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第七章   鬼夜叉(1)

 七月も中旬に入っていた。梅雨明けが近いはずだが仰ぎ見る空はまだ鈍色だ。

 それでも仲町小学校の生徒たちは皆浮かれ気味であった。梅雨明けよりも何よりも、待ちに待った夏休みが近づいているからである。

 校庭の片隅にあるプールで、珪のクラスは今日、今年初めてのプールの授業を行っていた。


 水しぶきがプールサイドまで飛んでくる。その冷たい感触にちょっと鳥肌が立った。すでに準備運動は終え、生徒たちは恐る恐るプールに入っていく。あちこちで聞こえてくる悲鳴としぶきの音。独特の塩素のにおいを嗅ぎ、珪は今まさにプールに入ろうかという姿勢で固まっていた。

「どうした。早く入って来いよ、珪!」

 そう言って激しく水しぶきを撒き散らし、善也(ぜんや)がはしゃいでいる。

 入ってしまえばそうでもないのだろうが、まだまだ水は冷たい。プールに入るほど今日は暑いわけではなかった。

 意を決して珪がプールに飛び込む。

「うわっ! 冷てええー!」善也がやったように珪も水しぶきを撒き散らして喚いた。

 こんな冷たいのに入っていられるかと心底思ったのだが、動きまわっているうちに水温に慣れてくる。しまいには空気に触れてるよりも温かく感じてくるから不思議なものだ。

 その年の最初のプールの授業では、特別練習などはせず自由に遊んでいいのが常だった。

 皆追いかけっこをしたり、誰が一番長く潜っていられるかを競ったり、後ろから忍び寄ってはバックドロップを仕掛けて相手を怒らせているのは善也だった。

 珪は、誰もやらないような何か面白いことはないかと頭を巡らせていた。ふとコースロープの上に立てないかと思い試してみる。思いのほか容易く立ち上がれたが、次の瞬間には勢いよく水面に落っこちていた。

 コースロープはワイヤーに短い円柱状のプラスチックの浮きをいくつも通して作られている。当然回転する構造になっているため足場としては相当に不安定だ。水中からの景色を眺めながら、落ちた瞬間の感触を思い出す。  

 うん、これくらいなら多分いけるな。その思いが消えないうちに、珪は素早く水面に出た。

 珪がコースロープの上を歩こうとしているのを見て、他の男子たちが真似をし始めた。さらに女子も運動神経に自信のある何人かが真似をする。

 その様子をクラス担任の山岡が眺めていた。

 子供たちの無秩序ながらも本能的な素早い動きはうらやましく思う。

 山岡は昨日の稽古で蹴られた脇腹をさすりながら考える。空手をしながら追い求める動きの柔らかさを、子供はすでにして持っているのではなかろうか。

 山岡はふざけ合っている生徒たちに何も注意せず好きにさせていた。多少の怪我や恐い思いはそれも勉強だから経験させた方がいいとさえ思っている。コースロープから落ちて生徒同士頭をぶつければ大怪我に繋がるが、足を踏み外しながらもぶつからないよう気をつけているようだし、プールサイドから派手に飛び込む生徒も、故意に誰かを蹴飛ばそうとしているわけでもなかった。バックドロップを仕掛ける善也だって後ろに誰もいないことを確認してから投げ飛ばしている。

 なんだかんだで子供は子供なりに気を遣い合っているのだ。

 それでも自分は教師であり、止めるときは止め、怒るべきところは怒らなければいけないと常に自分に言い聞かせている。絶対に止めるべきは、大怪我に繋がる可能性が高いとき、そして相手が本当に嫌がることをして、そのことに喜びを見出しているときだ。悪ふざけでも止めるし、いじめならなおさらだ。去年は何人かの男子をかなり厳しく叱りつけたが、彼らも賢く今年はその成長がよく見てとれた。

