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夏影

作者: 逢坂

 木漏れ日が揺れ、涼やかな風が体を冷ましてゆく。日差しがテニスコートの土を焦がす匂いに、甘い香りが混ざる。遠い蝉の声に紛れて、愛しい声が俺の名前を呼んだ。


◇ ◇ ◇


「草太【そうた】、寝てるの?」

「ああ、寝てる」


馬鹿、とベンチを一蹴り。


「お姉ちゃんたち、結婚するんだって。さっきメール来た」

「へぇ、そう」

「そう、って。もうちょっと何か言うことないわけ、あんた」


 薄く目を開け、様子を窺う。響【ひびき】は腰に手を当て、呆れ顔でこちらを見下ろしていた。


「お姉ちゃんのこと、好きだったんでしょ? 寂しい失恋ね」


 芝居がかった仕草で、憐れむように首を左右に振る響。黒いポニーテールがふさふさと揺れていた。


「幼稚園児の戯言を、いつまでも笑いものにしてくれるなよ」


 溜め息まじりに苦笑してみせる。響の家と我が家は近所で、俺たちは生まれたばかりの時からの幼なじみだ。小さい頃の俺は、響の姉の奏【かなで】さんによく懐いていた。ありがちな話だが、「大きくなったら奏ちゃんと結婚する」なんて言ったこともあったらしい。でも、そんなのは遠い昔の話だ。今の俺は、ちゃんと思春期の高校生らしく、月並みな相手に恋をしている。それが健全な恋情かどうかは、脇に置くとして。


「お前の方こそ、兄貴が振り向いてくれなくて残念だったな」

「んなっ」


 素っ頓狂な声をあげると、響は刺すようにこちらを睨め付けてから、どかっと勢い良く、俺の枕元に腰を下ろした。


「馬鹿にしないでよね。こっちは真剣だったんだから」


 奏さんの結婚相手は、俺の兄の幹也【みきや】だ。我が兄ながら出来た男で、ソフトテニスでインカレに出場するレベルの運動神経と、旧帝大を大過なく卒業する頭脳を併せ持ち、この春地元の地銀に就職を果たした。おまけにジェントルで、容姿も悪くない。幹也と話をする時、響の頬はいつもほんのり紅色に染まっていた。響は生まれつき、いわゆる林檎ちゃんだった。怒ったり恥ずかしがったりすると、すぐ顔が赤くなる。彼女は、色づいた自分の顔を俺に見られることを嫌っていた。俺も、彼女の薄紅色の頬を見るのは好きじゃなかった。


「知ってるよ。真剣だったのは」


 再び目を瞑り、呟く。思いの外穏やかな声だった。響は何も答えない。蝉の音が大きくなった。

 それから暫くの間、俺たちは二人して黙りこくっていた。響が何を考えていたのかはわからない。俺は、極力何も考えないようにしていた。

 やがて響は立ち上がり、妙に真剣な声で言った。


「草太、打とう。ラリーしよ」

「お前スカートだろう」

「下にショーパン履いてる。ね、いいでしょ。昼休み終わるまで」


俺の返事を待たず、響は部室の方へ歩いて行った。体を起こすと、仄かに目眩がした。


/


 どれくらいの時間を、草太と二人、こうしてテニスコートで過ごしてきただろうか。初めて幹也さんからテニスを教えてもらったのは、小学六年のこと。中学からはずっと同じソフトテニス部で。高校に上がってからは、毎日コートにふたりぼっちだ。


「いきなりシュートで来て」


 私の球出しに合わせて、ゆらりとテイクバックする草太。軸足を素早く定め、脱力したスイング。水切りみたいな軌道で飛んできたボールを、私は目一杯引っぱたいて返す。

 今の寂れた高校を選んだのは、ここが幹也さんと姉の母校だったからだ。インターハイで活躍する幹也さんと、マネージャーとして彼を支える姉の姿は、私の憧れだった。

 けれど、かつては強豪校だったこの学校も、今では過疎化のあおりをうけて弱小校と化している。何しろ部員がいない。三年間通して、私たち二人以外は誰も入部しなかったのだ。ソフトテニスは基本的にペアスポーツだから、男子一人女子一人では公式戦に出ることすらできない。時々、草太と組んで練習試合に参加することはあったけれど、それだけだ。幹也さんみたいにインターハイ出場なんて、夢のまた夢。そのチャンスすら得られなかった。


