アレルギーを見抜いた解剖オタク令嬢、王の命を救った報酬に『解剖の許可』を求めたら、なぜか王太子との婚約が決まりました。
「エレン、なんてはしたない。またそのような気味の悪い絵を描いて」
お母様の溜息混じりの声を、私は「はい、申し訳ございません」と淑やかな微笑みで受け流す。
手元のスケッチブックには、先ほど庭で拾ったトカゲの筋組織が精密に描かれているけれど、それを隠すようにさっとページを閉じた。
私の名前はエリアナ・エルフェルト。
周囲からはエレンと呼ばれている。
侯爵家の令嬢。
けれどその中身は、前世で「解剖こそが人類救済の最短ルート」と信じて疑わなかった、変態的なまでの法医学オタクだった。
この世界に来て十数年。私は絶望していた。
この国の医療は、ひどく遅れている。
風邪を引けば祈り、腹を壊せば怪しい香草を焼くだけ。
人間の体の仕組み、血の巡り、臓器の役割――そのすべてが「神秘」という名の無知の中に隠されている。
(……ああ、中が見たい。解剖したい。メスがないなら包丁でもいい。いえ、令嬢がそんなことしたら即刻廃嫡だわ)
私は品よく紅茶を啜りながら、内なる衝動を抑え込んでいた。
そんな私に、運命の転機が訪れる。
王太子殿下の十歳の誕生パーティー。
面倒なことこの上ないが、侯爵令嬢として出席しないわけにはいかない。
私は「品行方正な令嬢」の仮面を被り、豪華な王宮の庭園へと足を踏み入れた。
その時だった。
「――お、お王女様が! リーゼロッテ様が池にっ!」
絶叫が響き渡る。 見れば、豪奢なドレスを着た小さな少女が、池の底へと沈んでいくのが見えた。
騎士たちが飛び込み、彼女を引き上げたが、王女の顔はすでに土気色で、呼吸も止まっている。
「ああ、なんてことだ! 医官を呼べ! 聖職者を呼べ!」
周囲がパニックに陥り、王妃様が泣き崩れる中、私はドレスの裾を思い切り引き裂いた。
「え……? エルフェルト令嬢!?」
王太子のカイル様が驚愕の声を上げるが、無視だ。 私は王女の傍らに膝をつくと、彼女の顎を上げ、気道を確保した。 やることは分かっている。
前世で嫌というほど繰り返した、救命処置だ。
「……何をしている! 王女の御体に触れるな!」
騎士の制止を、私は鋭い眼光で黙らせた。
「黙りなさい。死なせる方がよっぽど不敬ですわ」
私は迷わず王女の口を塞ぎ、空気を送り込む。 周囲から悲鳴が上がる。
「人工呼吸」なんて概念がないこの世界では、それは死体への冒涜に見えただろう。
続けて、私は両手を重ねて王女の胸の真ん中に置いた。
(胸骨圧迫、開始。一、二、三、四――)
ドレスの袖が汚れようが、髪飾りが落ちようが知ったことではない。
私は心臓の位置、肋骨の感触、その下で眠っているはずのポンプ機能を「解剖学的知識」を総動員してイメージする。
(動け、動け……! まだあなたの心筋は死んでいないわ!)
