかった。
しかしいざ入ろうとするにはかなり勇気がいった。大人が働く知らない場所、というのももちろんあるが、再び宮本に会うことが恐ろしかった。
だが――。珪はこう考えた。知らない場所に入ることに、宮本に会うことくらいで恐がっているのなら、自分に上泉を助ける資格はない。悩む資格さえないと思った。
「すみません」意を決して声を上げた。
「ここに宮本静流さんはいらっしゃいますか」
ややあって作業服を着た小太りの男が怪訝な面持ちで現れた。以前宮本が社長と呼んでいた人だ。
珪は作戦通りに夏休みの自由研究で調べていることを告げた。
「そうなんだ。いやー感心だねえ、きみ。おーい静流ちゃあん! お客さんが来てるよー!」今しがた喋っていた口調からは想像できない大声に珪は驚き、一瞬身が固まってしまった。
周りはよくわからない機械がたくさん置いてあり、何の作業なのだろうか、遠くの機械からは金属を削るような甲高い音がして火花が散っていた。ふとその機械が止まり、一人の男が近づいてくる。作業服を着た宮本静流だった。
「おまえ、あの時の坊主じゃねえか」手拭いで顔を拭きながら宮本が言う。
「仕返しに来たのか。感心だな。随分遅かったがな」
「何言ってんの。この子は静流ちゃんに話を聞きたいって来たんだよ」
「はあ……?」
珪は宮本に案内され、奥へ進んで行く。クーラーはなく、むっとするような熱がこもっており、油臭いような変な臭いが漂っている。宮本が開けたドアに続いて行くと外に出た。汚いゴミ置き場のそばにいくつか錆びたパイプ椅子が置いてあった。
「ここには応接間なんてしゃれたところはないからな」そう言って宮本は腰を下ろす。
「この喫煙所で話を聞くぜ」
珪も椅子を一つ空けて腰を下ろした。
「なんだ? わざわざこんなところに」
「訊きたいことがあって来ました」
「だからなんだよ。俺の貴重な休憩時間を使いやがって」宮本はタバコに火をつけた。
「宮本さんの経験した実戦の話を聞きたいんです」
「なんでそんな物騒な話を聞きたい?」タバコを吸おうとしていた宮本の手が止まる。
「誰かぶっ飛ばしたいやつでもいるのか? おまえの動機を聞かなければ話してはやれねえな」宮本は厳しい目つきでこちらを見た。
正直に言うなら上泉のことを色々話さなければならない。適当にごまかして話しても、いずれぼろが出る気がする。それでも絶対に上泉のことを言うつもりはなかった。
ここまで来て残念だが、珪は諦めることにした。
「ならいいです。帰ります。失礼しました」そう言って珪はさっと立ち上がり帰ろうとした。
「おいおいおい、まあ待て。わかったわかった。いいよ、こちらは何も訊かねえよ。だからまあ座れ」
慌てた宮本の態度に珪はあっけにとられたが、嘘をついているようには見えなかった。
「いいさ。話してやるよ。自慢じゃないが実戦経験は多いぜ。俺はその辺の武道家とは違うんでな」表情を崩し、宮本は得意げに話し始める。
「週末はよく刻文町へ行っている。遊ぶためじゃねえぞ? なるべく弱そうなサラリーマンを装って界隈を練り歩くんだ。未成年と思しきとっぽい兄ちゃんがいれば声かけるし、ヤクザな体をした男たちがタバコをポイ捨てしようもんなら喜んで注意するぜ。ただほとんどのやつは、睨んで文句つけてくるわりにはさっぱり手は出してこないんだよな。一晩歩き回っても、当たりを一つ引くかどうかだ」
刻文町というのはこの町で最大の繁華街のことだ。しかし弱そうなサラリーマンって。宮本はスーツを着て眼鏡でもかけて七三に髪をそろえて行くのだろうか。珪はちょっと想像してみたが、かなり異様な風体だろうと思った。この宮本は確かに背が低いが、横に広いがっしりした体格をしているからだ。
「恐くないんですか? 相手は刃物だって持ってるかもしれない。その時おとなしくしていても、あとで背中から刺されるかもしれない」
「恐くはねえな。いつもやってることだからな。その辺で粋がってる連中はなんの訓練もせず、ただ睨んで吠えることに慣れているだけだ。そんなやつがナイフちらつかせたって全然恐かねえ。後で何かしそうなやつはその場で心を折っとくんだ。後ろから刺されたって心臓には届かねえし、そもそもこんなことをしてるんだから、刺し違える覚悟くらいいつも持っているよ」