「もっと思いっきりしていいよ」


 ダラダラと続くラリーが物足りなくて、私はわざと強気なことを言った。さっきより少し鋭いボールが返ってくる。スカートが邪魔だった。

 草太はどう思っているのだろうかと、時々考えることがある。正直言って、私はそんなにテニスの才能がある方じゃない。もし他の高校に進学して、ちゃんとした部活に入っていたとしても、大した結果は出せなかったろう。だけど、草太は違う。彼はちゃんと立派に幹也さんの弟だった。高校だって、本当はもっと良いところからスポーツ推薦の話が来ていたのだ。だけど草太は、今ここにいる。彼がその気になれば、私のラケットなんて弾き飛ばせるはずなんだ。なのに、いつも私に合わせて、ゆったりしたラリーを、三年間、ずっと二人で。飽きもせず、毎日毎日。


「ねぇ、もっと本気で」


 言った瞬間、凄まじい豪速球がネットを打った。私には一瞬、ボールの軌道が見えなかった。蝉が鳴いてるはずなのに、コートは酷く静かだった。草太の靴が砂を噛む乾いた音ばかりが大きい。面倒くさそうにボールを拾い上げた彼は、「もうやめよう」と無表情で呟いた。

 最後の夏、私たちはいつまで、こうして二人でいるつもりなのだろう。明確な引退試合もないのに、私たちは、ちゃんと自分たちの終わりを選べるんだろうか。

 唇を噛む。キャミソールが汗に濡れて不快だった。


/


「おめでとさん」


 ポロシャツ姿の幹也はぽかんとして、しばらく俺の顔を見つめていた。食卓についているのは俺たち二人だけ。父はまだ仕事から帰っていない。母は台所で洗い物だ。


「ん、ああ、結婚のことか? 響ちゃんから聞いたんだな?」


 俺は何も答えず冷やし中華をすすっていた。幹也も暫くの間は、何事もなかったかのように食事を進めていた。


「寂しいか?」


 問われたのは、食後のデザートとしてカップアイスの蓋を開いた瞬間だった。幹也は缶ビール片手に、覗き込むような目でこちらを見つめていた。


「響と同じことを訊くんだな」

「響ちゃんが? 同じことを?」


 首を傾げる幹也に、俺は肩をすくめて見せた。どいつもこいつもなんなんだ。兄貴たちはお似合いの美男美女で、子供の頃から両思いで、お互い社会人になったから晴れてゴールインしたんだ。おめでたいことだ。ドラマみたいに素敵だ。それで良いじゃないか。


「そりゃお前、気持ちが知りたいから訊くんだよ、お前の」


 やけに静かに幹也は言った。俺は目を合わせているのがつらくて、アイスに集中するフリをした。


「貯金もまだ少ないし、式は、近々身内だけ集めてちっちゃくやるから」


 ビールを一気にあおり、席を立つ幹也。


「薫【かおる】さんはどうするの?」


 訊ねた俺を振り返り、幹也は不思議そうに目を丸くする。


「来るの?」

「そりゃあ、呼べば来るだろ」

「呼ぶの?」

「当たり前だろ」

「でも、さっき」


 そこまで話して、俺は口を噤んだ。不純な質問だ。思春期って醜い。自嘲して黙りこくる俺に、幹也は真意の読めない万能な微笑を向けた。


/


 その日の部活始め、唐突に、私たちの引退試合が決定した。この夏初開催のミックスダブルス地方大会だ。公式戦に出られない過疎高校を対象に、男女のペアで出場登録できるようにした大会だった。周辺四県から出場者を募るから、それなりの規模になるそうで。ただし、優勝してもその先はない。東日本大会とか、全国大会とか、より大きな舞台が次にあるわけではないのだ。勝っても負けても、その日限りで私たちは引退する。


「ありがとうございます」


 試合を見つけてきてくれた薫さんに、私は頭を下げた。それは、礼儀とか建前とかじゃない、心の底からの感謝だった。

 隣に立つ草太は無言だった。薫さんも、ベンチで足を組み、黙って草太のことを見つめていた。やがて同時に、二人は頷く。男同士にしかわからない、複雑なやり取りが行われていたらしかった。

