カン、缶、カーン
昏い夜道を男が歩いている。
アスファルトには、車道と歩道を分ける白線が一本引かれているだけ。
人通りもなければ、すれ違う車もない。
気温は高くもなく、低くもなく、熱くもなければ寒くもない。
先程、開けっ放しの窓からテレビの笑い声が聞こえてきたが、それ以外は静かなものだ。
心地のよい夜である。
自動販売機をみつけた。
男はその機械の前に立ち、ポケットから硬貨を取り出して投入口に入れた。そしてコーヒーのボタンを押そうとして、不意にその指が止まる。縦に三段ある内の、一番下の段の端っこにあるものを見つけたのだ。
「あ、シーチキン」
スーパーでよく見掛ける三個入りのものではなくて、かと言って業務用の大きな缶でもなく、150gくらい入ったちょっと大きめのやつだ。
「懐かしいなぁ」
と、男は小さく笑みを浮かべた。
子供の頃、シーチキンの空き缶で缶蹴りをしようとしたけど、上手く飛ばせなくて泣いたっけ。飛ばせるようになるまで、泣きながら缶を蹴って歩いたのだ。結局、あの時は飛ばせたんだっけ? 諦めたんだっけ?
「まあ、いいや」
男は迷わず、シーチキン缶のボタンを押した。
ガコンと音がし、缶が落ちてくる。
腰を曲げてそれを取り出すと、男はにっこり笑って、大事そうに両手に載せて歩き出した。
「カン、カン、カン。シーチキンの缶ちゃん、お久しぶり、良い子してたかい、味はどうだい、染みてるかい」
調子っ外れの歌を口ずさみながら、上機嫌にてくてく歩く。
通りがかる人はいない。歌声を聞く者もいない。完全に男だけの世界だ。
やがて、というか、いつの間にか、男は狭い道に足を踏み入れていた。両側を古いビルに挟まれた、小汚い路地だ。窓は真っ暗で何も見えず、大きな室外機がいくつも並んでいる。こんな道、あったかな。
錆びた手摺りの非常階段。誰かが使っているのか、カン、カン、カン、と頭上から音がする。どこかで聞いたことがあるような響き。
カン、カン、カン。ああ、そうか。君はあの時遊んでくれた空き缶だね。
カン
カン
カン
カン
右へ、左へと壁を蹴って踊るように、音も軽やかに移動する。
その喧しさたるや。
もはや自分の歌すら聞こえず、脳みそを直接揺さぶられているようだ。聴覚はグチャグチャだし、上も下も分からないし、吐き気はするし。
何なんだろう、これ。
男は平然と歩き続ける。
うるさいなぁ、とニコニコ笑う。
うるさいのには慣れていた。
テレビのついたダイニングで、両親は毎晩口論していた。理由は知らない。たぶん、一つや二つではないと思う。
大抵は母が父に文句を言って、父が適当に反論する。それに母が怒り狂って、父がキレて、金切り声が切り裂いて、怒号がぶち破る。そのうち口論じゃ済まなくなって、テーブルや壁を殴ったり物の投げ合いに発展する。
少年はその様子を、扉の隙間から覗き見る。何かが扉にぶつかって、カーン! と甲高い音が鼓膜に突き刺さった。
足元を見る。
転がっているのはシーチキンの空き缶だ。父がよく酒のツマミに食べている。缶に残っていた汁が撥ねて、少年の頬にかかっていた。ぷぅんと、少し生臭いニオイがした。
男は狭路を奥へと進む。
缶が飛び跳ねる音はさらに酷くなり、そこに両親の怒号も加わった。
カン、カン、カン、カン。
うおうおうおうおうおうお。
カン、カン、カン、カン。
わうがおくうるおしうみおやう。
男はニコニコ笑っている。
懐かしいなぁ、と。
懐かしいと言えば、あの子はどうしているかな。まだ元気でいるかな。
お隣さんが飼っているラム。家の外で、キャンキャン吠えている。いつもは静かなのに、一体何に吠えているんだろう?
家の中はとても静かだ。なんだか調子が狂うけれど、妙に心地良い。
男はてくてくと歩き続ける。両手に抱えるシーチキンの缶が重い。まるで人の頭みたいに。
並んでる室外機がスピーカーのようにうおうおと唸っている。生温い風。ちょっと気持ちが悪い。
そう、だから窓を開けたんだ。
そしたら、急に静かになって。
そこに立っていたのは、血塗れのナイフを持った少年だった。クリーム色のパーカーは誰かの血でぐっしょりと濡れて、足元は大きな血溜まりの中に完全に沈んでいた。痩せ細った足の隣に、何かがゴロンと転がっている。ボールだろうか。それも二つ。こちらを振り返った少年の頬にも、点々と返り血がついている。
男は驚かず、親しげに笑いかけた。
「やあ」
少年は答える代わりに、ニコニコと笑った。
そして、砂のように崩れて消えていった。
男はしばらくその場に立ち尽くしていた。
これは夢ではないと自覚していた。
手元を見下ろす。
そこにあるのは、彼の罪。
男は両手をぱっと離して――落ちてきたソレ目掛けて、足を高く振り上げた。
古いビルに挟まれた、小汚い路地から。
古いビルに挟まれた、細長い空へと。
それは遠くへ遠くへ飛んでいき。
やがて、どこかでカーンと甲高い音がした。




