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第一章   武道大会

 まっ黒だった窓は淡い光を放っており、まっ暗だった部屋はぼんやりと辺りを見渡せるようになっていた。

 四月六日、日曜日――、朝。

 ついに来てしまったか。神子上珪は布団の中で大きくため息をついた。

 昨夜はほとんど寝ることができなかった。

 罪悪感と己の不甲斐なさと、そして今日やろうとしていることを考えると、背中は強張り、胸はざわめき、暖かい布団の中はおそろしく居心地が悪かった。

 いや、もう決めたことだろ? 男だろ? 考えるな! 全部思いきって捨ててしまえばいい!

 気合い一閃――。

 珪は布団を一気に跳ね上げ、飛び起きた。

 たぶん、武術の達人ならこんなとき、きっとこう言うんだ。

 今日は死ぬにはいい日だって。

 そして渾身の当て身を空に放った――。


 そのまま動きを止めずに慌ただしく服を着替えた。肌をさらすにはまだ空気は冷たい。部屋の窓を開けるとさらに冷たい空気が窓から入ってきた。

 昨日までは春を感じさせるいい陽気だったのに。朝とはいえ、また冬に戻ったような気分だった。そして灰色の冴えない空――。

 ただでさえ、これから大変なことをしようってんだから、少しは気を利かせて欲しいよなあ。

 珪はまたため息をついて、一瞬、本気でやめようかなと思った。

 やっぱり、無理で無茶で無謀だよ。

 おそらく相手のほとんどは大人だし、大怪我するかもしれないし。

 でも――。

 心の中にざわめくものがある。この春休みの間、ずっと抱えてきたわだかまりがある。

 次第に固くなっていく身体を感じ、時間いっぱいまでストレッチをした。ちょっとでも止めれば、すぐにガチガチに固まってしまいそうで恐かった。

 両親に見つからないように家を出る。持ち物は胴着と参加票とペットボトルに入れた水。朝食は摂らない。戦う前は、胃に何も入れたくはない。少しでも体は軽くしておきたかった。

 音を立てないよう細心の注意を払い、無事に自転車を引き出して道路へ出た。よし、これで第一関門突破だな。安堵して跨ると、ペダルを踏み込みぐんぐん加速していった。



 自転車で行けば会場までは十五分程だっだ。いつも稽古に向かう慣れた道を進む。ペダルを漕げば、風はなお冷たい。だが、戦いを前に軽い興奮状態にあった珪には、身が引き締まる心地よい冷たさに感じた。

 普段より車の少ない車道も、前を行くガニ股で自転車に乗ってるおっちゃんも、バス停で待つ女子高生の姿も、何だかやけに新鮮に感じられた。ふと空を仰ぐと町の西に位置する大円寺山、そこにそびえる三本のテレビ塔、その遥か上空に自衛隊のヘリがV字の編隊を組んで飛んで行くのが見えた。

 それをぼんやりと眺めながら、珪はこの春休みのことを思い出していた。



 珪の通う仲町小学校は三月二十五日から四月六日までが春休みだ。短い冬休みよりも遥かに短い。ゆえに宿題というものはない――。

 ――はずだった。

 正確に言えば珪にだけ宿題があった。春休みの宿題、ではない。これも正確に言うと、五年生の夏休みの宿題である読書感想文が未提出だったものを、春休みの宿題として課せられていたのであった。

 珪はこの読書感想文というやつが大嫌いだった。

 本を読んだ感想なんて、おもしろかったか、おもしろくなかったか、それ以外ないではないか。それをどうやって原稿用紙に三枚も書けというのだろう。

 五年の夏、珪は書くのを逃げた。

 担任の先生にこっぴどく叱られ、呻きながら、おもしろくなかったという旨でどうにか一枚弱を書き上げた。

 が、当然却下された。

 その後も逃げ続けたのだが、冬休みの宿題として提出を厳しく命じられ、物語の内容を要約するという戦法で、苦しみながらも規定通りの原稿用紙三枚と二文字を書き上げたのだ。