 薫さんは、姉と幹也さんの、高校時代からの親友だった。大学卒業までずっと同じ部活で、後衛として幹也さんとペアを組み続けてきた実力者だ。二人だけで雪山に登って死にかけたり、殴り合いの喧嘩をしたこともあるらしい。この春からは教師として私たちの学校に赴任し、ソフトテニス部の顧問兼監督を担当してくれている。

 草太と薫さんは、昔から妙に仲が良かった。いつも小綺麗で女性受けするルックスの薫さんと、一切合切無頓着な草太では、見た目からしてそりが合わなそうだけれど。どうも内面は似た者同士らしい。好きな女性の趣味とか、色々、共感するところがあるのだろう。


「こうやってラリーするのも、あと十日ちょっとってわけね」


 仕事の残る薫さんが一旦職員室に戻り、コートには草太と二人だけ。気合い十分に打ち込む私のボールを、彼は容易く、のらくらと返球していた。


「ボレー、出るよ」


 ロブを打ち上げ、ネット際まで駆ける。トップ打ちをコントロールし、きっちり私の顔面へシュートを打つ草太。小指を握り込み、力負けしないように懸命にボレーを返した。二球、三球、四球と、機械みたいに同じ所へボールが飛んでくる。私はただひたすら、一番綺麗なフォームで、足を踏み出し、腕を固め、基本動作を繰り返すだけで良かった。

 幹也さんのボレー練習を初めて見た時の衝撃を、私は今でも憶えている。薫さんがどれだけ強烈なシュートをぶつけても、幹也さんは全部、綺麗に同じ軌道でボレーを返していた。端から見ると、まるで薫さんが一人で壁打ちでもしているように映ったものだった。


「草太はさ、どうして」


 問おうとした私の隙をついて、草太はきゅっと脇を締める。反射的に足を右に踏み出し、腕を横いっぱいに伸ばしたけれど、草太の打ったボールは、とっくの昔に私の横を通り過ぎていた。その精密なショートクロスショットは、ボレー練習をそろそろ終わりにしたい時に繰り出す、草太の得意技だった。コンパクトなスイングで、ネット際の横いっぱいに、外へ逃げていくボールを打つのだ。ちょっとでもコントロールが悪いと私のボレーが届くし、回転が未熟だとネットに引っかかる。軽々打っているように見えて、相当な職人技だった。


「油断したな」


 してやったりと笑う草太。彼はいつも、決して力技で勝敗を付けようとはしなかった。からかうような小賢しい技ばかり使って、私を怒らせる。ずっとそういう関係だったのだ、二人は。


「ぐ、う、ぜ、ん、よっ!」


 ポケットから新しいボールを取り出し、草太の足下目がけて打ち付ける。すっとバックステップして、ラケットの角度を器用に調節する草太。飛んで来た絶好のチャンスボールを、私は渾身のスマッシュで叩き返した。


「あんたは! いっつも! そうやってぇ!」


 何度打っても、何度打っても、全部綺麗に受け流される。草太は無言で、しかしどこか楽しそうに、私の打球とじゃれあっていた。必死にラケットを振り回しながら、今更だって、思った。これまでずっと、気付かないふりをして、先送りにしてきた問題だ。とっくの昔に手遅れだった。


「アウト」


 口を斜めにして、草太が呟く。力んだ私のスマッシュは、サイドラインをはみ出してコートのフェンスにぶつかった。


/


 幹也と奏が結婚すると聞いた時、何よりまず、草太と響のことを考えた。そんな自分に後から気付いて、すっかり醒めてしまった恋を懐かしく感じた。奏に横恋慕していた日々も、今となっては遠い思い出だった。

 けじめを付ける機会を与えてやらなければならない。そういうつもりで探し始めて、行き着いた先がミックスダブルスの試合なのだから、世の中皮肉なものだ。


「もう一本お願いします!」


 溌剌とした声が、夜の体育館を震わせる。ラストな、と断って、ふわりとチャンスボールをあげてやった。小気味よい打撃音とともに、響のスマッシュが綺麗にコーナーを叩いた。

 引退試合が決まった日から、こうして毎晩、彼女の特訓に付き合っている。バスケ部やバレー部が帰った後、体育館にインドア用のネットを出して。


「響、上手になったのね」


 しみじみ呟くのは、練習を手伝いに来てくれている奏だ。いくら部活のためとはいえ、若い教師と親しい女生徒が夜間二人っきりでは風当たりが強い。迎えの運転手も兼ね、無理を言って参加してもらっている。挙式前で忙しいだろうに、大学時代のジャージを引っ張り出したりして、楽しそうにしてくれているのは幸いだった。


