2 操りの糸
「美和。心配だから来ちゃったよ」
教室に現れたのは遥だった。言うことをきかなくてごめんねと一言つけて、教室の中をのぞき込んだ。
美和はちょうど窓のそばにおり、遥は先生たちが生徒たちを介抱しているのを横目に教室の中へと入った。
「高野、ここへきてはいけないと言われただろう」
「でも戸隠さんがまだ来てなくて」
「ああ、そうだな。戸隠と一緒に早く行動へ行け」
岡部は少しばかり不安に満ちた目を美和に向けてから、遥に頼んだ。遥は頷くと美和へ近づいた。
「なんのこと?」
美和は誰かと話をするように問う。何をしているのだろうと声をかけようとしたとき、突然美和の体が窓の外へと放り出された。
「美和っ!」
遥は両手を口に当てて、悲鳴のような声を上げると、そのままへなへなと座り込んでしまった。
ここは二階だ。落ちればただで済むはずがない。
「美和、美和美和っ」
すぐにでも窓辺に縋り付きたかった。だが足が震えて立つことができない。
教室内にいた先生たちが落ちたことに気付いたらしく、慌てたように窓辺に走り寄って行くのが見えた。
足だけではなく体も震えて涙が勝手に出て来る。胸が苦しくて遥は両手で抑え込むと、その場にうずくまった。
「落ちた!」
「早く降りろ!」
先生たちの声が遠くの方で聞こえる。
ここは二階だ。生きているはずだ。美和が死ぬはずがない。必死に呼吸を整えて自分に言い聞かせる。吐き気がする。遥は床に両手をついて、落ち着こうと何度も何度も深呼吸を繰り返した。
だが過呼吸になっているのか、何度息を吸っても吸えている気がせず、目の前が白くなっていく。体を支えている腕にも力が入らず、遥はそのまま床に体を横たえる。
決してきれいとは言えない学校の床に頬を付けて、涙がこぼれそうになる。
美和が落ちた。窓の向こうでは先生たちが騒がしく声を上げている。一体どうなったのだろう。けれど聞くのが怖くて動けなかった。
突然足が何かに強くつかまれた。ざらざらとした肌触りに背中が悪寒に泡立ってゆく。
「なに?」
体を震わせ足元へ目を向ける。何も見えない。だが体が重くどんどん動けなくなっていく。動きたくないのではなく、まるでロープで縛りあげられるように、体の自由が奪われて行く感じだ。
腕には何かが巻き付いているのか、強く締め上げられる感覚がする。足元からは何かが体の奥へ奥へと押し入って来る。わずかに動く目を向けても何もない。けれど何かが確かに体にまとわりつき、中へと入ってきている。
「わ、美和……たすけ、て」
呪文のように何度も唱える。同時に美和が窓から落ちていくシーンが、これでもかとばかりに瞼の裏に再生された。
「あ、あ……」
何かの匂いがする。どこかで嗅いだ懐かしいような匂い。
そう感じた直後、意識が下へと引っ張り込まれ、瞳を開けていることもかなわずに、体から力を失った。
目を覚ましたのはそれから、たった数十秒後のことだった。
遥はパッチリと目を開けると体を起こして自分の体を見回した。手のひらを見つめて、ぎこちなく指先を動かしてみる。動く。ゆっくりと机を杖にして立ち上げると、一度は力が入らずに転びそうになったが、すぐに背筋を伸ばして立ち上がった。
「行かなきゃ」
今までの息苦しさ、美和が落下したことに対する不安はすべて消え去っていた。
救急隊員が教室内に駆け込んでくるのが見えた。目を覚ましている遥を一瞥したが、優先順位が低いのだろう。倒れている生徒たちのそばへと走り寄った。
遥はそれを横目に立ち上がると、何事もなかったように教室から出た。そこで英語の担当の林先生と顔を見合わせた。
「高野、お前講堂に行ってなかったのか」
「今から、向かいます」
無表情な面を向けると、忙しいのか林先生はそれ以上何も言わず、野次馬になっている生徒たちに向かって、教室に戻るようにと声を張り上げ始めた。
「遥。何があったの?」
隣のクラスの河合が、いい情報源を見つけたとばかりに遥の肩を掴んで止めた。
「倒れた人が、いるだけだよ」