必死の蘇生を続けて数十回。 王女の喉が「ヒュッ」と鳴り、勢いよく水を吐き出した。
「……っ、げほっ! げほっ!!」
「リーゼロッテ!」
駆け寄る王族たち。 私はそこでようやく、荒い息を吐きながら立ち上がった。
泥に汚れ、破れたドレスのまま、私は優雅に(のつもりで)カーテシーを披露する。
「……失礼いたしました。お召し物を汚してしまいましたわね」
静まり返る会場。 その中で、十歳の王太子カイル様だけが、真っ赤な顔をして私を凝視していた。
怯えているのかと思いきや、その瞳に宿っていたのは――恐ろしいほどの熱量を持った好奇心だった。
「……君。今、何をしたんだ? なぜ、その場所を叩けば息を吹き返すと知っていた?」
彼は一歩、私に歩み寄る。 その距離感は明らかに、ただの「救世主」を見るものではなかった。
私は「あ、やらかしたわね」と内心で舌を出した。
「それは……その、医術書を読むのが趣味でございまして」
「医術書? どこの、誰が書いた本だ? 僕にも教えてくれ。
君のその手……魔法じゃない。理にかなった動きだった」
カイル様の瞳が、私の手を、そして私の顔を、まるで「検体を分析する」ような冷徹さと情熱で舐めるように見つめている。
(……まずいわ。この王子、私と同じ匂いがする)
解剖オタクの嗅覚が、警報を鳴らしていた。
私の平穏な引きこもり解剖ライフは、この日、音を立てて崩れ去ったのである。
※
「――面を上げよ、エルフェルト侯爵令嬢」
重厚な扉の先。玉座に座る国王陛下の声は、威厳に満ちてはいたけれど、どこか力強さに欠けていた。
傍らには、あの日以来、私を熱烈な(というより観察的な)視線で追いかけてくるカイル王太子殿下が控えている。
「娘を救ってくれたこと、重ねて礼を言う。……だが、今日呼んだのは他でもない。お前のその『医術への造詣』、余の体にも及ぶものかどうか確かめたくてな」
陛下は苦笑しながら、自身の胸元を押さえた。
ここ数年、死に至るほどではないが、全身の倦怠感、肌の痒み、そして激しい腹痛に悩まされているという。
「宮廷医は皆『お疲れです』と言うばかりで、祈祷師は『悪霊の仕業だ』と抜かしおる。……エレンと言ったか。お前はどう見る?」
私は静かに頭を下げ、許可を得てから陛下に近づいた。
お母様が見ていたら「不敬です!」と泡を吹いて倒れる距離。
けれど、今の私にとって陛下は、威厳ある君主ではなく「最優先で解明すべき特異な症例(検体)」でしかなかった。
「……陛下、失礼いたします。少し、瞼の裏と、舌の状態を拝見しても?」
「む? ……ああ、構わぬ」
私は陛下の顔を覗き込み、眼瞼結膜の充血と、肌のわずかな浮腫みを確認する。
さらに、手袋を外した指先で陛下の首筋のリンパに触れた。
(……腫れはない。熱もない。中毒や感染症の線は薄いわね。となると……)
背後でカイル殿下が「……ほう、そこを触るのか」と何やら手帳にメモをしている気配がしたが、無視だ。
私は王太子の視線を背中に感じながら、陛下の「検品」を続けた。
「陛下。……失礼ながら、お食事の内容について、ここ数日分をすべて書き出していただくことは可能でしょうか?」
「食事? 毒見は完璧に行っているが……」
「毒ではありません。陛下にとっての『毒』を探したいのです」
数日後。
私はカイル殿下と共に、図書室の山のような献立表と格闘していた。
殿下は驚くほどに飲み込みが早く、私が教えた「仮説と検証」の考え方を、すでに自分のものにしている。
「エレン、見てくれ。陛下が特に体調を崩されているのは、決まって『法要』や『晩餐会』の後だ。共通点は……ワインか? それとも、祝宴につきもののジビエの肉だろうか」
カイル殿下は羽ペンを指先で回しながら、私の隣で真剣な眼差しを献立表に向けています。
「いい着眼点ですわ、殿下。確かにアルコールや脂肪分は胃腸に負担をかけます。……ですが、記録をよくご覧ください。晩餐会のない日常の朝食後にも、陛下は数回、軽い腹痛を訴えておられます。その時のメニューは『白パンと温かなミルク』だけです」