「部員が少ない分、一人当たりの練習量が多いからね。本当、悔やまれるよ」


 もし、あと一人でもいいから女子部員が入ってくれれば、響はテニスプレイヤーとしてさぞ充実した青春が送れたことだろう。県大会、地方大会も夢じゃなかったはず。

 叶わなかったのは、結局、本人たちがそれを望まなかったからだ。響も草太も、素直じゃない所はあるとはいえ、決して性格の悪い子たちではない。いくら過疎地区の学校とて、彼女たちが心底困っていると訴えれば、力を貸してくれる友人の一人や二人はいたに違いない。


「まだまだ、全然、ダメです」


 ボール拾いを終えた響が、噛みしめるように言った。彼女がこんなに懸命なのは、草太の足を引っ張るまいと焦っているからだ。多分、彼女はずっと、そういう懸念に苛まれ続けて来たのだろう。教師としても、親しい知人としても、思う所は色々ある。それでも今は、黙って見守ってやるしかない。すべて本人たちが選んだことだ。模範解答なんて、誰にもわからない。

 奏は目を細め、少しもの言いたげな表情を浮かべていた。気付いているのかいないのか、明後日の方向を向き、クールダウンのストレッチをこなす響。

 詮無い恋心を胸に秘め、決定的な一言を隠し続ける日々には、倒錯的な快感がある。かつての自分はきっと、例え誰に何を言われたとしても、幹也たちと一緒にいることを望み続けただろう。それがどんなに正しく、優しく、建設的な助言だったとしてもだ。そしてだからこそ、今、強く思う。そんな不健全な関係は、早めに卒業するに越したことはない、と。

 

/


 大会前日の土曜は酷い雨だった。薫さんの判断で、最後の練習日は休みになった。幹也に声をかけられたのは、仕方なく二度寝でもしようかと自室で横になった時のことだった。車で二時間も運ばれた先にあったのは、彼らの母校にあたる大学の体育館だった。一面だけある室内コートに俺を引っ張っていった幹也は、その人望とOB権限を駆使し、一時間分のコート使用権をもぎ取って見せた。


「まあ、一日全く打たずにいるよりは、多少マシさ」


 シューズの紐を結びながら笑う幹也に、俺は眉をひそめた。


「どうせなら、響も誘ってやれば良かったのに」

「たまには野郎二人も悪くはないだろ」


 本気で来いよ、と呟く顔からは、すでに笑顔が消えていた。

 セオリー通り緩いロブを打ち合ったあと、自然とシュート合戦に移行した。幹也の打つ球は引退した身とは思えぬ程に重く鋭く、何度も振り遅れそうになった。一時間経つ頃には、体力も集中力もすっからかんだった。帰り道、疲れ果てた俺は、ろくに回らない頭で、思いつくまま問うた。

 

「兄貴、いつから奏さんのこと好きだった?」

「さあて、どうだったかな」


 運転席の幹也は驚いた風もなく、おどけて返してきた。

 

「俺、好きだったよ、奏さんのこと」

「知ってる。奏も、お前のことが好きだった」

「嘘つけ」


 思わず吹き出した俺をちらりと一瞬だけ見遣り、苦く笑う幹也。


「あいつ、子供の頃から母性本能の塊みたいなやつだったから。お前のこと、可愛い可愛いってさ。おかげで俺は、奏を振り向かせるために、勉強やらスポーツやら、必死だった」

「知らなかった、そんなの」

「言えないさ、誰にもそんなこと」


 じゃあ何で、今更になってバラしてしまうのか。浮かんだ疑問の答えには、自分ですぐに気がついた。


「身勝手だと思うか?」


 見透かしたような薄い笑みで、幹也は問う。別に、と俺は答えた。全てを知ったうえで、それでも選んだだけだ。奏さんの気持ちも、薫さんの気持ちも、響の気持ちも、俺の気持ちも。全部背負い込んで、それでもちゃんと、幹也は自分の一番欲しいものを間違わなかった。簡単なことじゃない。どこまでも、よくできた兄だった。


