7.スターチス
「こんにちは、相原さん。」
相原さんの姿を見付け、僕は声をかけた。
「海原さん、こんにちは。」
相原さんは振り向き、優しい笑顔で言った。一気に緊張が増した。
思えば相原さんと会話した日数は、片手で数えられるくらいしかなかった。しかも相原さんは、男性恐怖症だ。それなのに、僕が相原さんを好いているなんて言うのはとても気が引けた。相原さんにとって、僕はここの活動で話す間柄だけの人なのかもしれないから。それに10歳程度も離れたおっさんにそんな事言われて、気持ち悪くないだろうか?相手にしてくれるのだろうか?傷付けてしまうのではないか?凄い不安だった。
それに最初と比べると、相原さんも普通に僕と接せる様になっている。今伝えれば、困惑して悪い影響を与えてししまいそうで怖い。
活動を止める事だけ伝えたら、どう思ってくれるのだろうか。残念に思ってくれるのかな。
「大丈夫ですか・・・?」
黙りこくってしまった僕を、相原さんは心配そうに見ていた。
「ああ、ごめん。今日も一緒に駅まで帰ろうよ。」
僕が慌てて言うと、相原さんは嬉しそうにコクッと頷いた。そして、教室へと入って行った。
またしても、教室の扉の所にいた守元と目が合った。だが、睨んではいなかった。
授業が終わり、施設から出ると柵門の近くに相原さんはいた。守元の姿は無かった。
「待った?ごめんね。」
僕が声をかけると、相原さんは顔を上げて笑顔を見せた。
「守元くんは?」
「・・・先に帰ってしまいました・・・。初めて・・・。」
そう言った相原さんは、少し動揺していた様だった。
「そうなんだ。二人いつも一緒にいるから、どうしたんだろう?」
「はい・・・。心配です。」
相原さんは不安そうに俯いた。またしばらく沈黙が続いた。
伝えなきゃ、あの事を・・・。好きだと言う事を。卒業する事を。
「僕さ、子供の頃、父方の祖父と一緒に住んでいたんだ。」
いきなり僕は何を言っているんだろう?自分でもそう思った。
なぜか勝手に口が動いた。思い出しているのは、この活動に応募する前に見た夢の光景。あれはそうだ。思い出した。
「そこは田舎で、田んぼだらけで、でも友達がたくさんいて楽しかった。凄く。懐かしくて、この頃に戻りたくて、僕は活動に参加したのかもしれない。」
あの頃、子供の頃、周りに僕を罵倒する奴なんか一人もいなかった。皆優しくて、一緒にいて楽しかった。この施設にいる人達は、皆あの時の友達の様だった。だから、ずっといたいって思ったんだ。
「中学生になった時、僕は親の仕事の関係でこっちに引っ越したんだ。そしたら何もかも全然違っていて、僕は戸惑いながら生きてきた。今迄ずっと・・・。」
すぅっと、息をゆっくり吸ってから言葉を続けた。
「今も戸惑いばかりだけど、それでも生きていかなくちゃいけない。だから・・・相原さんと会えなくなるのは寂しいけれど、僕はもうすぐで参加を止めるよ。前に進む為に。」
それを聞き目を丸くした後、相原さんはすぐ悲しそうな顔をした。寂しいと思ってくれたんだと、嬉しくなった。
「わた、私の事・・・。カズくんから聞きましたよね・・・?」
相原さんが口を開き、チラッと僕を見た。僕はコクッと大きく頷く。
「少し昔話ですが・・・カズくんにも話した事無い話し、してもいいですか・・・?・・・何故だか海原さんには、話してもいいかなって・・・。そう思うんです。聞いて貰いたいんです・・・。」
相原さんは真剣な表情をしていた。僕はまた頷いた。
「・・・私の母は、私を産んだ後すぐ死んでしまいました・・・。父は母の事を凄く愛していて、死んでしまった事を凄く、悔いていました。その悔いが、悲しみが、いつしか私に向けられ、・・・父は私に厳しく接する様になりました。」
眉間に皺を寄せながら、相原さんはギュッと唇を噛んだ。その表情から、相当辛い目にあったんだろうと推測出来る。
「・・・父は仕事でほとんど家におらず、私の世話は家政婦と家庭教師の方がしていました。私の監視の為に雇われた人達でした。
学校から帰ると毎日様々な習い事をさせられ、休みの日もずっと家に閉じ込められていました。友達なんて出来なくて、寂しくて堪りませんでした。ある日、全てが嫌になって家に帰らず公園に隠れていたら、カズくんに出会ったんです。
カズくんは、最初っから今の様なツンツンとした感じで、私も初めて会った時は怖かった。」
