1 微妙な変化
「ああ疲れた」
病院から帰った時には十七時を回っていた。ベッドに座り込むと、そのまま大きな枕を体に引き寄せて倒れ込んだ。
「大丈夫だって言ってるのに、あれもこれ持って検査だもんな」
「病院って面白いな。機械ってのも面白いけど、やたらめったら死霊がうろついてやがんの」
斯鬼がうきうきとした表情で、床に当たり前のように座っていた。美和はまじまじと斯鬼を見て、眉根を寄せた。
「そういや、顔色良いね」
「まあ死霊もそれなりに食えるからな」
ぽんとお腹を押さえて見せる。病院で待っている間、うろついていた斯鬼が死霊を見つけては捕まえて、口から吸いこんでいたのを見た。見ている限りであれば、斯鬼の好みは若い女性らしい。
「それなのにまだ私についてくるんだ」
「そりゃお前が巫女だしな。高い霊力ってのもあるけど、巫女を食えば俺自体の力も上がるって寸法だ」
ベッドに近づいてくると、そのまま上半身を乗せて、ふわふわとするベッドの感触を楽しみ始めた。
「あきらめなよ。私は食べさせるつもりないから」
「俺は食うよ」
天井にはふわふわとした下級の物の怪が浮かんでいる。だがほとんどの物の怪は人に害をなさない。
「無理、諦めて」
「だって俺はお前に惚れたんだから」
にこりと笑う斯鬼に、うっとおしいなと美和はそっぽを向くように天井を見た。惚れたなどと言っているが、結局は霊力を狙っていることは斯鬼本人が公言しているようなものだ。
「お前たちにとっての惚れたって、食べると同義語なわけ?」
ため息と共についた言葉だったが、斯鬼は少し違うと告げた。そして寝転ぶ美和に近づくと手を伸ばして頬に爪をかけた。
「惚れたってことは、相手の全部を食べるってことさ」
美和の眼差しが冷たく斯鬼を見返す。
「惚れたくせに食べるとか、意味が分からないんだけど」
「じゃあお前は嫌いな人間の指を舐めれるか? 無理だろ?」
想像すると少し笑えてしまう。美和は笑みを浮かべると、近づいてくる斯鬼の体を押し避けようと、胸を押し返した。だが斯鬼はさらに近づいて覆いかぶさるように美和を見下ろした。
「それでいうなら気に入った人間だったら、別に私じゃなくても問題ないでしょ」
どかない斯鬼に不快さも露わににらみつける。それにもかかわらず斯鬼は真剣なまなざしを送ってきた。
「お前が良い。お前が食いたい」
「どうして?」
そこまで自分に固執する理由が分からず、美和が問いかけると、斯鬼は頬にあて指先に力を込めて頬を引っ張った。
「お前の全てがほしい。血も肉も骨も余すところなく全部、俺は食いたい」
霊力を食べる行為は、キスだったはずだ。教室でクラスメイト達が斯鬼の毒牙にかかっているのをこの目で見た。
美和は頬にあてられた指を一本握ると、確認するように問いかけた。
「それは、本当に私の体を食べるってこと? 比喩的な意味ではなく?」
「相手の全てを手に入れるなら、すべてを食うのは普通だろ」
「折るよ?」
物騒な話に、美和は掴んだ指先を逆方向に曲げながら、斯鬼の体を押し返した。斯鬼も痛みを感じるらしく、声を上げると慌てて美和から飛び退き、指を引き抜いた。
「まあそんな怖い顔すんなよ。どっちにしろ今の状態じゃお前の霊力のほうが強いから、俺なんかじゃ太刀打ちできねぇし」
美和は体を起こすと、ベッド際にいる斯鬼を蹴った。
「本当どっか行ってほしいんだけど」
「離れてたら、弱ってるお前食えないだろ」
「食わす気ないから、よそ当たってよ」
「まあそういうなって」
斯鬼がニコニコとしながら美和に近づいてくる。ベッドに置いた手に手を重ねて、体をこちらに向けた。
「何?」
「肉はともかく、ちょっとぐらい霊力貰っていいだろ」
言いながらベッドの上によじ登って来る。美和はぎょっとして足でけり落とそうとしたが、斯鬼はもう一方の手で抑え込むと、美和の上に体重をかけるように乗ってきた。
真正面に見る斯鬼の顔は、左右対称のきれいな顔立ちをしていると思った。何よりその鈍色の瞳は相手を包むように甘く、美和を見つめている。