 だが、それも却下されてしまった。「感想文になっていない。やり直し」とにべもなく言われたその言葉を思い出すだけで珪は腹が立ってくるのであった。

 そしてこの春休み、三度提出を義務づけられたわけである。



 そろそろ目的地が見えてくる。長い長い坂道を勢いよく駆け下りながら身が固く縮み込むのは、強く吹きつける風のせいだけではなかった。

 今珪が向かっているのは自宅の机ではなく近所の武道館だ。課題など最初からやる気はなかった。でもこの春休み、遊びはすれども心から楽しいとは思えなかった。いったい自分は何をやっていたのだろうと悲しくなる。課題を命じた先生にも、自分にも周りにも怒りを覚え、とにかく何か無茶がしたかった。それで先週半ばヤケになって申し込んだのが、その武道館で行われる武道大会だ。

「やる! やる! やるしかないんだ!」

 大声で叫びながらまだ坂を下り続ける。勝ち負けなんかどうでもいい、この力の限り、迷いなく全力で戦うだけ!

 ま、大怪我すれば、宿題を免除してくれるかもしれないし……。

 下り坂はもう平坦な道に変わっていた。そのままスピードを緩めず、人通りの少ない道を駆け抜けて行った――。



 到着した武道館は、稽古で見慣れたいつもの様子とは雰囲気がまったく違っていた。

 だだっ広い駐車場がすっかり車で埋まっているし、たくさんの人で賑わっていた。稽古の時の、閑散とした夜の武道館しか知らない珪には同じ場所とは思えなかった。

 会場内も同じである。二階の観客席なんて、稽古では一人もいたためしがない。今は満員とまではいかなくとも、三分の二以上は埋まっているように見えた。

 開会式までは一時間以上もあるのに……。

慌てて受付を探し、やや重い足取りで向かった。足取りが重い理由は、受付を済ませれば出場が確定してしまことと、もうひとつは、実は珪は出場にあたって嘘をついていることがあるからだった。

 この大会の出場には年齢の規定があり、中学生以上とされていた。申し込みは電話なのでうまくごまかせたのだが、実際姿を見られると何か言われそうな気がしてならない。

 それにしても……、と通路をすれ違うおそらく出場者であろう武道着を着た人たちの様子を窺いながら思う。

 やっぱり大人しかいないな……。

 想定済みとはいえ、せめて高校生くらいいるかと思ったがまったく見当たらない。自分はまだ普段着のままだが、気のせいか周りからかなりじろじろ見られている気がする。

 電話では今年の四月から中学生だと言って、ちゃんと参加票を送ってもらえたんだから大丈夫、びくびくするな。そう自分に言い聞かせた。

 受付には、目つきの鋭い年寄りが一人座っていて、何か言いたげに珪をじろじろと見ている。

 気にするな、と再び自分に言い聞かせながら近づいて行く。自分の誕生日は六月で、あと三カ月早く生まれていればこの四月から中学生だったんだよ。三か月だ、たいした差じゃないだろ!

 恐る恐る珪の出した参加票を、その年寄りは黙って受け取り、出場番号の書かれたゼッケンを渡してくれた。「ま、怪我せんように頑張んなさい」言われたのはその一言だけだった。

