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柳は緑、花は紅  作者: カブトムシ
第二章 迅雷耳を掩《おお》うに暇あらず
8/23

4 抜け落ちた記憶

 自宅へ帰ると、愛犬のヌイが激しく吠え立てた。

中型犬の雑種で真っ白な体つきをしている。いつも遥が帰れば甘えた声で鳴くというのに、なぜか今日は遥を見て吠えた。

 何かがいるのだろうかと、錆びついた体を動かすように後ろを向いた。だがそこには誰もいない。ヌイはまだ吠えている。

「ヌイ。何で鳴くの。あたしだよ」

 声をかけるとヌイは困惑した小さな泣き声を発した。そばへ寄って手を差し出して、匂いをかがせる。するとヌイはようやく認識したとばかりに尾を振って遥を輝いた目で見つめてきた。

「もう、なんだったの。そういう怖い反応やめてよね」

 ヌイは生暖かい舌で遥の手のひらを何度も何度もなめて来る。遥は一つ吐息をつくと、ヌイの頭をポンと一度叩いた。

よくわからないものを目にしたためなのか、精神的にも、体力的にもとても疲れていた。家に帰れば食事よりも先に風呂に入りたい。遥は膝に手を置いて力を込めて立ち上がった時、ヌイが突然か弱い声を上げて、その場に膝を折ってぐったりと座り込んでしまった。

「ヌイ?」

 目の前でヌイが倒れた。息はしているようだが、ぐったりと疲れたように動かない。

 この光景は、今日、何度も見た。

 遥がそばを通ると、相手は倒れる。

 なぜだろう。ヌイが倒れたというのに慌てる気持ちが全くわいてこない。それどころか手の平が熱くなり、心地よさすら感じる。

「これは、なに?」

 そういえば、遥のそばに居たクラスメイトが倒れた。辛坂でも生徒が倒れた。

 ずきっと頭が痛んで玄関に寄りかかる。だが痛みは吐息をつくと共に解けるように消え、同時に心地よさだけが残った。

 その時、玄関の物音に気付いたのか、母親が声を上げて飛び出して来た。

「あんたどこへ行ってたのよ!」

「どこって、学校だよ」

「今日は午前で休校だったんでしょ! 今何時だと思ってるの? いったいこんな時間まで何してたのよ!」

 怒鳴る母親を見ていても、申し訳なさも恐ろしさも感じなかった。ただ目の前で声を荒げている人がいるという認識だけだ。

 ドクンっと胸が跳ねた。

 地面から生えた触手が目の前に現れる。それは母親に向かって伸びて行こうとしていた。即座に自分の腕を握り込んだ。

(ダメダメダメダメダメっ!)

 あれが母親に触れれば倒れてしまう。理屈はわからないが、そうなることは分かっていた。母親にだけは伸ばしたくないと、強い思いで何度も唱えると、触手は諦めるように、地面の中へ戻ってゆく。

「学校に連絡したら、もう帰ったっていうし、携帯も通じないし、どれだけ心配したと思ってるのよ」

「どれだけって、そのまま家に帰ってきただけだよ」

 抑え込むのに力がかかる。冷汗を流しながら、遥は母親に苦しそうな様子で告げた。

 だが母親はまだ言い足りないらしい。携帯を取り出して遥に見えるように、顔面に差し出した。

「学校に連絡入れたのは五時よ。今はもう七時半。学校から家に帰るのに二十分もかからないはずでしょ」

「七時半?」

 驚きに復唱していた。学校から寄り道もせず、直接ここへ帰ってきたはずだ。なぜそれだけの時間が経っているのか、美和自身にもわからなかった。

(あれ、寄り道、したっけ?)

