第五章 道場破り(2)
翌日、授業も掃除も終わり、これから上泉と一緒に道場に行かなければならない。
珪は机に頬杖をつき、大きく息を吐いた。机の横にはランドセルが掛けられ、反対側にはパンパンに膨らんだ手提げバッグが下がっている。一応胴着も持ってきたのだ。
「珪君ごめんねー」掃除を終えた上泉たちの班が戻ってきた。
「みこっち、このあと何かあるの?」上泉と同じ班の大石が訊く。いつの間にか上泉の呼び名は『みこっち』になっていた。
珪はこの呼び名が嫌いだった。なぜなら神子上の『みこ』と言葉が被るからだ。自分が呼ばれたような気がして一瞬びくっとしてしまう。
「うん、今日は珪君がうちの道場見学したいからって一緒に行くんだよ」
おい、いつおれが行きたいって言ったよ。しつこく言うから仕方なく付き合うんじゃないか。心の中で悪態をつく。
「へえ、じゃあ私も行ってみようかなあ」
「もちろんすずちゃんも大歓迎だよ!」
えー大石も? と思ったが、上泉と二人きりで行くよりは大石といえどもいないよりはましな気がしてきた。
「いいんじゃねえのか。でも武術だからな、真面目にやらないとおまえ怪我するからな」
「何よ、真面目にやってないくせに偉そうに」と文句をつける。
そして珪の方をまじまじと見やって言う。
「でもまあいいや。私はそこまで興味ないし」
何だよコロコロと。いい加減なやつだな。
結局珪と上泉の二人で行くことになった。
道場に着くまで、歩きながら上泉はずっと武術について喋りっぱなしだった。上泉の習っている伊勢森真陰流のこと、先輩のこと、昔の達人のこと、父親のこと。
「え、おまえのお父さんが師範やってるの?」
「そうだよ。言わなかったっけ?」
「おまえのところもなのかよ」
「えー、じゃあ珪君のお父さんも先生なんだ? すごいね」
「いや、うちはじいちゃんが師範なんだ」
そんなことを話しているうち、もうじき着くという。
なんか緊張してくるな……。珪は武道大会の時を思い出した。場違いな感覚、奇異の目で見られる恥ずかしさと疎外感。
ふと隣を見ると、上泉は楽しみで仕方ないという顔をしている。
そりゃおまえはいいよな、おまえの道場だもの。不安もなにもないだろうさ。
でも珪もあの時程の不安はない。
ああ、こいつがいるからか……。
まあ、取って食われるわけじゃないんだ。恐い人もいるかもしれないが、宮本と対峙した時に比べればそれでもましだろう、そう考えることにした。
道場は珪が想像したよりもかなり小さかった。珪が普段稽古している県の武道館より小さいのは当然だが、プレハブの建物で柔道場の畳一面分くらいしかない。
広さの割には参加者の数は多く、二十人くらいか。受け身はかなり注意しないと互いにぶつかってしまいそうだった。
珪が最初に意識して見たのは道場生の顔だった。一、二名恐そうな人もいるが、多くは柔らかい表情をしている。少し安心した。
伊勢森流の技は、たしかに陸前流とは異なるが似たような技も多く、珪には技の理屈は理解できた。ただ明らかに違うなと思ったのは、蹴り技があることだ。相手のバランスを崩したところに膝蹴りを入れ、それを防ごうとする相手の力を利用して投げる技があった。もちろん本気で膝蹴りするわけではなく当てる真似をするだけなのだが。陸前流ではそういうものは見たことがなかった。
それよりも珪は伊勢森命綱の動きに目が釘付けになった。始めはゆっくりとした動きで説明をするので特別何とも思わなかったが、ふとした時に尋常でない速さで動く時がある。見ていてこちらの息が止まる程だ。その速さで動かれると、何度技を見てもまったく理解できない。動いているのはわかる。だが捉えどころがなく、手足がどう動き、相手との位置関係がどう変化したかがわからなかった。わかるのは最後に相手が倒れるところだけだ。
「じゃあ今度は私とやろう」
そう女性から声をかけられた。
「あんな猛者揃いの大会に参加するなんてすごいねえ、神子上君」
「上泉から聞いたんですか?」
「いやいや見てたよ、君のこと。観客席からね」
あの無様な戦いを見られていたのか。宮本といいこの人といい、こう目をつけられてしまうなら、あんな大会に参加するものではないんだなと改めて珪は思った。
「真壁霞といいます、よろしくね。この技はそんなに複雑じゃないよ」
互いに正座して、まずは珪が真壁の両手首をつかむ。
見た目通り、細い腕だった。思い切り掴んでいいんだろうかと思ったが、力を抜くのも失礼かと思い全力で握る。
「おー、男の子は力あるねえ」
と言われたとたんに転がされた。再び先程以上に力を込めて握る。
やはりあっさりと転がされた。
他の道場生と組んだときも、珪には相手を押さえることはできず、投げ飛ばされてしまうのだが、陸前流の道場でもそうだが、長年稽古し熟練した人は、太い手首をしているものだ。だがこの人は違っていて、本当に腕力を使わず技で崩している感じがした。
たしかにすげえな、伊勢森流。珪は素直に感動した。