「……! 共通しているのは、豪華な食事ではなく、むしろ基本的な主食の方だというのか?」
殿下の瞳が、知的な興奮で薄く見開かれました。私は頷き、山積みの献立表の中から、いくつかの日付を抜き出しました。
「ええ。そしてこちらの記録。陛下が狩猟で野営をされた際、お肉をメインに召し上がった日は、むしろ体調が良いと記されています。つまり、肉やワインが真犯人である可能性は低い……。殿下、ここで疑うべきは、陛下が毎日欠かさず口にされている『黄金の小麦』です」
私の言葉に、カイル殿下は椅子を鳴らして立ち上がりました。
「……待ってくれ。小麦はこの国の力の象徴だ。それが陛下を苦しめているなど、宮廷医たちが聞けば鼻で笑うだろう。エレン、君は本気で言っているのか?」
私は殿下の真っ直ぐな視線を受け止め、毅然とした態度で言葉を続けました。
「確信はありません。だからこそ『検証』が必要なのです」
カイル殿下が、興味深そうに首を傾げた。私は首を横に振る。
「あくまで可能性の一つです。医術とは、仮説と検証の積み重ね。まずは最も疑わしい小麦を生活から『除去』し、陛下の容態を観察いたします。もし改善が見られなければ、次は乳製品、その次は卵……と、一つずつ容疑者を潰していくのです」
「……なるほど。犯人を追い詰める捜査のようだな」
殿下は、私の「消去法」という考え方にひどく感銘を受けたようだった。
「面白い。エレン、その検証、僕も手伝わせてくれ。陛下の食事、体温、排泄物の状態まで、すべて僕が記録しよう」
(……王太子殿下に排泄物の記録をさせるわけにはいかないけれど、ここは同じ王族である彼に任せるべきかしら)
こうして、私たちは十日間の【第一次除去試験】を開始した。
※
まずは陛下に、十日間一切の小麦を口にしないよう直接お願いに伺った。
「小麦を、食べるのをやめろと言うのか? この我が?」
王様の顔に困惑が広がる。無理もない。
この国でパンは神の恵みであり、それを拒むのは「生きることを否定する」に等しい。
宮廷医たちも「何を馬鹿なことを!」と鼻で笑っている。
しかし、私は一歩も引かなかった。
「陛下。人間の体には、目に見えない『受け皿』があるとお考えください」
私は卓上の空のカップを指差した。
「生まれ持った頑健さという器に、日々、食べ物や疲れといったものが溜まっていきます。若いうちは溢れません。ですが、器が満杯になったその瞬間に……ほんの一滴、最後の一欠片のパンが引き金となって、器は溢れ出すのです」
「……溢れ出す?」
「はい。それが、今の陛下の倦怠感、肌の荒れ、腹痛の正体です。昨日まで大丈夫だったから明日も大丈夫だとは限らない。それが『アレルギー』という体の拒絶反応なのです」
私の説明に、隣で聞いていたカイル殿下が「……なるほど、蓄積の結果というわけか」と深く頷いた。
彼はすでに、私の「医学的論理」の虜になっている。
「エレン、それはあまりにも酷ではないか? 余は、あの黄金色の香ばしい皮と、ふわふわの中身を愛しておるのだ。それがなければ、余の朝は始まらぬ。……パンのない食事など、魂のない肉体のようなものだぞ!」
「陛下、これはあくまで『検証』です。魂を救うために、今は肉体を整えねばなりません。……それに、もし小麦が原因であれば、このまま食べ続けることは陛下にとって緩やかな毒を煽るのと同じことなのですわ」
私のロジカルな説得に、陛下は肩を落とし、
「……ううむ、救世主にそう言われては断れぬ。だが……寂しい。寂しいぞ……」と、
いい歳をして半べそをかきながら同意してくださった。
「エレン、父上はああ仰っているが、相当なストレスだろう。……代わりになるものを僕たちで作れないいだろうか。君が言っていた『コメコ』というもので」
カイル殿下のその一言で、私たちの「実験室」は王宮の厨房へと移された。
※
