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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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カン、缶、カーン

作者: 良田めま
掲載日:2026/07/19

 昏(くら)い夜道を男が歩いている。

 アスファルトには、車道と歩道を分ける白線が一本引かれているだけ。

 人通りもなければ、すれ違う車もない。

 気温は高くもなく、低くもなく、熱くもなければ寒くもない。

 先程、開けっ放しの窓からテレビの笑い声が聞こえてきたが、それ以外は静かなものだ。

 心地のよい夜である。

 自動販売機をみつけた。

 男はその機械の前に立ち、ポケットから硬貨を取り出して投入口に入れた。そしてコーヒーのボタンを押そうとして、不意にその指が止まる。縦に三段ある内の、一番下の段の端っこにあるものを見つけたのだ。


「あ、シーチキン」


 スーパーでよく見掛ける三個入りのものではなくて、かと言って業務用の大きな缶でもなく、150gくらい入ったちょっと大きめのやつだ。


「懐かしいなぁ」


 と、男は小さく笑みを浮かべた。

 子供の頃、シーチキンの空き缶で缶蹴りをしようとしたけど、上手く飛ばせなくて泣いたっけ。飛ばせるようになるまで、泣きながら缶を蹴って歩いたのだ。結局、あの時は飛ばせたんだっけ? 諦めたんだっけ?


「まあ、いいや」


 男は迷わず、シーチキン缶のボタンを押した。

 ガコンと音がし、缶が落ちてくる。

 腰を曲げてそれを取り出すと、男はにっこり笑って、大事そうに両手に載せて歩き出した。


「カン、カン、カン。シーチキンの缶ちゃん、お久しぶり、良い子してたかい、味はどうだい、染みてるかい」


 調子っ外れの歌を口ずさみながら、上機嫌にてくてく歩く。

 通りがかる人はいない。歌声を聞く者もいない。完全に男だけの世界だ。

 やがて、というか、いつの間にか、男は狭い道に足を踏み入れていた。両側を古いビルに挟まれた、小汚い路地だ。窓は真っ暗で何も見えず、大きな室外機がいくつも並んでいる。こんな道、あったかな。

 錆びた手摺りの非常階段。誰かが使っているのか、カン、カン、カン、と頭上から音がする。どこかで聞いたことがあるような響き。

 カン、カン、カン。ああ、そうか。君はあの時遊んでくれた空き缶だね。


 カン

          カン

 カン

          カン


 右へ、左へと壁を蹴って踊るように、音も軽やかに移動する。

 その喧(けたたま)しさたるや。

 もはや自分の歌すら聞こえず、脳みそを直接揺さぶられているようだ。聴覚はグチャグチャだし、上も下も分からないし、吐き気はするし。

 何なんだろう、これ。

 男は平然と歩き続ける。

 うるさいなぁ、とニコニコ笑う。


 うるさいのには慣れていた。

 テレビのついたダイニングで、両親は毎晩口論していた。理由は知らない。たぶん、一つや二つではないと思う。

 大抵は母が父に文句を言って、父が適当に反論する。それに母が怒り狂って、父がキレて、金切り声が切り裂いて、怒号がぶち破る。そのうち口論じゃ済まなくなって、テーブルや壁を殴ったり物の投げ合いに発展する。

 少年はその様子を、扉の隙間から覗き見る。何かが扉にぶつかって、カーン! と甲高い音が鼓膜に突き刺さった。

 足元を見る。

 転がっているのはシーチキンの空き缶だ。父がよく酒のツマミに食べている。缶に残っていた汁が撥ねて、少年の頬にかかっていた。ぷぅんと、少し生臭いニオイがした。


 男は狭路を奥へと進む。

 缶が飛び跳ねる音はさらに酷くなり、そこに両親の怒号も加わった。


 カン、カン、カン、カン。

 うおうおうおうおうおうお。

 カン、カン、カン、カン。

 わうがおくうるおしうみおやう。


 男はニコニコ笑っている。

 懐かしいなぁ、と。

 懐かしいと言えば、あの子はどうしているかな。まだ元気でいるかな。


 お隣さんが飼っているラム。家の外で、キャンキャン吠えている。いつもは静かなのに、一体何に吠えているんだろう?

 家の中はとても静かだ。なんだか調子が狂うけれど、妙に心地良い。


 男はてくてくと歩き続ける。両手に抱えるシーチキンの缶が重い。まるで人の頭みたいに。

 並んでる室外機がスピーカーのようにうおうおと唸っている。生温い風。ちょっと気持ちが悪い。


 そう、だから窓を開けたんだ。


 そしたら、急に静かになって。


 そこに立っていたのは、血塗れのナイフを持った少年だった。クリーム色のパーカーは誰かの血でぐっしょりと濡れて、足元は大きな血溜まりの中に完全に沈んでいた。痩せ細った足の隣に、何かがゴロンと転がっている。ボールだろうか。それも二つ。こちらを振り返った少年の頬にも、点々と返り血がついている。

 男は驚かず、親しげに笑いかけた。


「やあ」


 少年は答える代わりに、ニコニコと笑った。

 そして、砂のように崩れて消えていった。


 男はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 これは夢ではないと自覚していた。


 手元を見下ろす。

 そこにあるのは、彼の罪。

 男は両手をぱっと離して――落ちてきたソレ目掛けて、足を高く振り上げた。

 古いビルに挟まれた、小汚い路地から。

 古いビルに挟まれた、細長い空へと。

 それは遠くへ遠くへ飛んでいき。

 やがて、どこかでカーンと甲高い音がした。

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