 山岡がふと気づくと、コースロープの上をするすると歩む生徒がいた。上泉(かみいずみ)(みこと)だった。

 命は両腕を広げバランスを取りながらも、他の生徒にはない安定感があった。オリンピックで見る体操選手のような、ぴんと背筋の伸びたきれいな姿勢で歩を進めてゆく。

 翻って男子の方からは神子上珪が立ち、そろそろと歩いてくる。

 二人は一本のコースロープ上に立って、互いに向かい合うように歩いている。そのまま歩くならいずれ両者がぶつかることになる。

 いつの間にか周りの生徒が両者の応援を始めている。男子は珪を、女子は命を応援している。

 上泉命、達人の娘か――。山岡は命の動きを見つめていた。隻眼はバランス能力に影響はないのか。相手との距離感は測れるのか。死角はどう把握しているのか――。

 命は額にゴーグルを付けていた。学校の授業ではゴーグルの着用は禁止になっているが、命は右目のこともあり着用を勧めた。プールの授業でちょっと潜るくらいなら問題ないと医者からは言われているそうだが。見ているとほとんど使わず、ずっと額に上げたままにしているようだった。

 珪と命の距離はさらに縮まっていく。

 それにしても――、と山岡は思う。やはり片目での距離感と死角は大問題ではないだろうか。

 山岡は自分が空手の試合中に左まぶたを腫らした時のことを思い出していた。腫らすような打撃を食らう時点で相手は格上だったのだが、その後の試合はまったくのひどいものだった。

普段両目で見ている自分が片目になるのと、三年も片目で生活している命では当然違うのかもしれないが、距離が測れず死角があるのは厳然とした事実だ。

 二人はもう手を伸ばせば触れるほどの距離にいた。命は伏し目がちに相手の様子を窺っているように見えた。

 命、おまえはいったい何を見ている……?

 

 珪は状況に戸惑っていた。何か面白いことをやろうとしただけだったのに、みんな勝手に盛り上がりやがって。周りの声援に苛立ちながら正面の上泉を見据える。上泉は上泉で戸惑っているようにも見えたが、どこか余裕も感じられた。

 ただここまで来れば珪もやるつもりだった。四月のドッジボールの時以来の一対一の上泉との勝負だ。あの時の借りは返す、そう意気込んだ。

 足元はたしかに不安定だが慣れてきた。とはいえ相手を突き飛ばそうと力めばバランスを崩しそうだし、相手に集中し過ぎても同じことになるだろう。

 珪の作戦はこうだ。基本的にこちらからは攻撃しない。相手に先に手を出させ、それを躱せれば良し。躱せなくともその手を掴めれば引きずり落とし、相手が落ちる力を利用して、逆に自分は体勢を立て直そうというものだ。それができる予感はある。ただ変に力まなければ、だ。

 上泉は表情を変えず、攻撃してくる様子がない。ならばと珪は軽く手で押す動きをして見せた。当てはしない。ただし手を引く動きは可能な限り素早く行った。相手もこちらと同じで掴むつもりかもしれないからだ。

 上泉は押されそうになったにもかかわらず動じない。押そうとする珪の手に合わせて自分の手を引いただけだ。

 力むな、動じるな……。そう言い聞かせ、でも隙があれば攻めるつもりだった。この足場だ、少しでも重心が揺らげばこいつだって落ちるはず。珪は上泉の左肩を狙って手を突き出した。

 が、その時上泉の左肩が前へ出る――。珪は咄嗟に突き出す手の力を限界まで抜いた。手は肩に当たったが、その衝撃は自分の身体までは届かない。もし力を抜いていなければ、肩を前へ出した力と、打点をずらされた分だけ自分は大きく後ろへ体勢を崩されていただろう。

 だがそこですぐさま身体に衝撃が走った。

 下から脇腹を押されたのだった。

 すでに珪の上体は大きく崩れ、掴もうにももう手は届かない。

 やられた……。瞬時に腕の力を抜こうとして、逆に身体にはガチガチに力が入ってしまった。

 珪は派手な水しぶきをあげて落っこちたのだった――。


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