第六章 武士道問答(2)
教室内は、討論用に全ての椅子を並び替えてある。普段は当然黒板の方を向いているわけだが、今回は窓側と廊下側に椅子は寄せられ、互いに向かい合うよう配置されていた。
「人の意見は気にしなくていい。素直に自分の考えるところ述べるんだぞ。わかってるんだよなあ? なのになんでおまえらは……」
山岡が恐れていたのは場が静まり返って意見がさっぱり出ないこと。幸いというか、教室はむしろ殺気立っており、それはなさそうで安心していたのだが――。
「なんできっかり男女で別れてるんだよ!」
そう、完全に珪のクラスは男女で意見がまっ二つだった。現代においても武士道は必要の側に座っているのは男子。必要ないの側に座っているのは全員女子だった。
始めから素早く、話をさせろと手が挙がる。
気のおとなしい学級委員長の笹川が、数人の中から真っ先に挙げた善也を指名した。
「まずは一言。一番最初に意見を述べさせて頂く栄誉に与り、委員長殿に感謝申し上げる」
らしくもなく、善也が慇懃な言葉遣いで話し始める。前置きはいいからさっさと喋れと女子側から野次が飛ぶ。
「おれは絶対に武士道は必要だと思う。なぜならば、人生戦わなきゃいけない時があるはずだ。路上で喧嘩に巻き込まれるかもしれないし、悪い奴に襲われるかもしれない。男なら逃げるわけにはいかないだろ。覚悟を決めて戦う。それには武士道精神から学ぶことが多いはずだからだ。以上」
言いたいことを言いきって、着席した善也は満足げに女子側を見やる。
その直後、女子側から怒涛のように「はい!」の言葉が連呼され、委員長に答弁の許可を求めた。
「じゃあ……、大石さん。どうぞ」
気圧されるように笹川は一番声の大きかった大石を指した。
「まずね、何でも暴力で解決しようとすること自体が野蛮! そもそも人に襲われるんなら警察へ行けばいいでしょ。今の時代に武士道なんて時代錯誤もいいところ。そもそも武士道は当時としても統治する側の都合のいいシステムよ。幕府を維持するために忠義の価値観を強制させてるんじゃない。この平成の世において、武士道なんて一切必要ありません。以上」
そう言って大石は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「んなわけあるか! 近くに交番あるとは限らないだろ。いざというとき戦う気概が大切だって話だよ」
「そういう考えが野蛮なんだって。そんなことだから世界から戦争がなくならないのよ!」
善也が言い返すも女子側の援護射撃が続き、押されてしまう。
「だいたい大石、おまえしょっちゅうおれたちに蹴り入れてるじゃねえか。何が野蛮だよ。野蛮なのはおまえだっつーの」
「あんたたちが蹴り入れられるようなことばっかりするからでしょうが!」
「あー、言いたいことがあれば挙手して委員長の許可もらってからな」山岡が沸騰した場を鎮めようとする。
「じゃあ、委員長」そう言って上田龍之介が手を挙げる。
「武士道が暴力的との批判がありますが、もともと武士とは山賊などの不当な暴力から人々を守るために自然発生した集団で、江戸期は国内の争いを治めるのが仕事です。そもそも『武』とは矛を止むと書き、暴力を止めることを意味しています」
それを聞いて男子側から「おおー」、と感嘆の声が漏れる。
「そんなの屁理屈じゃん」と羽深がつっ込む。
「私が調べたことですが、その矛を止むという説があるけれど、漢字のもともとの『武』の意味は矛を持って突進する様子を表しているって書いてありましたよ」萩野がおずおずと意見を言う。
「いや諸説あるだろうけどさ……」
再び意見が乱れ飛び、山岡が制する。
「いろいろ意見が出るのは結構だけどな。何度も言うが委員長に指されてからにしろよ」
しかし噛み合わない議論だなと山岡はじれったく思う。自身も空手家であり、自分なりの武士道論は持っているのだが、教師としての立場からそれを言うことだけはするまいと自分に言い聞かせていた。気持ちとしては肯定派の男子側を応援したくなってしまうが。
