序
銀月の一族 序
序
*
人気のない校舎を全力疾走で駆け抜けていた秋葉は、ふとした違和感を覚え、転けそうになりながら立ち止まった。
「なんだぁ……?」
随分薄暗くなった廊下には、彼以外には誰の姿もない。
陸上部の部活に出ていた秋葉は、教室の忘れ物を取りにひとり、校舎内に戻ってきたのだった。友人たちは迂闊な秋葉を笑いながら、一足先に帰路についている。
まさか、……じゃないよなァ。
頭によぎった一つの考えに身震いし、秋葉は鞄を抱えなおした。
「んなわきゃ、ないよな」
この学校には、幾つかの「不思議ごと」があった。
それは「七不思議」などとあちこちの学校で語り伝えられているようなものと同様、伝説や噂の域を出ない。初代学校長の銅像が走るだとか、図書室の本から化け物が実体化するのだとか、瞳のない少女が笑いながら散歩をするだとか、たわいもない話である。
秋葉は、お化けや妖怪、幽霊の類はあまり信じていない。
闇は怖くないと言えば嘘になるが、それでも今のような事態になって、怯えの感情を覚えたのは何故だろう。
「……どうしたの?」
突然、背後からか細い声が響いてきた。
体をこわばらせていた秋葉はびくりと反応し、慌てて振り返る。
すぐ側に、セーラー服の少女が立っていた。服がよく見慣れた自分の高校のものだと気がついて、少年はほっと胸をなで下ろした。
(そうだよな、あんな話、嘘だよな)
「なに、なんか用?」
愛想でなく心の底からの微笑みで言葉を返し、秋葉は少女の顔を見た。
そして。
笑みを強張らせた。
「っあ……」
酸素が急に薄くなるような思いがして、少年は大きく口を開いた。
「どうしたの?」
華やかに笑い、うつむいていた少女が顔を上げた。眼窩には黒い穴があいていて、あるべきはずの眼球は、空洞の中には見あたらなかった。
「ひあぁああああっ!」
笑う膝をなんとか庇い、逃げ出す少年を、少女が笑って見送った。
――誰かの声が聞こえた。
そもそもの違和感の正体はそうだったと、足をもつれさせながら秋葉は思った。
校舎には誰もいない。
軽い笑い声だけが響いていた。
*
誰かの声が聞こえた。
一瞬のことに空耳かと首を傾げるが、しばらくの間をおいて再度の声が辺りに響く。
少年は音源を探り、振り返った。
水に濡れた木々の葉が、闇にとけるような深い青緑色の色彩を持っている。夜半過ぎにのどの渇きを覚え、寝付けないのをいいことに缶ジュースを買いに出かけた少年は、ふっと目を細め、先の見えない暗闇を睨んだ。
「……」
がたん、と路地裏で音がして、寝静まった住宅街を野良猫が駆けていく。
自動販売機で手に入れた缶ジュースを首筋にあて、彼は飽きたように視線を元に戻した。進行方向には大した異変もない。別段気にするほどのことではない、と少年は歩き出す。
と。
「冷羽か……」
脱色したような淡い色の前髪をはね上げ、少年が口の端をゆがめた。嘲る表情が浮かぶのとほぼ同時、ひらり、ひらり、と白い破片が闇夜を切り取り舞い踊る。
やがてそれが真白の蝶であるのを見届けて、彼は缶を持たない方の指を、ごく自然に、つい、と伸ばした。
たよりなく踊る蝶が重さのない動きで闇の中から舞い降りて、少年の指先に、何度も躊躇いながら近づいた。
そして遠慮がちに止まった瞬間。
「愚か者」
不機嫌に呟いて、少年は蝶を手のひらに握り込んだ。
白い羽を粉々に砕き、彼がもう一度指を開くと、それは夢であったかのように、跡形もなく消え去っていた。
「……冷羽、おまえ、何を考えている」
言葉はそのまま空に消え、何一つとして答えはない。
気が済まない、とばかりに、きついまなざしで少年はアスファルトを蹴った。
「馬鹿だな」
……おまえたちの望む者は、もういないのに。
「それでも望むのか。探しているのか、おまえたちは」
小さく小さく、呟いて、冷たい月のような面立ちの少年は、吹っ切るためにか顔を上げ、今度こそ迷いなく歩を進めた。
家はもう、すぐそこにある。