 よし、第二関門も突破だな……。

 そのまま更衣室に向かうがすでに相当に体力を消耗した気分で、足もともおぼつかない感じになっていた。



「場所はここでよく見えるかしらね」

「うん、霞さんが一緒に来てくれて良かったよ」

「でも遅れちゃってごめんね。一回戦は皆終わっちゃったか」

 二人の女性が楽しそうに話し合っていた。

 一人は二十代後半の落ち着いた大人の女性で、もう一人はそれより随分若い。

「お父さんも来たら良かったのになあ」

「そりゃあ先生は忙しいから。あ、(みこと)ちゃんこれ見てよ。すごいよ。中学生がいるよ」

 そう言って女性はプログラムの端を指して隣の少女に見せた。

「うそ! 本当だあ。どこで試合やるんだろ」

 少女は心底驚いた様子で、階下の試合場を探し始める。

 不思議なことに、会場を探す少女の右目はずっと閉じられたままだった。

「次じゃない? ほら、左の会場」

「本当だ! へえ、中学生っていうか私と同じくらいに見えるなあ」

「でもこれ二回戦でしょ? 一回戦勝ってるってことじゃない」

 二人ですごいすごいと言い合ってはしゃいでいる。

 しかしこの二人だけではなかった、会場中が左の第一試合場に注目していた。



 胴着に着替えてからというもの、周りの視線が刺すように痛い。本来ここにいてはいけないやつがいる。何なのお前は。そんな無言のプレッシャーを重く重く皮膚で感じていた。ふと、この前の国語の授業に出てきた『針の(むしろ)』という言葉を思い出した。たぶん今のこんないたたまれない気分を言うんだろうな。

 正直、何度も帰ろうかなと思った。

 それを懸命に己を鼓舞し奮い立たせた。そうしなければ、自分がどんどん小さくなって消えてしまいそうだったからだ。

 珪は試合場の端に立ち、緊張を緩めるために手足をぷらぷらさせながら、審判に呼び出されるのを待っていた。

 平常心、平常心。何度も自分にそう言い聞かせるが、浮ついて心もとないこの身体はいつもの状態には戻らない。何でこんなに違うんだろう。不思議なもんだな、まるで魔法か。

 あれこれ考え過ぎて、もう珪の思考はめちゃくちゃになっていた。

 会場から注目されてるのはわかる。幸か不幸か一回戦は不戦勝になってしまったし。また不戦勝にならないかな……。そう思ったものの、試合場を挟んだちょうど反対側には空手着の男が立っている。残念ながら次の対戦相手であるらしかった。

 大人の中では中肉中背。もっともっと大きな相手と戦うことをイメージしていたので、少し安心した。しかしそれも一瞬のことで、ついに珪の名前が審判に呼ばれた。

 それは珪にとっては死刑宣告にも似た呼び出しだった。

 やかましいくらいに会場が盛り上がる。

 いつも稽古で見慣れた道場、いつもと同じ畳の上。全っ然別だな……。

 春休みの最終日。

 本当、なにやってるんだろうなあ、おれは。

 珪にとって生まれて初めての試合であった。


 相手はこちらを見て、大きくため息をついていた。そして顔を隠すように額に手を当てる。

こんなガキが相手とは、やってらんねえなあ、もう。

 そう珪は翻訳した。

馬鹿にされるのにはちょっと腹が立つが、まじまじ見るとやはりおっかない顔をしている。短髪をおっ立てて大きく見開かれた目と自信ありげな口元。空手家ってのは品がないとそう思った。

 試合開始の号令がかかる。会場はより大きな歓声に包まれた。

 さあどうしようか。相手もすぐには攻めてこない様子だった。

 この固い身体で動けるか不安だったが、突如放たれた突きを入り身で躱す。相手の腕に軽く手をかけたが、すぐ回し蹴りが飛んできたので、大きく下がってこれも躱した。

 一瞬の後、会場は再び大歓声に包まれた。

 よかった。意外と動ける。そして瞬殺されなかったことにほっとした。

 躱されたことで相手に表情の変化はない。何事もなかったようにゆっくり間合いを詰めてきた――。

 下がっちゃだめだ、もっと前に出ないと。正面から濁流のようにプレッシャーが押し寄せてくる。珪は押し寄せる水を割るようにして、軽く左の手刀を突き出し構えていた。



「おー、やるねあの子。ちゃんと入り身してるじゃない」

 入り身とは、相手の攻撃に対して後ろにも横にも逃げず、攻撃してくる正面に向かって斜めに踏み込む身体操法である。真っ正面では相手にぶつかってしまうが、斜めに踏み込むことによって攻撃を躱し、かつ安全な相手の側方に密着することでこちらは攻撃を仕掛けられるのである。

