序、承前
序
なにもかもがうしなわれた。
かみがいない、
それでもひとは、いきつづけている。
むかし、月の神がひとをあわれみ、
彼らに、若水をあたえたという、
それより以後、
ひとはまだ、
蛇のようではなくとも、
いきているのだ。
それが苦痛にせよ、
生きていることには変わりない。
死んでゆくことにも変わりない。
承前
*
どうしよう、こんなもの、いらなかったのに。
罰を受けるのは、自分一人で充分だったはずだった。
なのに。
「どうして、にいさんまで」
「あにじゃないよ、あれは」
くすくすとわらうやみ。はたしてあれはやみだろうか。闇が嗤う、という概念を、かつての彼は持ち得なかったのだから。
「兄さ……」
最後まで呼ばせては貰えない、風が吹く。奈落の底のようなこの場所に、行き詰まったこの場所に。
ひとは己の限界を知る。
しかし愚かと知りながら走り出す。
ざわざわざわ、ざわざわざわ
宵闇の鳴る、
声のなきものの声以前
歌うなりささやくなり、食いちぎる歌さえあてどなく響き心をふるわす
神のなる、
カミのおわしす
問えとねがう、
とわにねがう、
呼べ、
その声は望まれてある、
獣のように咆哮すると、ざわめきが瞬間、消滅してふたたびわらわらと周囲に群がる。
消えろと、がんぜない子供のように叫ぶのはたやすい。
しかしもう息は切れ、涙が目の端に滲んで視界を塞いでいく。
走る勢いでこぼしていくが、泣くというより眼球が痛くて涙がこぼれた。
勇気と無謀は違う。
しかし勇気と無謀の区別は付かない。
「孝君」
ふいに、闇を裂く。
澄んだ声。
言いしれぬ深淵の中にあって、なおもくらく聞こえる深い声。
「聞こえるか」
しゃ、と金属の細かくふれあう音がする。
ああ、
と、少年は我知らず呟いた。
言葉は声にはならなかったが、それでも今ははっきりと、自分は声を出せる、幽夢とはちがう、一人のものだと気が付いている。
助かったのだ。
無性に、胸の奥、肺の底が熱かった。
吐き出すように、少年は叫ぼうとした。
だめだ、このままじゃあ気づいてなんてもらえない。
いやだ、こんなところにはいたくはない。
声はのどの奥でさえ鳴らない。
嘲笑う闇が、一層濃くなって彼を相手から覆い隠そうとする。
「孝……く、ん!」
急に、視界が晴れた。
あの金属の音が、今度こそはっきりと聞こえた。
黎明だ。
れいめいだ、とおもった。
なぜそんなことを思ったのかも知らないが、夜明けが来たのだと思った。
あのときのように。