「明日優勝したら、一発殴っていいぞ、俺のこと」

「いいって、別に」


 カーステレオからは懐かしい男性デュオの声がした。窓の向こう、夏草が流れてゆく。


/


 前日の雨が嘘みたいな快晴の下、私たちは怒涛の勢いで勝ち進んだ。私はほとんど立っているだけで良かった。どこの学校の前衛も、草太の鬼のようなパッシングを止めることができなかったからだ。まともなラリーすら成立していなかった。怯えた目で足を震わせる対戦相手に同情しながら、私は、草太のヤツやっぱりずっと手加減してたんだって確信して、むしゃくしゃしていた。腹立ち紛れに打ち込んだサーブは、フォルト以外全部エースだった。


「凄いじゃない草太君」


 昼休憩の時間、クラブハウスでは、奏と幹也さんがお弁当を広げて待っていてくれた。


「いっぱい食べて、午後も頑張るんだよ」


 にっこり笑って、草太の口に手料理を詰め込んでいく奏。草太は困ったように眉を寄せながらも、黙って全部食べ切っていた。普通、試合前に食べ過ぎると動きが鈍るものだけれど、奏はずっと、たくさん食べた方が力が出るものと勘違いしている。幹也さんと薫さんが、彼女を失望させないように見栄を張ってきたからだ。


「ここまでは順調だね」


 水筒の麦茶をカップに注ぎながら、幹也さんが静かに言う。私は背筋を伸ばし、慎重に頷いた。


「ベストエイトくらいからは、草太のあの頭悪いアタックも通用しなくなるだろう。響ちゃんが、しっかり点をとってあげて」

「はい」


 穏やかに微笑む幹也さんを見つめていると、段々頬が熱くなってきた。物心ついた頃から、いつかこの人が自分の兄になるんだって思っていた。憧れを恋と勘違いしていた時期も、あったりしたけれど。心の底では多分ずっと、彼は奏と添い遂げる人なんだとわかっていた。

 確信めいた予感は、もうじき現実のものとなる。何も変わらないはずだった。もともと、妹みたいに可愛がってもらっていたんだから。でもそうじゃなかった。幹也さんが本当の兄になるってことは、私にとって、凄く決定的な変化だった。幹也さんと向き合うと、嫌でもそのことを強く意識してしまって、困る。


「午後の部のコート割りが出たよ」


 運営本部から帰ってきた薫さんが、プリントをぴらぴらさせながらテーブルにつく。座った場所は草太の斜向い。幹也さんと二人で、奏を挟む形になった。


「ブロック的に決勝まで当たらない相手だけど、一組凄いのが紛れ込んでるね。気付いてた?」


 午後まで勝ち残ったペアの一覧を眺めながら、薫さんは問う。他所のコートの試合に全然注意を払ってなかった私は、心当たりがなくて隣の席を窺った。口の中に詰まった林檎をゆっくり飲み込んでから、草太が頷く。


「藤堂が出てますね」

「げ、まじで?」


 びっくりしてリストを覗き込む。確かに藤堂君の名前があった。藤堂君は、中学時代草太の前衛を努めていた子だ。寺の息子だって言われても信じてしまうくらい潔い坊主頭をしていて、とても寡黙な性格だった。スポーツ推薦で地元の高校に進学した後、親の都合で隣の県に転校したと聞いていた。


「草太あんたね、気付いてたなら声かけなさいよ。藤堂君も、挨拶くらいしに来てくれれば良いのに」

「気恥ずかしいんだよ、お互い」


 妙に悟った顔をして、草太は呟いた。なんだかよくわからないけれど、簡単に優勝できそうにないことだけは明らかだった。


/


 決勝戦までは、何の波乱もない展開だった。そもそも大会の趣旨自体が、まともに部活動を行えない過疎高校の部員に、思い出作りをさせてやることにあったのだ。他の学校の子達には気の毒だけれど、草太達は、四人だけ次元の違うテニスをしていた。

 藤堂君のプレーは、草太が中学生の頃何度か見たことがあった。落ち着きと安定のある動きで相手を威圧する、良い前衛だった。高校生になり体が大きくなったことで、プレーのスケールが増したらしく、準決勝までの試合では、完全に相手を圧倒していた。

 ペアの後衛は、スポーツ選手らしからぬ、淑やかな雰囲気の女の子だった。名前は姫野さんと言うらしい。短く切りそろえた髪をなびかせ、コートの至る所をするすると走る。シュートはあまり速さも角度もないが、ロブを深めにコントロールする精度が抜群だった。彼女が相手のショットを受け流し、隙あらば藤堂君が仕留める。攻守のバランスがよく取れていた。