「あの子は空手じゃなくて古流武術なんだね」隣の女性の言葉に少女が答える。

「陸前流合気柔術って書いてある」

 プログラムには参加者の名前と年齢、あと流派が載っていた。

「あんまり聞いたことないね。こっちでは盛んなのかしら」

「お父さんなら知ってるかも」

 少女は答えながら、片目でじっと勝負の行方を見守っていた。



 ――ほら、珪後ろに下がるな。腰が引けてるぞ。

 ――下がんな下がんな。下がったって相手は続けて打ってくるだけなんだからな。

 道場の先輩たちの言葉が頭に響いてくる。

 でも無理だって、入れないから後ろに下がってるんだろ!

 下がっても躱しきれず、突きや蹴りを受ける。受ければ身体は硬直し、さらに動きが重くなる。

 適当に間合いが開いたところで、相手は追撃をやめてくれる。だからなんとかまだ試合を続けられている。

 要するに手加減してくれているってわけだ。

 くそ、何とか前に入りたいなあ。

 ――もっともっと柔らかく、まずは力を抜いてみろ。

 わかってるよ、じいちゃん……。

 祖父の言葉が聴こえてきた。珪の通っている陸前流合気柔術の道場。そこは珪の祖父が教えているのだった。

 力を抜くってのは不安で恐い。躱せなかったら柔らかい身体を思い切り打たれてしまう。そして恐いから固くなる。固くなれば動けないけど攻撃を受ける覚悟はできる。

 それでも力を抜けと祖父は言う。

 たしかにこのままでは、いずれやられる。ならやってみよう。

 来るぞ左の突き。ゆっくりと珪の身体は前へ進む。が、フェイントで右突きが来た。

 それを入り身で躱す。相手と密着する刹那、そのまま突いてきた右手を取って、小手返し!

 小手返しとは、多くの古流武術で見られる、相手の手首を捻ってバランスを崩す投げ技である。

 だが珪の崩しは不十分であった。相手はバランスを崩しながらも倒れず、左手で殴ってきた。

 それを珪自身もバランスを崩しながら飛び上がって躱して畳に倒れる。飛び受け身という受け身技であった。

 珪はそんなに真面目に稽古に出ているわけでもなく、また子供だということもあって技は下手だが、受け身にだけは自信があった。

 先輩たちに容赦なくぶん投げられているうちに、自然と怪我をしない柔らかい受け身が身に着いていた。

 やっぱりおれじゃ無理か……。

 相手は警戒しているのか次を打ってこない。様子を見ているようだ。すると次第にこちらの方が気持ちで負けていく感じがした。

 ――待っていてはだめだ。あくまでこちらが攻撃する気持ちで構えているんだ。

 これは最近父さんに言われた言葉だったか……。

 もうやぶれかぶれだ。当てられそうな所に当ててやれ。自分の身体を一直線に、体重を乗せて渾身の当て身を放つ。

 狙いはのど元。だがあっさり往なされ、珪は前のめりにバランスを崩し、襟と右手を掴まれた。おっかない顔が眼前に迫る。

 そして景色がぐるっと回った。

 空手にも投げ技あんのかよ!

とっさに左手で相手を掴もうとするが、なんとその手が相手の短い袖に引っかかってしまった。

 稽古ではたまにそうなることもある。それでも珪は受け身に自信があったので、足の力で飛びあがって受け身を取ろうとする。先程やってみせた飛び受け身だ。

 さらに余裕を見せて、飛んで身体を回転させながら、相手の頭を蹴りつけた。

 稽古の中で、狙ったわけではないが、偶然相手の頭を蹴りそうになったことがあったからだ。

 右足に固い衝撃があった。が、それは予想したものとはちょっと違っていた。

 なんと相手に右足を掴まれてしまったのだ。

 受け身を取るための回転は止まり、空中に逆さまになった状態で両手は塞がっている。

 このままだと頭から落ちる!