淡々とした遥の口調に河合は少し首を傾げた。いつもと雰囲気が違うと、眉根を寄せて大丈夫かと問いかけた。
「あんたも気分悪いの?」
「大丈夫。すぐよくなるから」
遥は無表情な面の口角を少し引き上げて答えた。ますます河合は不審そうに口を尖らせた。
「でもなんか気分悪そう――」
言いかけた時、突然河合は白目をむいた。体から力は抜けて遥の方へ向かって倒れて来る。だが遥は受け止めずに一歩横へよけた。
そばに居た生徒の背中に当たると、河合はそのまま床に倒れたのだった
「きゃーっ」
怯えた声が廊下に響き渡る。先生たちが驚いて駆け寄って来るのが見えた。遥は倒れている河合を一瞥すると、そのまま先へ進んで歩き出した。
生徒たちが混乱の声を上げる中、遥は細く長い吐息を吐き出した。開けられた窓からは冷たい風が吹き込んでくる。爽やかで心地の良い香りが運ばれてくる。
遥はその心地の良い香りに誘われるように階段を降り、正面玄関へと降りた。そして鞄も上靴から履き替えることもなく、玄関から外へと出た。
何台もの救急車が留まっており、赤いライトが眩しいほどくるくると回り、多くの人が出入りしている。さらには校庭の先で行われている工事のために、重機の断続的な音、そしてガソリンの鼻を突く匂い。不快なこと極まりない。
「本当に大丈夫です。何も怪我もありませんから」
聞きなれた声に自然と顔がそちらへ向いた。そこには担架に乗せられた美和の姿があった。二階から落ちたというのに、大きな怪我もなかったらしい。救急隊員は検査が必要だと言って、担架から起き上がってはいけないと困ったように告げているところだった。
「……美和」
知らず口元から言葉が漏れた。
「遥!」
美和が遥の姿を見つけ、パッと顔を明るくした。だがすぐに体を担架に抑えつけられた。
「動かないで。頭を打っているかもしれないんですよ!」
「すみません、少しだけ待ってください。友人と一言話をさせてください」
美和は救急隊員の男性の目を見つめ、懇願するように告げると仕方がないといったように美和の体を押さえている手を放した。
「遥! 遥こっちに来て」
「美和……」
体が強張る。まるで手足が固められでもしたかのように、自由に動かない。
「遥。こっちに来るの」
少しばかり強い言葉に、遥の体がわずかに跳ねて、足が前へと出た。
美和に近づきたい、近づきたくない。相反する思いが胸の中に渦巻き、体が強張る。だが美和の瞳、声に引きずられるようにして、遥は担架で上半身を起こしている美和の前に立った。
美和は優しく微笑むと、遥の腕をとってこちらにひきつけた。途端、体の中から何かが引き抜かれたような、奇妙な感覚に体を震わせた。
「な、にっ」
「怖かったよね」
美和が遥の体に手を滑らせると、先ほどまでの体の強張った感覚、頭の奥で見つめていた視界が急に広がり、深く息をついた。
「遥、もう大丈夫だから。人の少ない場所に行かないようにして。わかった?」
「あたし、どうなってたの」
体が自分の物であって、自分の物でなくなったような感覚に、遥は胸を押さえた。美和は遥の頬を優しく包むと、安心させるように笑いかけた。
「もう大丈夫。私は病院に行かなくちゃいけなくなっちゃったけど、またすぐ連絡するから、待っててくれる?」
「うん、もちろん待つよ! あのでも、落ちたの、大丈夫なの?」
すがるように見つめ返すと、美和は深く頷いてから笑って見せた。
「私が運いいの知ってるよね? 今回も植え込みに落ちたから何の怪我もないよ」
「そっか」
ホッとして胸をなでおろすと、救急隊員は行くよと声をかけた。美和が頷くと、そのまま担架に横になり、救急車へと運ばれて行ってしまった。
残された遥は胸を押さえて、遠ざかる美和をじっと見つめていた。
(巫女……)
「あ、れ?」
頭の中に考えてもない言葉が浮かび、遥は首を傾げた。だがすぐに気のせいだろうと考えると、玄関へと戻った。
「にしても、あたしなんで、外に出ちゃってんだろ」