 対するこちらのペアは、後衛がラリーで相手を押し込み、チャンスボールを前衛がはたき落とすというオーソドックスなスタイルだった。草太のシュートは、全国レベルで考えればそう速い方ではない。ただ角度が飛び切り鋭かった。響は前衛にしては小柄だったけれど、運動量で体格の不利を上手くカバーしていた。

 個々の実力的には拮抗しているはずだった。しかし蓋を開けてみれば、試合は終始相手有利に進んだ。


「ああ、もう。何でこんなに押されちゃうのかしら」


 堪り兼ねたように奏がベンチから立ちあがったのは、3ゲーム目のアドバンテージを相手にとられた時のことだった。ゲームカウントは0−2。決勝は7ゲームマッチだから、このゲームを落とすと早くも崖っぷちになる。


「そんな決定的に力負けしてるとは、思わないんだけどなぁ」

「前衛の差は、少し大きい」


 首を傾げる奏の横で、幹也が説明する。中学までは後衛勝負、高校以降は前衛勝負、というのがソフトテニス界の定説だった。互いのプレーに安定感がないうちは、ボールを触る機会の多い後衛が強い方が勝つ。けれど、後衛同士の力が拮抗し、ベースラインのラリーだけではポイントが決まらなくなってくると、今度は前衛の差が問題になってくる。

 藤堂君の支配力は、明らかに響のそれを上回っていた。背が高い上に、どうやら草太の癖をある程度見抜いているらしく、少しでも甘いロブが上がると悉くスマッシュで決めてきた。このまま平面だけの戦いを強いられるとなると、確かに苦しい。

 けれど多分、本当の問題はそんな所にはなかった。


「ゲーム。チェンジサイド、チェンジサーブ!」


 結局、3ゲーム目も落としてしまった。最後は姫野さんのストレートロブを、焦った響がチップして終わった。ナイスボール、と静かに告げ、藤堂君は姫野さんにハイタッチを求めた。嬉しそうに頷いてそれに応えた姫野さんは、しばらくの間、彼の手を握って離さなかった。チェンジサイドでベンチに戻ってきていた草太は、横目で二人を見つめ苦笑していた。


「ごめん草太、ミスっちゃった」


 タオルに顔を埋め、俯いたまま響が詫びる。草太は何も応えなかった。幹也も奏も、かける言葉が見つからない様子で、ただ神妙にしていた。


「モチベーションが上がらないかい? 草太」


 尋ねると、草太は面食らったように目を見開き、慌てて首を横に振った。


「いえ、そんなことは」


 否定した後、曖昧に視線を逸らす草太。言ってやるべき言葉があると思った。兄でも姉でもない、赤の他人の自分だけれど。だからこそ、お節介と知りながらも。


「草太。君は勝たなきゃ駄目だ」


/


「ゲームカウント、ゼロスリー」


 審判がコールし、俺はトスを上げる。一球目のサーブはフォルトになった。大きく一度深呼吸して、気持ちを落ち着かせようと努める。


『幹也も奏も、どっちの家のご両親も、君たちを咎めたりはしない。そんなこと、自分で薄々気づいてるはずだ』


 さっき薫さんに言われたことは、正直図星だったと思う。ただ、それを今ここで言うのかと驚いた。


『勝て、草太。勝って自分を納得させろ』


 ミドルに入ったセカンドサーブを、姫野とかいう後衛は左サイドラインいっぱいのロブでレシーブしてきた。フォアハンドに回り込む余裕はない。バックハンドのシュートをストレートに返す。待ってましたとばかりに飛び込んできた藤堂が、ストップボレーをネット前に器用に落とした。サービスラインまでフォローに下がっていた響は、それを拾うことができなかった。


「ナイスボレー!」


 藤堂の手を握りしめ、姫野はにっこりする。藤堂は黙って頷き、そんな彼女を見下ろしていた。愛おしさを隠さない表情だった。朴念仁が色気付きやがって。いつからそんなキャラクターになったんだ。