 さすがに珪もあせった。顎を引いて何とか頭からの落下は防がなければならない。下が畳とはいえ、角度によっては死ぬことだってある。

 極度の緊張状態の中、さらに相手の膝が顔に迫ってきた。

 マジかよ……。身体はどこも動かない――。

「うわあああああああああ!」

 思わず叫んでしまった。

 膝は直前で止まり、ゆっくり畳に下ろされた。

 審判が終了を合図し、試合は終わった。

 後のことはよく覚えていなかった。残りの試合を見ることもなく、珪は早々に会場を立ち去った。



 自転車を漕ぎながら悔しくて悔しくて仕方なかった。

 涙をにじませながら考える。なんでこんなに悔しいんだろう。稽古なんてさぼってばかりなのに。勝ち負けなんかどうでもよかったのに。

 馬鹿みたいだ。春休みの最終日に。宿題もせず。

 勝ちたかったのかな、おれは。何に勝ちたかったんだろう……。

 冷たい空気が身に沁みた。朝よりは気温は上がっているのだろうが、風が強く吹いてきたためより寒く感じられた。帰るまでに何度も突風に煽られたが、ふと肩の力を抜くと、意外と寒くないことに気がついた――。




 翌日、学校が始まった。

 始業式の校長先生の長い話が終わり、みな教室で騒いでいた。

「よう珪、元気にしてたかあ?」

「元気もなにも、しょっちゅう会ってただろ」

 ふざけて肩をバシバシ叩いてくるのは逢坂善也(おうさかぜんや)だ。珪はクラスで一番の親友だと思っている。

 他のみんなも変わりなさそうだ。なにせクラス替えはないと聞いていたし、そして担任の先生も変わらないという。

 ああ、先生だけでも変わってくれたら宿題しなくて済んだのに……。

 結局読書感想文は書かなかった。

 どう言い訳しようかな、そんなことを考えてるうちに先生が入ってきた。

 山岡精太郎、黒ブチ眼鏡の珪のクラスの担任だ。

 ガタガタ椅子を動かす音がして、みな着席した。

「みんな元気そうで何よりだ。また一年よろしく頼む。みんなも知った面々だし、クラス替えするより良かっただろ?」

 同じでつまんないー、そんな声が女子の間から上がった。

「いい反応だ。だよなあ? というわけで新入生を紹介するぞ。東京から転校してきた――、よし入って来い」

 ――。やや間を空けてガラガラと扉を引く音が聞こえると、一人の少女が入ってきた。なんだ女か。珪はちょっとがっかりしたが、その転校生を見て、クラスにざわめきが広がる。

「初めに言っておくが、見ての通り事故で右目が不自由だ。馬鹿にしたりからかう奴がいたら俺が許さんからな。心しておけよ」

 そして、「特に善也な」そうつけ加えた。

「ひでえな先生。おれはそういうつまんねえことはしねえよ」

 善也の抗議にみなが笑った。

「では自己紹介どうぞ」

 その転校生は軽く一礼して、静かに息を吸う。

 右目はずっと閉じたままなんだな。

 珪はどこかその子のことが気になった。目のことはまあいいとして、顔もそんなにかわいいわけでもないけれど、いい姿勢をしているなと。緊張はしているんだろうが力むことなく、すっと立っている感じが美しく見えた。

 次の瞬間転校生が大声を上げる。

「私の父は上泉(かみいずみ)命綱(いづな)でそのまた父は上泉秀綱。かく言う私は上泉命です。よろしくお願いします!」

 クラス中がぽかーんとなった。山岡先生まで目を丸くしている。

「おまえ、それじゃ自己紹介というか戦国武将の名乗りだろ」

 どっとクラス中が笑う。

 片目なのを踏まえてか、正宗、正宗、と善也が囃し立てる。

「おい善也、そういうのがつまらないことって言うんだよ」

 そう言って山岡先生が善也の頭をわしわしとかき上げる。

 それを見て転校生も笑っている。この自己紹介はあいつなりのギャグってことなのか?