【米粉パンの試行錯誤】
「陛下がパンを恋しがっておられます。殿下、米粉の準備を」
厨房は、今や私たちの「実験室」と化していた。
小麦を使わない代わりに、私は米を細かく砕き、粘りを出すために山芋を混ぜるなどの工夫を凝らす。
「エレン、見てくれ。この生地、昨日より弾力がある。配合を変えたのか?」
「ええ。配合比を3:1から4:1に微調整しました。殿下、こねる作業は心臓マッサージと同じです。一定のリズムと圧力を保ってください」
「心臓マッサージ……あの日、妹にした動きか。なるほど。同じ“リズム”が必要だというわけだな。
……君の説明は、いつも実に分かりやすい」
殿下はそう言って、生地に視線を落としたまま手を動かし続ける。
粉まみれの横顔は穏やかだが、その集中力は異様なほどだった。
(……だめだわ。この人、理解すること自体を楽しんでいる)
【検証完了:真犯人の特定】
十日後。 陛下の倦怠感は劇的に改善し、肌の赤みも引いていた。
「エレン! 腹痛が一度も起きぬ! 体が軽いぞ!」
「陛下、まだ喜ぶには早いですわ。確証を得るために、一度だけ小麦を食べてみてください。それで症状が再発すれば、真犯人は小麦です」
いわゆる【負荷試験】だ。
結果は明白だった。
一口のパンを食べた数時間後、陛下は再び激しい腹痛に襲われた。
「……間違いない。余の体は、小麦を拒絶しているのだな」
「はい。ですが、原因さえ分かれば対策は容易です。米粉を使えば、陛下はこれからもパンを愉しむことができますわ」
陛下は感動し、私の手を取った。
「エレン、お前は余に『生』を返してくれた。カイル、この才女を絶対に手放すなよ」
「――ええ、父上。もちろんです」
カイル殿下が、私の背後に音もなく立ち、肩に手を置いた。
その手のひらから伝わる熱が、不自然なほどに高い。
「エレン。君の『消去法』は見事だった。仮説を立て、検証し、結論を出す――
この国に、いや、僕に欠けていた視点だ」
殿下は一歩だけ距離を保ったまま、静かに言った。
「君が医術で国を救うなら、僕はそれを妨げるものすべてを退ける。
……王太子として、それが一番“効率的”だからね」
「殿下。お気持ちはありがたいですが、私の研究は『保護』されるものではありませんわ。必要なのは自由と検証環境。それさえあれば、私は楽しく暮らせますの」
殿下は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「……なるほど。やはり君は面白い。分かった、条件は尊重しよう」
(人の話聞いてる…?)
そう言って微笑む殿下の瞳は、……ああ、これは納得していない顔だ。
感謝の報酬として「婚約」を提案されたが、私は「まだ解剖もできていない身で、家庭という名の「固定環境」に入るには、私はまだ未熟ですの。」と、丁寧に、かつ論理的にお断りした。
解剖については何か分かってないらしく深くは聞かれなかった。ちょっと残念。
「……そうか。なら、君が『婚約したほうが研究に没頭できる』と思うまで、外堀を埋めさせてもらうよ」
王子の爽やかな宣言を聞き流しながら、私は五年後の「解剖許可」をもぎ取るための計画を練り始めた。
この時、五年後にこの国を襲う「謎の病」が、私たちの絆(という名の鎖)を決定的なものにすることなど、まだ知る由もなかった。
※
それから五年の月日が流れ、私は十五歳になった。
私とカイル殿下は、貴族の義務として王立学園に通っている。
「……エレン、今日はそこを掘り下げるのかい?」
放課後の図書室。
静寂に包まれた特別閲覧室で、私の背後から心地よい低音が響く。
いつの間にか背後に立っていたカイル殿下が、私の肩越しに手元のスケッチブックを覗き込んでいた。
五年という歳月は、十歳だった少年を、冷静に獲物の動きを読む狩人へと変えていた。
すらりと伸びた長身と、常に状況を観察する鋭い眼差し。
そして何より、私を包み込むように置かれたその手のひらの熱。
