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第六章   武士道問答(3)

 放課後、珪は職員室に向かっていた。昨日の日直の仕事をさぼったからとの理由で山岡先生の手伝いを頼まれていたのだ。本当に忘れていただけなのだが、まあ仕方がない。昨年の夏休みの宿題の提出をいまだに言う先生なのだ。

「あー、珪。あんたまだ残ってたんだ」

 途中、急に大石に声をかけられた。

「なんだよ」面倒なやつに呼び止められたなと思いながら珪は振り返った。

「今日の討論会だけどさ、あんたもなかなかいいこというじゃん。見直したよ。ほんのちょっとだけね」

「特別おまえが気に入るようなことは言ってないと思うけどな」

「いや、あんたが相手の言うことを理解しようと思ってる感じは伝わってきたからさ」

 まあ、そのように心がけはしてたからな。そう思いながらも大石に褒められるのはなんだか照れくさい。

「おれは先生に用事頼まれてるから急ぐぞ」そう言って歩こうとしたところを、ぐいと肩をつかんで止められる。

「なんなんだよ!」そこに大石が右手を差し伸ばしてきた。

「な、なに?」

「ほら、握手。私のお父さんがね、会議で同僚と激しく言い合いになっても最後は互いに笑って握手ができるように議論をするんだってよく言ってたんだ。いや格好いいなと思ってさ。あ、もちろん珪じゃなくてお父さんがだよ?」

 んなことはわかってるよ。ただ女と握手なんて恥ずかしくてできるか! そう心の中で叫んだ。しかしここま言われて拒むのも格好悪い気もする。

 仕方ない……。珪はそっぽを向きながらしぶしぶ握手をした。

 もっとごつい手かと思ってたが、妙にしっとりとした感触だった。

「じゃあね」そう言って大石は昇降口へ悠然と歩いて行った。

 女なんて勝手なもんだな。そう思いながら珪は職員室へ急いだ。


 油紙に包まれた重い参考書の束を抱えて階段を上っていく。一階の玄関から珪たち六年生の教室がある四階の準備室まで書類を運ぶのが山岡先生から頼まれた仕事だった。珪は六年生にしては背も高く力もある方なのだが、山岡は珪の抱えた量の倍以上の高さまで書類を積み上げ楽々と階段を上がっていく。シャツの袖を肘まで捲り、太く盛り上がった前腕が見えていた。

 初めはかなりきつく感じたが、何度か往復するうちコツがつかめてきた。本を重ねた塊を身体の中心に密着させ、少し身体を反らし気味にすると腕が楽になるのだ。

 山岡先生の背中を眺めながら、一つ気になったことを訊いてみた。

「今日の討論会だけど、先生は武士道についてどう思う?」

「うーん」とうなり声。ややあってから返事があった。

「答えてもいいんだけど、一応先生だからな。これが正解と思われると今日の討論が無駄になるから答えない」

「えー? それはないよ!」

「誰に訊いても正解はないぞ。まあ自分でもっと考えてみるんだな」

「おれはただ先生の考えが聞きたいだけなんだけどな。じゃあいいよ。なら先生の武道観を聞かせてよ。それならいいでしょ? なんで空手やってるのかとか」

「あー、そっちの方が話せば長くなるぞ?」

「もちろんいいよ」

 山岡は饒舌に話し始めた。大学から空手を始めたこと。単純に強くなりたかったこと。話が熱を帯びてくると珪はなんだか可笑しくなってきた。教師といっても自分と変わらない。悩みながら稽古してるんだなと思った。

 そして話はある空手家のことに移っていった。

「そいつは浅利っていってな。俺と同じくらいの頃に空手を始め、大学は別なんだが大会ではよく試合に当たったんだ。技量も同じくらいで勝ったり負けたりなんだが、ある時から俺は急に浅利に勝てなくなってな。大学卒業した後もあいつはこの辺で仕事してるらしく今でも試合するんだがまったく勝てねえ。もう夢にもしょっちゅう出てくるんだよ。それで夢の中でも勝てないんだ。本当呪いだよなあ」

 三十分ほどで書類を全て運び終わった。さすがに腕にもう力が入らない。明日は筋肉痛になるかもしれないと思った。

「今日はご苦労さん。じゃあ気をつけて帰れよ」

「先生も色々悩んでるんだね。面白かった」

「そりゃ悩みながら稽古してるよ。武道家なら多分みんなそうさ」

「勝てるといいね。その浅利って人に」

「まあな。おまえももうあんな大会に出ちゃダメだからな」

 わかってるよと答えて珪は玄関へ向かった。身体は疲れているが気分はいい。不思議とすぐに稽古がしたい気持ちでいっぱいだった。

「あ、それと珪」山岡が遠くから声をかける。

「おまえ読書感想文まだ終わってないからな。早く提出しろよ」

「ええー? あれ何度も提出したじゃん。もういいでしょ!?」

 こっちも呪いのようだと思いながら、投げかけられる山岡の声を聞こえない振りして走って逃げた。

 身体も心も疲れ果てたが、それでもその日の夜の稽古に珪は参加していた。


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