「ごめん、今の頑張れば拾えた」


 お通夜みたいな顔の響と形ばかりのハイタッチを済ませ、逆クロスのベースラインにつく。


「ゼロワン」

「ほら、来いよ!」


 審判のコールに被せるようにして、藤堂が叫ぶ。俺はサーブの構えを一旦解き、かつてのペアを見つめた。藤堂は肩をすくめ、不敵に笑った。

 トスを上げながら、薫さんは一体どうやって自分を納得させたんだろうかと、考えた。ボールがネットにかかった瞬間、昔、幹也が全身傷だらけになって帰ってきたことがあるのを思い出した。『薫と喧嘩した』と、確か幹也は言っていた。

 二球目のトス。試合はもう後がないというのに、笑みをこらえることが出来なかった。ワイドぎりぎりを狙ったサーブは、藤堂のラケットを弾いた。

 

/


 そこから先の草太は、人が変わったような活躍だった。彼は隙あらば豪速球を相手後衛の足下に叩き込み、針の穴を通すようなコントロールで藤堂君のバックサイドを狙った。私は勝手に返ってくるチャンスボールを仕留めるだけで良かった。

 立て続けにこちらがゲームをとり、勝負は振り出しに戻った。けれど、さすがに相手も段々慣れてきたらしく、ファイナルゲームの展開は拮抗していた。勝敗を賭けたデュースを、私たちは既に四回も繰り返していた。


「アドバンテージレシーバー」


 審判のコールが終わるや否や、藤堂君が大きなフォームでトスを上げる。弾丸みたいなサーブがミドルに突き刺さった。


「ナイスサーブ!」


 相手側の歓声を聞きながら、私は唇を噛んだ。あと一点が遠い。サーブにしろレシーブにしろ、私と藤堂君が勝負するポイントがネックになっていた。


「どんまい」


 差し出された草太の手を、無言で軽く叩く。彼は酷い量の汗をかいていた。ここまで挽回する為に、ギアを目一杯あげてきたからだ。疲労からか、ショットの切れも段々下がってきている。

 勝ちたいと、心底思った。ここで勝たなきゃ嘘だ。その先にはもう何もないってわかっているけれど、それでも。


「デュースアゲイン」


 草太のサーブがミドルに入った。押し込めない。クロスにシュートが返ってきて、しばらく正クロスでのラリーが続いた。一、二、三、と、ポーチフェイクを繰り返しながら、ラリーの本数を数える。四本目のシュートを相手が打った瞬間、何故か、次に草太が打つショットがわかった。サービスラインまで下がりながら、藤堂君を見る。ストレートへの警戒を捨て切れていない顔だ。心臓が大きく、一度鳴った。

 力強い打球音とともに、草太の今日のベストショットが、逃げるような角度で正クロスに打ち込まれる。私は一気にネットまで詰めた。相手の後衛が、オムニコートの砂を巻き上げながらボールを追う。彼女はインパクトの直前、ちらりと私の方を見た。きっちり重心の乗った軸足。すっかり差し込まれた捕球位置。パッシングは、ない。


「姫野!」


 藤堂君の叫びは間に合わなかった。ストレートロブが放たれた時、私は既に後方に下がり始めていた。思ったよりもループが深い。届け、届け。


「こん、のっ!」


 最後の距離をジャンプで稼いで、渾身のスマッシュを打った。フォローに下がっていた藤堂君が、半端なローボレーでそれを拾う。凶器みたいな草太のトップ打ちが、相手コートを駆け抜けていった。


「っしゃあ!」


 滅多に見せないガッツポーズを決めて、草太が吠えた。私は急いで駆け寄って、左手を差し出す。


「サンキュー!」

「ナイススマッシュ!」

「ラスト!」


 痛いくらいのハイタッチをして、私たちは頷き合った。


/


「アドバンテージサーバー」

「ここが勝負所だ」


 幹也が低く呟く。同感だった。体力、流れ、サーバー、どの点から考えてみても、勝負を決めるにはこのポイントしかなかった。奏は祈るように手を握り、静かにコートを見つめていた。

 草太のサーブがクロスに入る。逆転を狙った藤堂君のパッシングは、響がかろうじて止めた。仕切り直す為に、相手の後衛がロブを正クロスに上げる。追いついた草太がストレートにロブを返し、右サイドのストレート展開になった。ロブとシュートを上手く使い分け、草太は懸命に藤堂君のプレッシャーをかわしていた。前衛に全幅の信頼を置いているらしく、姫野さんは決してサイドチェンジすることなく、粘り強くストレートに返球していた。