 ふとその転校生と目が合った。「あーっ!」と少女は大声を上げる。

 すたすたと珪の座っている前まで近づいてくる。

「ねえ、昨日武道大会に出てたでしょ?」

 ギクリとした。

 こいつあの会場にいやがったのか。小学生以下出場禁止の大会に出ていたのを先生に知られるのはまずい。

「いや、そんなの出てないよ」と頭を振る。

「え、でもあの珍しい名字の、神の子の上って書いて……」

「ま、まあ上泉、とりあえず席に着け」

 先生の促しで、なんとかごまかせたか。別にこいつに知られても構わないけど、先生の耳に入るのはいろいろまずい。宿題をしなかった言い訳をする上でも非常にまずい。

 今日は始業式の日なので、簡単な先生の話だけで終了となった。

「じゃあまた明日な。あと珪は教室に残れよ。理由はわかっているよな?」最後に珪にだけ厳しい顔を見せた。

 わかってるよ。わかってますよ。まあ一時間では済まないだろうなあ、説教。



 かくして珪一人だけ教室に残された。

「で、何でやらなかったんだ?」

 先程のホームルームの時とは違う厳しい表情で珪に迫った。

「やろうとはしました。でも書けませんでした……」

「じゃあその途中までのものを見せてみろ」

「……」

「昨日は何をやっていた」

「はい、原稿用紙に向かってました」

「本当か? 遊んでたんじゃないだろうな」

「本当です。ずっと家で机に向かってました」

 ちらっと先生の背後の時計を見る。もう三十分経ってるのかあ……。

「おい! いい加減にしろよおまえ。その歳で嘘ばかりつきやがって」

 雰囲気が一変した。怒られるのは今に始まったことではないが、なんだろうこれは。ごく最近これと同じものを経験したような……。

 先生が眼鏡を外して構えをとった。

「あーっ! 昨日の! 嘘だろ、山岡先生だったのかよ」

「昨日は随分加減をした。でも本当に痛い目を見ないとわからんらしいな」

 ガタンッ、と迫力に押されて珪は椅子ごとひっくり返った。

「すみません! 明日までに必ず、必ず書いてきます」

「本当だな」先生は凄んでみせた。

 そして一息ついてまた口を開く。珪は怯えたまま体を動かせなかった。

「しかしおまえ、本当に俺のことわからなかったのか?」

「全然わからないよ。だって雰囲気違うし、髪型違うし」

 山岡先生は普段はあんなおっ立てた髪型はしていない。

「試合の時は気合を入れるためにな。もちろん眼鏡で試合うわけにもいかないしな」

 そう言って眼鏡をかけ直す。先生はもうホームルームの時のような穏やかな表情に戻っていた。

「俺は絶対ばれたと思ったよ。だいたい名前でわかると思うがな。ま、おまえは随分緊張してたみたいだし、そんな余裕はなかったか」

 珪は何も言えなかった。

「教え子と試合するなんて考えたこともなかったよ。おまえも、その歳であの動きなら悪くもない。稽古もがんばれよ。あと課題は明日の朝に提出な」

 そしてその日は、珪は本当にずっと机に向かっていた。物語を要約しながらいろいろ感想も挟んでおいた。日が変わる頃になんとか原稿用紙三枚と二行を書き上げた。

  明朝早くに職員室に行き、感想文を提出した。その場で先生は原稿用紙を読み、この前と変わらない要約じゃないか、そう言ってまた却下されてしまったのだが……。


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