雪月花
その日も、朝から雨は降り続いていた。
雨が体を撃とうが関係ない。今は、天気なんて問題じゃない。
ただ私は、間に合わなければいけない。
遅れることは許されない。ここでの遅刻はきっと一生後悔する。後悔するに決まってる。
だから許されない。誰も許してなんてくれない。
通り慣れた道を右に左に進むと懐かしい場所。そこに
あなたの姿は、なかった。
『雪月花』
その日も、朝から雨は降り続いていた。雨は別に嫌いじゃなかったけど、あの時からずっと敬遠しているように思う。
「まま、まま」
「なぁに?」
かわいい息子。あの人との、大切な宝物。きっと世界で一番大切なもの。ううん、“大切なもの”じゃなくて“大切な人”だよね。
「今日、ぱぱ来るかな?」
今日という約束の日をこんな形で迎えるなんて、誰が思い付いただろう。
「……」
言えない。慰めだとしても、「きっと来てくれるよ」なんて。偽ったところで、この子はいつか気付いてしまう。それなら、そんな一時の安らぎなんて無意味なものでしかない。それはあまりに残酷な現実。
「まま?」
「ごめんね。ままも、ちょっとわからないんだ」
不幸。本当に不幸。でもそれは私じゃない。
「きっと来てくれるよ!」
「……」
「またかもしれないけど、来てくれるかもしれないよ!」
本当に不幸なのは、まだ小さなこの子が思いやりと優しさに溢れていること。本来ならもっとわがままで、もっと子供らしくていい。それなのに、この子はまるですべてを知っているかのように私を優しい言葉で満たしてくれる。
「そうだよね。ありがとう、りょうちゃん」
「うん! どういたしまして!」
この子にしてみれば必死なのかもしれない。今日という日は、私が一年で唯一笑わない、いや“笑えない”日なのだから。きっといつもと違う私を見たくないのだろう。
わかってる、本当は笑っていなければいけないって。でもここまで来るのにたくさん努力した。鏡の前でひきつった笑顔を自然なものにするのだって、一年かかった。それから日常生活で笑えるようになるまで一年、つらい時も笑えるようになるまで一年。結局三年かかって、私は元の私を取り戻した。取り戻したはずだった。
なのに、それなのに、今日だけは笑えない。一生懸命練習したのに、引きつった笑顔すらできない。
「まま?」
「なんでもない。なんでもないの」
込み上げるのは悲しみの結晶。どうしても、どうしても今日だけは我慢できない。押さえ込みたい感情も、零れる涙も、あなたへの想いも。
「まま、行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい!」
もう少しだけ頑張ろう。あの子にこれ以上心配させるわけにもいかない。それに、あなたにも。
あなたがいなくなる前、私は幸せの中にいた。たくさんの言葉とたくさんの愛、それからたくさんの大切なこと。それをあなたは教えてくれた。だから、ずっとあなたと一緒にいたかった。
“待っててくれるかい?”
私たちが付き合い始めて三年目、私はそれを告げた。あなたが遠くへ行くことも、私とおなかの中の子も置いていくことも知っていた。だから、言わないとそのままどこかに消えてしまいそうで、なにもかもが消えてしまいそうだった。
“待っててくれるかい?”
ただそれだけ。それだけ返事をを残して、あなたは遠くへ行った。
“ここで、待っててくれるかい?”
その言葉だけが私の支えで、ただずっと待ち続けた。待って待って、ずっと待って、そして今年が五年目。
「いつ、あなたは来てくれるの?」
ずっとここで待っていることなんてできない。私にはあの子がいる。私の生活だってある。だから、あなたが待ってくれと言った今日だけここで待つ。そう決めた。なのに、こんなにも心が揺れる。ふらふら揺れて、今にも倒れそうになる。
「どうして、来てくれないの?」
あの時は待てると思ってた。あなたがいつか来てくれるなら、その時まで私は待つ。そう誓った。でも今は違う。
「どうして……、ねえ、どうしてなの?」
こんなにも押し潰されそうで、こんなにも締め付けられる。私は弱くなってしまった。
あなたがいつか来てくれる。そんな希望にしか寄り掛かれなくて、でもあなたがいないと不安で、時間が経てば経つほど何もできなくなる私がいた。一人じゃ何もできない、子供みたいな私がいた。
「ねえ、答えてよ」
誰もいない公園。あなたと約束した公園。もう何度も約束を果たすために来たこの場所に、今年もあなたの姿はない。
やっと今になって、肌に刺すような痛みを感じた。見上げた空から微かに降る白い結晶。季節は冬、こんな日に薄着で外にいる私はなんて惨め。他人から見ても、絶対不自然に映る。またなんだ。また、また私は……。
「これでも着てろよ、風邪ひくぞ」
声がした。後ろから、包み込むように暖かくて柔らかな、それでいて優しい。
「遅いよ……」
本当に遅すぎる。絶対に許さないんだから。
「すまん。やっと、戻ってこれた」
でも、少し。ほんの少しだけ。
「遅すぎるよ! いつまで経っても戻ってこないから、だから」
安心した。あなたがいること、それがこんなにも私には必要だった。
「こんなに、弱くなっちゃったんだから」
少しきつめの抱擁が、ただ嬉しかった。感じる体温で、不安は消し飛んだ。心が、満たされた。
「それでもいい。弱くなったなら、俺が守る。一緒にいる。強くなるまで、そばにいればいい」
ばか。そんなこと言われたら、何も言えなくなる。ずるいよ、そんなの。
「俺もどこにも行かないから、だから、俺のそばから離れるな」
卑怯だよ。だってそんなの、
「うん」
他に答えが見つからないもの。
「ねえ」
「わかってるよ」
そうじゃなきゃ待っている意味がない。そう、答えを聞くために私はここにいるのだから。
「俺と、最後まで一緒にいてくれ」
その言葉だけで、もう十分。
「はい。ちゃんと、償ってくださいね」
今日が五年遅れの結婚記念日。私たち“家族”は、やっと今日からスタートした。
いつ、どんな時でも変わらないものがある。それが愛というもの。
そんな言葉からこの小説ができました。特にテーマも展開もあるわけではありません。ただ待っている人と、待たされている人がいただけです。
しばらく小説からは離れていましたが、ぼちぼち執筆を再開していこうと思っています。