「ええ。心臓弁の構造について、昔読んだ書物の知識を整理しているところです。
……殿下、あまり覗き込まれると集中できませんわ」
「失礼。君が考え事をしていると、つい様子を見たくなる」
「……君が何かに没頭していると、つい観察してしまう。思考の流れが、実に興味深いからね」
殿下はそう言って、私の髪を指先で弄ぶ。
あの日、王女を救い、王のアレルギーを暴いてからというもの、彼の関心は、私の研究環境そのものに向けられていた。
私が「解剖をしたい」と言えば、彼は私有地の森で仕留めた魔獣を、鮮度を保ったまま運び込ませる「専用の保冷馬車」を開発した。
私が「清潔な環境が必要だ」と言えば、彼は王立学園の理科室を改装し、高価な蒸留装置を自費で寄贈した。
おかげで学園内では、私は「殿下の最愛にして、少し風変わりな婚約者候補」として定着している。
「婚約した覚えはありませんわ。私はまだ、殿下を『検体』としてしか見ておりませんし」
「それで構わない。僕は君が成果を出せるなら、立場など後からついてくると思っている」
「……それ、普通は傷つく台詞ですわ」
「合理的で助かるよ」
私はわざとらしくため息をつき
「……殿下、それより見てください。この魔道具が完成すれば、出血を最小限に抑えて開腹することが可能になりますわ。いつか人間に試せる日が来れば……」
「そうだね。その時は僕が一番に許可を出そう。前例を作る責任は、王太子が負うべきだ」
カイル殿下は、それが血に濡れた内臓のスケッチであることなど、彼にとっては些細な問題であるかのように――世界で一番美しい名画を眺める、その眼差しだった。
学園の生徒たちが「なんて仲睦まじい……」と遠巻きに見守る中、私たちの会話が「どうすれば効率的に肉を切れるか」という物騒な内容であることを知る者は、この国に一人もいない。
そんな、歪だけれど穏やかな学園生活が続くと信じていた。 あの「死の影」が、王都を覆い始めるまでは。
十五歳の冬。 王都の貧民街から、一つの報告がもたらされた。 「体が黒ずみ、石のように固まって死ぬ病」――人々はそれを『黒石病』と呼び、神の呪いだと恐れおののいた。
※
王都を襲った『黒石病』の猛威は、瞬く間に貴族街にまで忍び寄っていた。
かつて華やかな馬車が行き交っていた目抜き通りは、今や死の静寂に包まれている。
貴族街の屋敷の門には、次々と黒い布が掛けられ始めていた。
それは喪の印であると同時に、「ここには入るな」という無言の警告。
あるいは、中にいる者たちに向けられた「ここから出るな」という呪いの宣告だった。
感染すれば三日で、骨を焼くような高熱が出る。
やがて指先から徐々に皮膚が黒変し、石のように硬化して絶命する。
亡くなった者の遺体は、まるで石像のように冷たく重い。
「これは、不信心な者たちに下された神の審判だ!」
教会の神父たちは街角で声を荒らげ、祈りだけが救いだと触れ回る。
一方で、これまで権威を振るっていた医師たちは、原因不明の病魔に震え上がり、次々と往診を拒否して王都から逃げ出した。
学園が閉鎖され、友人たちが怯えて家に閉じこもる中、私は一人、カイル殿下が私に与えてくれた「個人診療所(実験室)」にいた。
「……煮沸したリネン。これに樹脂をコーティングして、隙間を蝋で埋めれば、飛沫を防げるかしら」
私は、山積みになった布地と格闘していた。
私が作っているのは、この世界の誰も見たことがない「防護服」だ。
前世の記憶にあるN95マスクには及ばないけれど、顔全体を覆うガラス付きのフード、継ぎ目のない長衣、そして何重にも重ねた革手袋。
傍らには、アルコールを蒸留するためのフラスコが怪しげな音を立てて沸騰している。
(……祈りで病が治るなら、解剖医なんてこの世に必要ないわ。神が救ってくれないなら、私が筋肉の一本、血管の一本まで検品でもして、この病の正体を暴いてあげる)
窓の外では、死者を運ぶ荷車の車輪が、ガタガタと石畳を叩く音が聞こえる。
