第五章 道場破り(3)
翌日の陸前流の稽古だった。やっぱり広い道場はいい、そう感じながら、珪は昨日の伊勢森道場での身体の遣い方を試していた。
「珪、なんだだいぶ力が抜けるようになったんじゃないか」小幡が言った。
でも技は入らない。じっと動かない分には力が抜けるけど、技をかけようとすると、当然どこかに力を入れないといけないわけで。そうすると――。
「ほら、だんだん肩に力が入ってきてるぞ」
そう言われてしまう。なかなか上手くはいかない。
そんな時、道場に誰かが入ってきた。仕事を終えて途中から稽古に参加する人は多いが、その人は道場生ではなかった。見学者だろうか、そんな表情が小幡の顔から見て取れた。
だが珪はその顔を知っていた。
なんであいつが、ここに――?
戦慄した。空手着を着た宮本静流だったからだ。
「見学の方ですか?」忠恒が近づいて行く。
「いえ、この道場の強い方とお手合わせ願いたいと思いまして」宮本はわざとらしく道場の隅まで届きそうな大声で答えた。
「ああ、そうですか。でも残念ですが見ての通り、この道場はあなたを満足させるような者は私も含めていませんよ。看板があれば差し上げてもいいんだが、場所を借りてやっている身でして、お引き取り願いたい」
宮本に背中を見せるようにして、忠恒は道場を眺めながら言う。
皆稽古の手を止めて、侵入者の方を見ていた。
空手着はあちこち破れており、繕いもしていない。帯もぼろぼろで色は限りなく白に近い灰色になっていた。
「なんだありゃ、いいよ断れ断れ」そう小声で小幡が言った。
「ま、ご迷惑とあれば帰りますが、見た感じではやりたそうな方もいらっしゃるようですが?」また大声で宮本が言う。
こちらに視線を向けてはいるが、どうやら珪のことには気づいていないらしかった。
忠恒はしばらく考え込んで言う。
「じゃあ、どうだ。誰かやりたい者はいるか?」
聞くなよそんなこと、と言わんばかりに多くの者が下を向く中、一人手を挙げる者がいた。
なんと成瀬だった。
いやーそれは……、と隣で小幡の声が漏れるのを聞いた。
どうだんべ。
あまり積極的にこういうことをする人とは思ってなかったので、珪にも意外だった。
皆整列して座り、前に宮本と成瀬、そして忠恒が立つ。
「お互い勝っても負けても遺恨を残さぬように。勝負は一度きり、危ないと思ったら私がそこで止める。いいかな」
二人とも了承する。
「では始め!」
成瀬さん、この道場では決して上手い方ではないだろう。いつもより恐い表情をしているように見える。力まなければいいんだが。珪は成瀬が勝つよう必死で祈っていた。
余裕があるのはどう見ても宮本だ。いつでも攻められる様子で、身体を小刻みに動かしている。そのなかで何度かフェイントを入れているようだった。
成瀬は動かない、フェイントに反応することもできないように見えた。
両者の間合いが詰まる。
そして宮本の突きが放たれた。
同時に成瀬も動く、技の入りのタイミングとしては完璧に見えた。
成瀬は入り身し宮本の顎を突き上げ、そのまま後頭部を畳に叩きつけようとする。
ゴッ。
鈍い音が道場に響く。
畳に沈んだのは成瀬だった。
後ろに倒されながら、宮本は飛び上がって回し蹴りを成瀬の頭部に叩き入れたのだった。
慌てて小幡と大久保が駆け寄るが、成瀬はすぐに起き上がった。
「それまで」忠恒が決着を告げた。
成瀬は二人に抱えられながらこちらへ戻ってくるが、足取りは大丈夫そうで珪は安心した。
宮本の勝ち誇った顔が憎たらしいが、今の勝負は仕方がない。文句の言いようがなく成瀬の負けだからだ。
「では約束通り終わりかな。ただ、もしあんたがいいというならば、このあと私が相手をしてもいい。遺恨を残さないのが最初の取り決めだから、あくまであんたが良ければの話だが」
周りには聞こえにくい声で、ぼそぼそと忠恒は言った。
「それはまた、願ってもないことで。本当にいいんですか? 先生」宮本は下品な笑みを浮かべて、開始位置へ着いた。
忠恒はすたすたと歩いて行く。宮本の正面の開始位置、ではなく、直接宮本静流のところへ。
「てめ……」
その時忠恒が駆けた。音はない。
突きを放つ前に宮本は舞い、無音の道場に激しく叩きつけられる音が響いた。先日の稽古で見た最短最速の技だった。
稽古が終わり、皆着替えながら興奮を隠せずにいた。やはり神子上先生はすごい、あの技は神業だ。
倒された成瀬にも、よくやったと皆賞賛を贈った。
そんななか、奥の師範室から大声が響いてくる。皆駆け寄って中の様子を窺う。
「あんなもん受けるもんでねえ。神子上さん、あんた成瀬君に何かあったら、親御さんにどう言うつもりだったんだ!」
「わかったわかった。いいから座れ小幡」
「あんたがやるなら最初から一人で相手してやったらいいじゃねえか。俺たちはそういうんじゃねえんだからさ」
「おまえも文句を言うならあの時に言えばいいだろう」
聞いていた成瀬が責任を感じ堪らず中に入る。
「すみません、今回のことは私が――」
「あんたは黙ってろ。あと初段取ったばかりの分際でのぼせたことは金輪際するなよ!」
小幡に厳しく叱責され、すごすごと成瀬は引き下がった。
「成瀬君もああいうことするやつじゃないのはわかってるだろ。でもあんなこと言われたら誰か行かなきゃいけねえじゃねえか。若手で責任感じて手を挙げたんだろ。そういうことを思わせちゃだめだろうよ。あんたは今師範なんだからさ!」
「いいから落ち着いて座れ、小幡!」
電話で呼び出された父の典明と大久保が二人がかりで何とか諫めて場を鎮めた。
次回の稽古で喧嘩にならないかと皆びくびくしていたが、何事もなかったように忠恒は笑いながら技をかけ、小幡はいつも通りぼやきながらも笑顔で受けを務めていた。