 神経をすり減らすようなラリーが続いたが、草太の放ったシュートがサイドライン上で僅かにイレギュラーしたのをきっかけに、均衡は崩された。フォアに回り込もうとした姫野さんが、慌ててバックハンドで返球する。ロブのコースは、響がすべて潰していた。ついさっきスマッシュを決めた効果が、最大限有利に働いていた。曖昧なシュートをストレートに打つ以外、チョイスできるショットはない。僅かに浅く入ったボールを追って、草太は前方に駆けた。


「浅いボールってのは、チャンスに見えて、案外難しい」


 首を傾げる奏に、幹也は説明を続けた。


「ネットまでの距離が近いせいで、ショットに角度をつけづらいんだ。藤堂君みたいな良い前衛に圧力をかけられると、普通なら、無難なロブを返すことしかできなくなる」

「つまり、草太君は凄いってことで、いいの?」


 奏が嬉しそうに問う。幹也の返答は、会場中から湧き起こった歓声に掻き消された。


/ 


 ラリーが続くにつれて、周囲の喧噪や蝉の声が、耳から遠のいていった。集中力が研ぎ澄まされていくのを自覚する。不思議な全能感があった。必ずここで決める。何があっても、藤堂にはボールを触らせない。


「っく!」


 イレギュラーバウンドに戸惑って、相手の後衛が窮屈なフォームでバックハンドを打った。チャンスボールが浅く入る。時間がゆっくり進むようだった。俺のテイクバックに合わせて、藤堂がプレッシャーをかけてくる。鬼の形相だ。あいつからすれば、後衛のミスで試合を終わらせるわけにはいかないんだろう。ストレートのコースは消えた。半端なロブすら、今の藤堂なら叩き落とすに違いない。正面か? 今の俺に、藤堂のラケットを弾くだけのアタックができるのか? 迷っていると、視界の端で、愛くるしいポニーテールが揺れた。

 響がスクリーンをかけ、藤堂の視界から俺の姿を隠す。あとは身体が自然に動いた。この三年間、何度も繰り返してきた動作だからだ。脇を締め、鋭く振り抜く。放たれたショートクロスショットは藤堂の右側を抜け、相手コートのサイドライン上で跳ねた。

 満面の笑みを浮かべ、響が振り返る。その瞬間、全ての音が戻ってきた。


「ゲームセット!」


 審判が高らかにコールし、方々から拍手と歓声があがる。


「草太、草太!」


 名前を呼びながら、ハイタッチを求めて左手を差し出す響。俺はその手を掴んで、彼女を引き寄せた。

 

/


 気がつくと、私は草太に抱きしめられていた。搔き抱くような、拙い抱擁だった。終わったんだって、理解した。終わってしまったんだ、これで。


「馬鹿」


 罵ると、草太は一層腕に力を込めた。


「馬鹿だよ、草太」


 すっと一筋流れた涙が、火照った頬を微かに冷ましていった。たった一度、今だけだ。そう心に決めて、私は草太の背中に腕を回した。



◇ ◇ ◇


 木漏れ日が揺れ、涼やかな風が体を冷ましてゆく。日差しがテニスコートの土を焦がす匂いに、甘い香りが混ざる。遠い蝉の声に紛れて、愛しい声が俺の名前を呼んだ。


「草太さん、寝てるの?」

「いや、起きてるよ」


 返事をして、身体を起こす。妻は穏やかに佇んでいた。場違いな白いワンピースが眩しくて、俺は目を細めた。


「学生時代も、このベンチでお昼寝してたの?」

「ああ。もういいの?」

「うん、満足」


 彼女を連れて実家に帰るのは、これで二度目だ。前回は仕事の都合で、結婚の報告を済ますだけの時間しかとれなかった。少し余裕のある今回は、久しぶりに母校を訪れた。「あなたが青春を過ごした場所が見てみたい」と、妻が望んだからだ。


「そろそろ行こう。親父と母さんが楽しみにしてる。兄貴のところの家族も、今日は会いに来るらしい」

「あら、緊張するわね」


 ふわりと微笑んで、彼女はゆっくり歩き出した。少し遅れて俺も続く。耳慣れた乾いた足音が、静かに後ろへ消えていった。沢山の蝉の音が、夏影に溶けるようにしっとりと響いていた。




(終)

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