暗い絶望が街を支配する中で、私の胸にあるのは恐怖ではなく、純粋な「真実への渇望」だった。
カイル殿下からは「屋敷から一歩も出るな」と厳命されていた。
けれど、私の診療所の扉には、彼が密かに配置した騎士たちが、外部の暴徒から私を守るために立っている。
「エレン様、まだ作業を続けられるのですか? 殿下からは、食事を摂るよう伝言を預かっておりますが……」
扉の向こうからの騎士の声に、私は防護服の縫い目を確かめながら答えた。
「あと三十分でこの試作品を完成させますわ。……それと、殿下にお伝えして。もし私をこの部屋から一歩も出したくないなら、明日までに『新鮮な、まだ死後硬直していない検体』を一つ、地下の解剖室に用意してくださるかしら、と」
私は、薄暗いランプの火に透かして、鋭いメスの刃を眺めた。
死の影が忍び寄るこの状況で、私の瞳は、かつてないほどギラギラとした知の悦びに輝いていた。
「――行かせるわけにはいかないと言ったはずだ!」
背後から、凍りつくような冷たい声がした。
振り返ると、そこにはいつもの余裕をかなぐり捨て、怒りと焦燥に瞳を濡らしたカイル殿下が立っていた。
私が預けた『検体を用意してほしい』という伝言が、彼の逆鱗に触れたのは明白だった。
殿下は、私が完成させたばかりの異様な防護服と、机に並んだ鋭いメスの列を交互に見て、拳を震わせている。
「エレン、外がどうなっているか分かっているのか? 遺体に触れれば君も死ぬ。……君を失うくらいなら、僕は今すぐこの部屋を溶接して、一生閉じ込めておくことだって厭わない」
「殿下、よく考えてみてください。溶接されたら換気ができません。二酸化炭素中毒で死に至る環境は、研究には不向きですわ」
私は冷静に、特注の厚手の革手袋をはめた。ギュ、と革が鳴る。
「これは『呪い』ではありません。原因が必ずあります。血管が詰まっているのか、臓器が石灰化しているのか。それを見極めない限り、この国は全滅します……殿下。私は、中身が分からないまま、正体不明の影に怯えて死ぬのが、この世で一番恐ろしいのです」
私は一歩歩み寄り、カイル殿下の頬に、革手袋越しに触れた。
冷たい革の感触に、殿下がびくりと肩を揺らす。
「私を信じて。私の目は、死を恐れるためにあるのではなく、生命の構造を読み解き、真実を『鑑定』するためにあるのです。この国の心臓を止めたくないのは、殿下も同じでしょう?」
「……っ。君には、最初から勝てなかったな」
殿下は絞り出すように笑うと、私の腰を抱き寄せ、耳元で低く、けれど逃げ場のない声で囁いた。
「分かった。ただし、僕も行く。君が死体を見る間、僕は君の背中だけを見ている。……もし君に異変があれば、僕はその場で君を連れて、この国を捨てる。いいな?」
その瞳には、救国への志よりも、私を道連れにしてでも独占するという狂気的な愛が渦巻いていた。
※
王室の権限で隔離された特別室。
そこには、先ほどまで息をしていたばかりの、黒石病の遺体が安置されていた。
遺体を前にした瞬間、同行した看護師の一人が小さく嗚咽を漏らした。
横たわるのは、かつて人間だったもの。
黒く硬化した皮膚は、鈍い光を反射し、人というより精巧に彫られた石像に近い。
触れれば、体温を奪われるような冷たさが伝わってくる。
――だが、私の視界には、もはや「悲劇」は映っていなかった。
「……これより、死因特定のための解剖を開始します」
周囲が恐怖に震え、祈りの言葉を呟く中、私の心臓は、不思議なほどに静かに脈打っていた。
解剖学、病理学。前世で培った、血の通った知識。 私はメスを握り、皮膚の硬度を確認する。まるで石を削るような手応え。けれど、その下の真皮層を突破した瞬間、私は確信した。
「吸引を。殿下、もっと光を近くに」
「あ、ああ……」
私の手元を、カイル殿下が執念深く、けれど一寸の狂いもなく照らす。
一文字に開かれた胸腔。
そこに広がっていたのは、石のような呪いではなく――