 また頭痛がする。それと共によく行くショッピングセンターの通り道が脳裏に浮かんだ。人が倒れる。触手が伸びる。人が、倒れる。

「本当今日は救急車のサイレンが良く聞こえるし、学校じゃ生徒がたくさん倒れたとかなんとか連絡来るし、どれだけやきもきした事か」

 言われて気付けば、今もどこかで救急車のサイレンが聞こえている。

「顔色が悪いわね、とりあえず家に入りなさい」

 冷汗に青ざめた遥にようやく気付いたというように、母親が玄関に入るように促した。

「ヌイ?」

 そこに倒れているヌイに母親が気付くと、すぐさましゃがんで息を確認する。ぐったりとしてはいるが生きているようだ。わずかに目を開けて、クゥンと鳴いた。

「ちょっと、どうしたの」

「きっと大丈夫だよ。玄関で寝かせてあげれば?」

 病院にと母親は呟いたが、目の前の青白い顔をした遥の顔を見ると、優先順位を決めたらしい。ヌイの小屋から毛布を引っ張り出してくると、玄関に据え付けてその上にヌイを寝かしつけた。

「気分悪いんでしょ。座ってなさい」

 ぼんやりと玄関に立ったままの遥に、強く告げると母親は玄関のカギをかけようと、開いたままの扉を閉めにかかった。

「あら、自転車がないけど、どうしたの?」

 玄関の横に置いてあるはずの自転車がなかった。リビングに向かいかけていた遥は振り返り、首かしげた。

「学校、かな」

どうやって帰ってきたんだろうか。わからない。

 呟くと母親はおかしな目で遥を見たが、今は聞くべきでないと判断したらしく、それ以上何も言わずに、さっさと中に入るように促した。

 頭の芯がどこかぼんやりとして霞かかっている気がした。

 学校の帰り、自転車に乗っていたことは覚えている。それなのに、どこで自転車を降りたのか覚えていない。なぜ徒歩で帰ってきたのだろうか。

「遥、大丈夫なの?」

「うん、大丈夫、だと思う」

 視点の定まらない瞳で母親を見上げる。母親は手を出して遥の額に手を触れた。その瞬間、何か冷たいものを飲み下すような感覚が体を駆け抜け、さらに頭の中がくらくらと揺れた。

 ワン!

 突然聞こえたヌイの吠える声に、はっと遥は我に返った。目の前に触手が出ている。

「だめ、だめよダメ」

 ぶるっと体を震わせて、また呪文のように唱えた。母親は不審な目を向けたが、普通ではなさそうな娘の様子に、問いかけることはしなかった。

「熱はないみたいね。とりあえず、早くご飯食べて寝ちゃいなさい。あんたが帰ってきたってみんなに連絡入れなくちゃ。クラスメイトの子には遥から連絡入れてくれる?」

 母親は玄関を上がりながら、携帯を操作している。そこで遥は携帯がなくなっていることにようやく気付いた。

「携帯、落としたみたい」

「自転車に続いて携帯まで?」

 母親の驚きも当然だろう。

「あんた本当に大丈夫なの? 病院で見てもらったほうが良いんじゃない?」

「ちょっと疲れてるだけだよ」

 肩をすくめて玄関に上がり込むと、ヌイが小さくうなり声を上げた。振り返るとヌイは座ったままの姿勢で遥を見ている。目が合うとびくりと体を震わせて、目をそらせてしまう。

 遥は興味を失った犬から視線をそらせると、自分の部屋へと階段を上った。

「遥、ごはんは?」

「お腹いっぱい」

 母親の問い掛けにそっけない言葉を貸した。

昼も食べておらず、水も飲んでいないはずだったが、飢えも渇きも何もなかった。それどころか満足感すらある。これ以上何も食べたくなかった。

 落とした携帯も自転車もどうでもよかった。とにかく今は疲れた体を癒したい。大きな吐息を吐き出すと、代わりに眠気が吸い込まれたのか、瞼が突然重くて開けていられなくなった。

 遠くではまた救急車のサイレンが聞こえている。

 母親が水を持って部屋にあがってきたが、手を振るだけで布団の中に丸まると、あっという間に闇に吸い込まれるように、遥は意識を失った。


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