「では論点を変えて」そう女子の青葉がすっと挙手する。笹川の許可を得てから堂々と意見を述べる。
「私が思うのは、切腹とか、死ぬことが美徳であるかのようなところが現代にはそぐわないと思います。自殺などするべきではないですし、最後まで生き抜いて何事か成すべきではないでしょうか」
「はい、はい、はい! 委員長」即座に善也が手を挙げる。
「あんたは最初に喋ったんだからいいでしょうが」大石が善也を責めるように言う。
「いや、切腹ならおれに任せろ!」委員長の指名を受けて善也は続ける。
「青葉、おまえさあ、先週のおれの発表聞いてたのかよ」
善也の班は武士の切腹についての発表をしていた。同じ班の女子たちは嫌がっていたが、善也が暴走気味に調べて発表したのだ。
最後に教壇上で、筆箱持って切腹の作法を見せようとして山岡に止められたのだが――。
「葉隠って本に書いてあるわけだよ。武士道とは死ぬことと見つけたり、ってね。生か死かの二つに一つのときは死ねばよい。目的も遂げられず、ただ生き延びたら腰抜けだ。目的も遂げずに死んだら犬死にである。が恥にはならぬ。これが武士道に生きる男のありようである。――とまあ、そういうことさ。やっぱり女にはわかんねえのかな」
わかんねえよとの女子の野次の中、善也は続ける。
「別にただ死ねと言ってるわけでもない。他の個所では、人間の一生は誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。好かぬ事ばかりして苦しみて暮らすのは愚かな事なり。そうも言ってるからな。その上で、日頃から死ぬ覚悟が大事だということだろう」
「ふうん……。ところで善也、あんた今朝の算数の授業で宿題忘れてたよね」突然大石が問いかける。
「はあ? 今はそんなこと関係ないだろ!」
「忘れたでしょ?」
「ああ、だからなんだよ。言い返せないからって話を逸らすなよ」
「じゃあ、今腹切りなさいよ」
「はああああ? 馬鹿じゃねえの!」男子一同が善也と一緒に声を荒げる。
「だってそういうことでしょ? この先恥をさらして生きてどうするのよ、あんた」
「そうだよ、死ねよ善也」羽深が大石の言葉に続く。
「いい加減にしろ! おまえら。ここは議論をする場であって罵り合う場所じゃないぞ! あと下品な言葉を使うんじゃない、いいな羽深」
「はーい」怒られて羽深がしゅんとする。
教室内は急に静寂に包まれた。
せっかくの議論に水を差してしまったかと山岡は少し後悔した。
「あー、そうだな。まだ発言していないやつはどうだ? 考えがあるなら黙っていてもつまらないぞ。言ってみろ」そう言って山岡は他の生徒の意見を促す。
「じゃあ、おれもちょっと」
ここで珪は手を挙げた。
ずっと皆の意見を聞いていたが、女子たちの言い分もわからないわけじゃない。
「当時の武士の行いをそのまま現代に持ってきたら、合わない部分は多いと思う。でも改めて考えて、今回のテーマは『武士道精神は現代において必要か』だから、武士の行いの根本の精神、考え方をはっきりさせなきゃいけないと思うんだ」
「それはもっともだな」、「いいぞ珪」、と周りの男子が持ち上げる。
「女子は切腹や仇討ちとか実際の行動を悪く言ってるけど、その行動の根底にある忠義や勇気は現代の感覚に照らし合わせてもおかしくはないだろ」
男子からは大歓声、女子からはブーイングの声が飛び交う。
「その精神自体はね。でも根柢の精神と実際の行動を分けるのはどうかと思うけど。そういう考え方があって実際行動するんだから」
大石の声は大きく存在感が別物だ。大石がいるだけで、珪には女子を十人くらい多く相手にしてるような気分になってくる。
「おいおい、押されんなよ。しっかりしろって」
「……っ」
珪は急に尻を叩かた。振り返ると善也が慌てて自分の席へ駆け戻って行くのが見えた。
応援するつもりなら一々気を散らせるなよ、そう善也に腹を立てながらも改めて頭を整理する。