なるほど、これでは道場の先輩方では敵わないわけだな。そう思い珪は宮本の覚悟に恐れ入った。
「別に街の弱い者いじめをやってるわけじゃねえ。道場破りだってするぞ。ちんたら稽古してるような連中に負けはしねえが、でも東京のプロレスジムへ行ったときは本気で殺されかけたがな」そう言って豪快に笑った。その様子を見て、珪は武道館でのことを思い切って尋ねてみた。
「宮本さんはこの前、県武道館にも道場破りに来ていましたよね」
「何だお前、あそこの道場生なのか。陸前流とかいったな。じゃああれも見てやがったな」急に宮本は不機嫌になる。
「あの立ち合いはどんな気持ちで構えていたんですか?」
「訊くなよそんなもん。まあ最初の兄ちゃんはどうってことはねえ。こちらのフェイントに反応しなかったのはたいしたもんだが、ちんたら稽古してんだろうな。あいつは人の仕留め方を知らねえ。百回やっても負ける気はしねえよ」
ちんたらってことはないのに……。珪はちょっとむっとした。
「あの師範にだって次は負けねえ。ありゃ不意打ちみたいなもんだろ。でも負けは負けだ、認めるよ。別に弟子のおまえで憂さ晴らしはしねえし、仕返しにも行かねえよ。こっちは一戦一戦本気なんだ。負けたからもう一度ってのは、覚悟のねえやつの言うことだ」
それを聞いて珪は上泉を思い出す。でも上泉が鉤鳥に挑もうというのは、今宮本が言ったこととは少し違うと思った。
「まあ、話が長くなったが、実戦ってのは要するに、何が起こるかわからないから予想しておけってことだ。逆に相手が予想もできないことをやるってことでもある。予想のできないことをされたとき、最後に頼りになるのは普段身体で身につけた稽古だ。それで負けて死ぬなら諦めろ」
最後の宮本の言葉は珪が求めていた言葉だった。苦労してここへ来た甲斐があったと思う。
「参考になりました。ありがとうございま――」
「いや、やっぱり最後におまえもここへ来た本当の理由を言えよ」
突然宮本は珪の言葉を遮り立ち上がる。
「俺だけ喋らされて損した気分だ。納得いかねえ」
珪は座ったまま動けなかった。動けば打たれる、叫んでもやはり打たれるだろう。珪は足が震えてくるのを感じた。この威圧感はかつて宮本と対したときと同じだった。だからこそ脅しでなく本当に打たれることを確信した。
「言えって」
宮本はこちらを見下ろし悠然と構えている。
先程宮本は予想しておけと言ったが、上泉に鉤鳥の話をされてから、自分も予想していたのだ。どういう状況のとき、どのようにすべきなのか。考えるだけだがずっと想像してきた。
だからこんなときもどうすればいいかは考えてあった。
叫ぶことだ。相手が予想できないくらいの大声で、相手が意表を突かれるタイミングで。聞いた人がただ事ではないと即座に駆けつけるくらいでなくてはいけない。何だろうふざけてるのかなと間を置いて考えるようなものではだめなのだ。
しかし、この緊張した状況で大声を出す練習をしたわけではないので、珪は声が出せないのだ。
ゆっくり呼吸をしろ。そう……、息はできるじゃないか。あとは吸い込んだ息を鋭く吐きだすんだ。
そう自分に言い聞かせながら、珪は祖父の剣術を思い出した。陸前流合気柔術は技をかけるのにほとんど声を発することはないのだが、剣術では時折鋭い声を上げる。特に祖父は広い道場の隅々まで意識が届くような裂帛の気合を込めるのだった。それはあたかも全身を震わせて音を出しているかのように感じた。
珪は上半身の力を抜き、集中した。徒競争のスタートを待つように。あとは静寂を破るピストルの音を出せれば――。
「誰かああああ‼」
飛んできた左の拳を立ち上がりながら体を反転させて躱すと、そのまま止まらず一目散に逃げた。建物の表に回り、自転車に飛び乗って全力で走る。
宮本は追っては来ない。今まで聴いたことのない心臓の激しい鼓動を感じながら、珪は帰途へ着いた。