霊力のある瞳だと美和は感じた。何の抵抗を持たない人間であれば、斯鬼の真摯に見える瞳に騙されて、甘い心地になるのかもしれない。だが美和は違う。いきなりのしかかるとは何事だと眉をひそめた。
「どいて」
「お前、キスの一つもしたことないんだろ。大丈夫食いやしねえからさ」
本来男に体の上にのしかかられると、体格的に抗うのは無理だ。だが相手は肉体を持たぬ霊体であり、この場合霊力が物を言う。
美和は囚われている腕に力を込めると、そのまま斯鬼の首根っこを力任せに掴んだ。力を込めると痛みに斯鬼が呻く。
「本当諦め悪いなあ。このまま首をねじ切ってほしいなら、襲ってもいいけど?」
斯鬼はパッと手を上げて、降参だとむせながら告げた。
「冗談だって。力じゃかなわねぇのわかってんだから」
「さっきからそればっかり。本当は他に理由があるとかじゃないの?」
かなわないと言いながら、何かにつけて霊力を食べようとする斯鬼に、美和は疑いの眼差しを投げかけた。すると斯鬼はベッドの腕に胡坐をかいて座ると、ばれたかと言って頭をかいた。
「正直取り戻したいものがあるんだけどさ、俺の力じゃ無理なんだよ。で、お前の力ならいけるかなーっておもって」
「そんなの隠さずに言えばいいことでしょう」
呆れたと声を上げると、斯鬼は腕を組んで口をへの字に曲げた。
「それだと取り戻したいもののために、お前を食いたいって言ってるようなものだろ。惚れてるって言葉を信じてはもらえねぇじゃねぇか」
「初めから信じてないけど」
じと目の美和に見つめられて、斯鬼は頭をかいた。
「それは悲しいな」
意外な言葉が帰って来て、美和は驚きに目を見開いていた。本気なのだろうかと斯鬼を見てしまう。だがすぐに美和の様子に気付いた斯鬼が、にんまりと勝ち誇った笑みを浮かべた。
「ちょっと信じた?」
「うるさい」
美和は枕を持って斯鬼の顔に投げつけたが、すり抜けられてしまう。物質に対しては干渉するしないを自分で決めることができるらしい。美和はベッドの下に落ちた枕に目を向けてから、斯鬼の肩に向かって拳で殴りつけた。
「いってぇ」
斯鬼が不満げな声と目を向けてきたが、構わずにそっぽを向いた。だがすぐに美和は思い出したように斯鬼を見た。
「じゃあ、その取り戻したいものっていうのを取り戻せば、私から離れるということ?」
「やっぱ惚れてるって話通じてないなあ」
冗談めいた言葉に、美和は苛立ちながら斯鬼の襟をつかんでもう一度問いかけた。
「取り戻せば、私から離れる?」
斯鬼はしばらく美和の瞳を見つめてから、仕方がないと両手を上げてうなづいた。
「まあ、離れてもいいかな」
「それ、どこにあるかわかってるの?」
美和の言葉に斯鬼は少し驚いたようだった。
「手伝おうって言ってんのか?」
「お前から離れられるなら、協力するよ。こんなだらだらと一緒にいる生活なんて続けてられないしね」
斯鬼は意外そうに美和を見つめ、そしてにやっと笑って口を開いた。
「俺のこと斯鬼って名前で呼んでくれても――」
ピルルルルッ
その時、枕元に投げ出されてた携帯が鳴った。美和が手を伸ばして携帯の画面を見たとき、驚きに体を起こしてすぐさま電話に出た。
「えっ? まだ帰ってないんですか?」
表示されていたのは、遥の自宅の電話番号だ。相手は遥の母親。なんでも遥がまだ家に帰ってきていないという。
時計はすでに十八時を指している。陽の長い季節だ。周囲は明るく、まだ心配するような時間ではない。だが学校は午前中に休校となり、病院に運ばれなかった遥は即座に家に帰されているはずだった。
病院からの帰る道中、遥の携帯に一度連絡を入れたが、連絡は取れずじまいだった。アプリの方でも既読はついておらず、遥が携帯を見ていないことは明らかだ。
さらに遥の母親も何度電話しても、呼び出し音が鳴るばかりだと心配そうに告げた。
美和は心当たりをあたってみますと告げて電話を切ると、すぐさま自転車にまたがった。
「どこ行くんだよ」
斯鬼が突然出て行った美和を追いかけるために、二階の部屋の窓から飛び出して来て、そのままこぎ始めた美和の荷台に飛び乗ってきた。
「学校」