「まあ確かに、大石の言うこともわかるさ。おれだって主君への忠義と無念を晴らそうという気持ちはわかるけど、なにも相手を殺さなくてもいいよなって思う」
「それって忠臣蔵のこと言ってるのよね? そうそう、前から思ってたんだけど、あれってひどい話よね。浅野内匠頭だっけ? お城で吉良って人を殺そうとして、未遂で切腹させられてさ、それで何年も経ってから家臣が吉良を討ちに行くのよね。それってただの逆恨みじゃない? 武士道言うならあんたあれどう思うの?」大石がその大きな声で捲し立てる。
「当時の家臣の間でも意見が分かれてたんだって先々週の発表であっただろ。さっきお前も言ってたじゃないか。忠義も勇気も間違ってないけれど、それを受けてどう行動するかは答えは一つじゃないんだよ」
「武士道精神なら克己で恨みを抑制すべきじゃないの? 平和とか考えないのかなあ」
「現代なら裁判所で異議申し立てできるけど、当時はそういうわけにはいかないからだろ!」
即座に反論した珪だが、内心大石の言うことももっともだと感じていた。そんな珪の気持ちを察してか、善也が助太刀に入る。
「だいたい何で大石ばっかりしゃべってるんだよ。もう充分だろ。おまえは黙って他の女子に話させろよ!」
そう言われ大石が食ってかかるかと思ったが、しぶしぶ引き下がったようだ。
珪も言いたいことをしゃべったつもりだが、自分でもよくわからなくなってきた。でも全部が全部共感できるわけではないが、武士道精神は現代において必要かと言われればやはり必要だと思う。少なくとも今の自分には必要だと感じている。
「じゃあ時間も少ないが、女子でまだしゃべってないやつもいるだろう。そうだな、上泉はどうだ? 古流武術家として武士道について言いたいことはあるんじゃないか?」山岡が上泉の意見を促した。
上泉の武士道観か……。それは珪にも大いに興味のあるところだった。議論の最初から珪は気になっていたが、上泉は反対派の席に座っている。多分周りの女子に気を遣って同じ側に座っているだけなんだと思っていたが。
武道家が武士道否定しないだろう、とか、こっちに座れよなどの男子側の野次が飛ぶ中、上泉がガタガタと椅子を引き立ち上がった。
「ええと、私は反対かな……」やけに自信のなさそうな様子でおどおどと話し始めた。
「上泉、おまえ大石に脅されてるんだろう? いいんだぜ無理に周りに合わせなくてもよ」善也がからかう。
「武士道がただ暴力的だなんてことないのは、もちろんわかってるよ。でも私もすずちゃんと一緒だよ……。復讐なんてしてたらきりないよ。この現代では警察がいるし、自分から争いを起こそうとすることは良くない、と思う」
おいおい前に自分に言ったことと違うじゃないか、珪は思った。
「まあ、人に襲われたならある程度は仕方ないとも思うけど……。あと勇気や礼節が大切なのは武士道に限ったものではないし、忠義も名誉もいいけれど、そのために争いが生まれるならやっぱり嫌だな」
珪にはてんで期待はずれな意見だった。
「上泉は武術をやっているんだろ。それで現代において武士道精神は必要ないと本当に思ってるのか? 共通するものはあるんじゃないの?」
珪が言いたかったことを、龍之介が代わりに言ってくれた。
「私にとっては……」上泉はうつむいて言い淀む。
「私にとっては、父母からもらったこの身体を守ること。何があってもそれだけは守り抜くこと。それが武士道」
誰とも目を合わせずそう言った。
教室内はシーンと静まり返ってしまった。
長い沈黙が流れる中で、空気を読まずに善也がぶっきらぼうに言う。
「おまえがそれ言ったら誰も何も言えねえじゃねえかよ」
「ごめん……」
ちょうどそのとき授業終了のチャイムが鳴った。
「まあ時間だからこれで終わるが、皆もあとで頭の中を整理してみてくれ。以上」山岡先生はまとめもせずにあっさり締めて出ていってしまった。
生徒同士は互いを見やり、教室内は気まずい空気だけが残された。