相原さんが、フフッと嬉しそうに笑った。
「しかも私、その時泣いてしまっていて、カズくんはこんな所で泣いてんじゃねーって、邪魔だって言って。でも、なんだかカズくんも今にも泣きそうな顔をしている様に感じたんです。
気付いたら、私、自分の事カズくんに話していて、カズくんは黙って全部聞いてくれました。その時、自分の抱えていた悩みや悲しみが、薄れていくような感じがしたんです。心がぽあっと、温かくなって凄く楽になった気がしました。だから、次はカズくんの番だって、聞いたんですけど、
カズくんはうるせーって逃げて行ってしまいました。それが、カズくんとの出会いでした。」
相原さんは優しい眼差しで、遠くを見た。きっとその目線にいるのは、守元だ。と僕は察した。わかってはいた事だったが残念に思いながら、僕は相原さんの話を静かに聞いた。
「それから暫く経って、カズくんと同じ学校で同じ学年だという事を知りました。クラスは違っていましたが。
休み時間に私は一人でいるカズくんの所に行き、何をするでもなくただ傍にいました。カズくんは、私をウザったく思っている感じで、たくさん暴言も吐かれたりしました。それでも我慢強く、一緒にいたら段々とそれが当たり前になってきて、会話するようにもなりました。一緒に遊ぶようにも、一緒に帰るようにもなりました。
・・・ある日の事でした、カズくんと一緒に帰っていると、家の前に外国人のお婆さんが座り込んでいました。そのお婆さんは私を見ると、目を見開き、涙を流し始めました。私は、驚いてどうしたらいいかカズくんの方を見ると、カズくんは先帰ると言って走り去ってしまいました。
お婆さんは私に近寄ると、ギュッと私を抱きしめました。お婆さんから、凄く良い、優しい匂いがしました。
私が固まっているとお婆さんは、びっくりさせてごめんね、ナタリアにそっくりでと片言の日本語で言いました。
ナタリア・・・それは母の名前でした。お婆さんは母の母、私の祖母でした。」
それから、相原さんは家政婦に嘘を吐き、祖母と公園で母の話をしていたそうだ。相原さんの父親は、母親の事を何も話してくれなかった為、相原さんはたくさん母親の事を聞いた。
母親の生まれ故郷の事、子供の時の事、父親に出会う前の事ー。
空が薄暗くなる迄話していた。もっとたくさん聞きたい事があったのだが、帰らないといけない時間になり、名残惜しそうに祖母にまた会えるか聞いた。だが祖母は暗い顔をして、国に帰らないといけないと言った。そして、こんな事あなたに言いたくはないけれど、相原さんの父親を恨んでいると言った。
相原さんの母親は、父親に強制的に結婚させられた。そして、死なせたと。祖母は眉間に皺を寄せながら言い、一冊の日記を相原さんに渡した。それは母親の日記だった。
家に帰りこっそり日記を読むと、相原さんの父親への恨み辛みが書き綴られていた。死ぬまで母は、自分の夫の事を憎んでいた。
日記を読みショックを受けた相原さんは、今迄男に付け回されたりとか、男性に対して不信になっていた事もあって男性恐怖症になってしまった。おまけに、太陽に当たると皮膚に湿疹が出来る様になり、外にも出られなくなってしまった。
相原さんは、毎日泣いて過ごしていたそうだ。そんな時、守元がいきなり部屋に押しかけてきた。
怯えて震えている相原さんに守元は、お前のおかげで俺は救われたと、お礼を言いながら泣き始めた。それを見て、相原さんも一緒に泣き、守元とは信頼出来る仲になったらしい。
「この活動に参加し始めて、随分私は良くなったと思います。それに、海原さんには何故か恐怖心とか余り湧かなくて・・・。こんな事も話せちゃうくらい。」
相原さんがニコッと笑った。
「海原さんは、とても優しい人なんだと思います。だから、なんでも話せたんだと思います。海原さんのおかげで、男性に対する思いも少しずつ変わってきました。感謝しています。
・・・一方的に、たくさん話してしまってごめんなさい。でも、最後・・・になるかもしれないし、私達の事忘れないで欲しいと思って。
・・・短い間でしたけど、一緒にいて楽しかったです。ありがとう、ございます。」
相原さんは深くお辞儀をした。ふわっと良い香りがして、切なくなった。
「いや、こちらこそ・・・。相原さんと一緒に話せて、会えて良かったよ。ありがとう。」
相原さんとはこれでお別れだ。
僕はそんな気がしていた。