遥は連絡をもらえば、必ず自分の言葉が最後に終わるようにせねば気が済まない性質だ。その遥からの返信がまだ戻っていない。もっと早くおかしいと気付けばよかったと、美和は眉を寄せながら告げた。
「学校? あーあそこには近づかねぇほうが良いと思うけどなぁ」
「ついてこなくていいよ」
そっけなく告げると、斯鬼は荷台に立ったまま美和の首に手を回した。
「意外に首細いのな」
「引きちぎるよ」
触れた感想を述べた途端、美和は首に回されている斯鬼の腕を握った。ひんやりとした斯鬼の手の平が、慌てたように離される。
「女にゃ褒め言葉じゃねぇのかよ」
慌てて首から肩の上へ載せ替えると、斯鬼は大きくため息をついた。
「なあ、行くなよ」
「どうして?」
学校へ向かう道にはどうしても登り坂下り坂、そしてもう一度登り坂を上らねばならなかった。美和は前のめりな姿勢で立ちこぎしながら問いかけた。
「どうしてって、お前だってあのよくない雰囲気を感じてんじゃねぇの?」
「よくない雰囲気? 別に感じなかったよ」
「まじか」
「だって、あの時のあんたって霊力ほとんどなかったんじゃないの? ぼんやりとしてただそこにいるだけって雰囲気だったけど」
斯鬼はうなった。
「確かに目を覚ましたばっかりだったもんなあ。それでもなんつーか、こう重たいような暗い雰囲気ってのがあっただろ?」
「確かにあんたが霊力を奪ってからは、少し空気が変わったわ。だからと言って警戒するほと強いものではなかったと思うんだけど」
斯鬼の足元から生えて来た触手がクラスメイトに絡みついて霊力を奪う。あの光景を見たとき、背筋がぞっと泡立った。だがそれは奇妙なうごめく触手のためであったと感じていた。
「……触手」
口から霊力を摂取するとつい先ほど、斯鬼が自分で告げていた。なら、あの触手は何だったのだろう。
疑問を口に仕掛けたとき、坂を上っていた美和は強い違和感にブレーキをかけた。
「どうかしたのか?」
「あれ?」
幹線道路に面した歩道は車が通る度に、風が吹き抜けてゆく。それは排気臭くて爽やかとは言えないものだったが、それでも美和は爽やかだと感じた。
「違う」
車どおりが多いこの幹線道路には信号が少なく、向う側へ渡るためにはかなり遠回りをしなければならなかった。そのためもあって無理に向うへ渡ろうとする歩行者が後を絶たず、その上坂道ということもあり、事故が後を絶たなかった。
今では中央分離帯にガードレールが設置され、簡単に通り抜けられなくなっている。だがそれでも、歩行者が横断中にひかれたり、自転車が巻き込まれたりと、事故が多かった。
「ここに女の人の霊がずっといたんだけど」
呟きもう一度周りをよく見る。美和の居る歩道には等間隔で楓の木が植わっており、太もも背丈のシャリンバイが、道路との境界を作る垣根となっている。よく見れば垣根と垣根の隙間に、誰かが弔いの花を、お供えのお菓子を置いた跡がある。
ここは半年前に、若い女性がトラックに轢かれて死んだ場所だ。
「ここにゃなんにもいないぞ?」
学校に通う際、何度もあの女性を目にした。
聞いた話では道路の向かいにあるバスの停留所に来る、幼稚園バスの迎えに行く途中だったらしい。迎えの時間に遅れた女性は急いで道路を渡ろうとして、事故にあったのだということだ。
「すごくはっきりと見えてたんだけど」
犬猫であれば事故で死んだとしても数日で消え失せるが、人間は未練や理解できないが雨に、何年とその場にとどまる。よほどのことがない限り、霊力が尽きるまでその場にとどまり続け、最後は蝋が溶けて消えるように霊体も小さくなって消え失せる。
今朝学校に来るときは居た。それが突然消え失せていた。
「なんだか気持ち悪いな」
普段とは違う光景に眉を寄せる。斯鬼は周囲をぐるりと見回してから、なるほどと呟いた。
「何にもいなさすぎるってことだろ」
「何も?」
「周り見てみろよ。すごい爽やかだろ。木の精霊どころか羽虫一匹いやしやがらねえ」
その通りだった。車の走り抜ける音に気を取られて気付かなかったが、普段なら聞こえる生き物たちのわずかな声が聞こえてこない。
「どうなってるの」
いぶかしむ美和の言葉に、斯鬼は疲れたように息を吐き出した。
「そりゃ、根こそぎ食われたんだろ」