「少しいいですか?」見ると師範の伊勢森がそばにいた。皆の稽古しているところを声をかけて回っているようだ。
「ほら伊勢森先生に教えてもらって」真壁がぽんと背中を優しく叩く。
「お願いします」珪は恐る恐る伊勢森の手首を握る。
不思議なことにまったく握っている感触がなかった。目を閉じれば目の前に相手がいることもわからないかもしれない。
そのまま姿勢を崩され横に転がされる。珪は最後までしっかり手首を握っているつもりだったが、技を仕掛けている最中も同様にまったく感触がない。抵抗のしようがなかった。
「陸前流合気柔術のことは私も存じております」東北訛りの祖父忠恒とは違って、喋り方にも品があるように感じられた。
「陸前覇道翁のお噂は、先代先々代よりお聞きしておりますよ」
覇道……? そんな名前だったっけ。陸前流の開祖はたしか陸前武道だったと思ったけど。号なのか、もしくは何代目かにそんな名前の人がいたのかもしない。
珪はそれ以上深くは考えなかった。
「珪君、次は私とやろうよ。せっかく稽古に来てくれたのに、まだ一度も一緒にやってないじゃない」
突然上泉が割って入る。
「ちょっと命ちゃんあなたの相手はどうしたのよ」
「八木さんは疲れたからちょっと休むって」
そう言って上泉は父親を押しのけ、強引に珪の手を掴んできた。上泉に弱いと思われたくないという気持ちから肩に力が入る。すると手を掴む上泉の方も力が入った。
今しがた伊勢森の手首を掴んだ感触を思い出す。本当に力がまったく抜けていた。
技は決まらなくていい、珪はそう思って馬鹿になったつもりで本当に力を抜いた。
重心が変わったため、一瞬上泉がバランスを崩す。そのまま指先を天井に向け身体を捻りながら上泉を横に転がした。
上泉は少し驚いたような表情を見せた。
「今度は珪君が掴んで」
言われた通り上泉の両手首を掴む。真壁以上に手首が細いが力は緩めない。伊勢森のときのような空気を掴む感触ではなく、力がぶつかり拮抗している感触が伝わった。そこで上泉は両脇を締め、身体を折りたたむように小さくすると、逆に珪の重心が後ろに崩れてくる。
そのまま方向を変えられ、珪は畳に転がった。お互い何度か技を繰り返す。
「珪君って、意外と素直なんだね」上泉が感心したように言う。
珪からすれば、明らかに見下された言葉に感じた。それと同時に見下す資格があるとも感じていた。やはり上泉は上手い。動きの柔らかさが違う。本気で大人に掴まれても、上泉なら技を決められるのではないかと思った。
――暴漢に立ち向かいたい。
この前の上泉の言葉を思い出す。
楽しそうに稽古しているように見えた。自分と違って嫌々稽古をしていない。もっともっとこいつは上手くなるんだろう。すぐ父親のようになる。
上泉の涙、右目を失った過去――。あの時の悲痛な決意は今は微塵も感じない。
まあいいか。珪は難しく考えるのをやめた。そもそもおれは関係ない。あいつが楽しくやっているならそれでいいんだ。
稽古は終わり、最後に伊勢森命綱に挨拶をしようと姿を探す。後ろ姿が見えた。
珪が声をかける前に伊勢森は振り返る。
「今日の稽古が、何か君の稽古に役立つなら嬉しいです」
珪は丁寧にお礼を述べた。すごい技だと思ったし勉強になった。心からの気持ちだった。
「学校では娘と仲良くしてやって下さい」
そう言って伊勢森は頭を深く下げる。
珪も慌てて頭を下げた。
「やめてよお父さん」上泉が恥ずかしそうに言う。「今度は私も珪君の道場に参加させてね」
帰り道、珪はずっと伊勢森に技をかけられた感触を思い出していた。人間にはあんなこともできるのか、柔らかいってああいうことなのか。不思議と自分にもできそうな気がした。
自分の中の踊る気持ちを押さえられなかった。今度道場で試してみたい。珪は明日の稽古が待ち遠しくなった。こんな気持ちは初めてだった。いや、遠い昔に感じていたような気がする。幼稚園の頃、あの頃は胴着を着るだけで嬉しかったことを思い出した――。
その日の夕飯時、父の典明に今日のことを話した。
「今日学校の友達の道場に行ってきたんだけど、そこの先生すごかったよ」
「へえ、武道やってる子がいるのか。何て道場なんだ?」
「伊勢森真陰流っていって、伊勢森命綱って先生が教えてくれた」
突然、典明は激しくむせ込んだ。
「何、伊勢森? 間違いだろう?」と祖父の忠恒が驚いて言う。
「なんか有名な先生なの?」
「有名というか、それこそ達人の先生だよ」
典明はまだ咳き込んでいる。
「でもじいちゃんよりずっと若い先生だよ」
「そりゃ歳はじいちゃんのが上でも、格が違うよ。武道家の格が」
「ここに道場が……、あるわけないだろ。たしか東京とか……、じゃないのか」典明がかすれ声で言った。
「三月に東京から越してきたって言ってたよ」
「こんなところにかあ……」
そうか達人だったのか。だったら後ろから殴りかかってみればよかったなあと珪は残念に思った。
でもおそらく伊勢森命綱は躱したんじゃないかと思う。それができてもおかしくない身のこなしだったし、躱して欲しいと珪は思った。