一面の『白』だった。
「肺……いえ、胸腔全体が、白い糸を引くような構造物に覆われていますわ。これこそが、真犯人」
「それは……何なんだ?」
「肺に蔓延る微細なカビ(真菌)です。この数ヶ月の異常な長雨で、地下水路に大量発生した胞子が飛散したのでしょう。吸い込んだ胞子が肺で増殖し、血管を物理的に圧迫……その結果、抹消組織が壊死し、石のように硬化して黒ずんだのです」
私は、ピンセットでその白い胞子の塊を採取し、殿下に見せた。
「呪いでも、神の罰でもありません。単なる衛生環境の悪化による、重度の肺真菌症です。……殿下、勝利ですわ。アルコールによる徹底した消毒、そして特定の薬草から抽出した抗真菌成分を吸入させれば、この流行は止められます」
「カビ……。そんな矮小なものが、この国を滅ぼしかけていたというのか」
背後で見守っていた殿下が、驚愕の後に、安堵ともつかない長い吐息を漏らした。
私の背中に、彼の額がそっと預けられる。
「……エレン。君が今日暴いたのは、病の正体だけじゃない。……もう、絶対に、離さないからな」
防護服越しに伝わる、殿下の震える鼓動。
私は「解体された後の肺の膨らみを確認したいので、退いていただけます?」と言いかけて――。
彼のあまりに必死な体温に、今日だけは「リジェクト」せずに、そのまま作業を続けることにした。
※
一ヶ月後。
エレンが特定した原因と、カイル殿下が迅速に手配した消毒薬。
そして、王令によって強制された「煮沸と手洗いの徹底」により、王都を襲った死の影は嘘のように消え去った。
暗く沈んでいた街には再び活気が戻り、人々は恐怖を打ち払った「解剖医」を、親しみを込めて「奇跡の聖女」と呼んだ。
絶望の底で真っ先に逃げ出した宮廷医たちは、今やエレンが提唱した新しい衛生理論を必死に学んでいる。
国王陛下は、エレンに深く頭を下げ、涙を流して感謝した。
「お前が余の腹痛を治した時、カイルに『手放すな』と言ったのは正解だった。お前こそ、この国の未来を繋ぐ心臓だ」
そして、国中が歓喜に沸く叙勲式の夜。
喧騒を逃れ、私は王宮のバルコニーでカイル殿下と二人きりになっていた。
夜風に揺れる月光が、殿下の正装を淡く照らす。
五年前、池のほとりで私を見つめていた少年は、今や誰もが畏怖するほどの気品と、私への狂信的な情熱を併せ持つ男になっていた。
「素晴らしい功績だね、エレン。君はまた、僕の想像を軽々と超えていった。……これで君を聖女として崇める民は、誰も僕たちの婚約に異を唱えないだろう。君を僕の隣に固定するための、完璧な『理由』が揃ったよ」
「殿下……。私はまだ、研究の途上ですわ。今回の一件で痛感しました。この国の医療制度自体を一度バラバラに解体して、再構築する必要があるのです」
私は、意気揚々と語る。
目の前の美しい王太子よりも、その背後に広がる「まだ見ぬ医学の未来」に瞳を輝かせて。
「まずは国立の解剖学校を作り、正確な人体の地図を作る必要があります。それから、各街に衛生局を立ち上げ、下水管理の法整備を……」
「――ああ、それはすべて僕が王として、あるいは君の夫として許可を出そう」
カイル殿下が、私の言葉を遮るように私の唇に人差し指を置いた。
その指は熱く、震えている。その瞳は、これまで見たこともないほど深く、甘く、そして獲物を絶対に逃さないという鉄の意志を持って私を「固定」していた。
「ただし、僕の妃として、だ。……いいかい、エレン。君が求める自由も、新鮮な検体も、尽きることのない予算も、すべて僕が用意する。君が医療で国を救い続ける間、僕はその隣で、君が僕以外の『中身』に興味を持たないように見守り続けよう。……僕以外に君をここまで理解し、支援できるパトロンが他にいると思うかい?」
「……それは」
私は脳内で高速に計算した。
一国の王太子を専属のパトロンにし、国家予算を自由に動かして、解剖学を国教並みに広める。
これほどまでに「私のオタク道」にとって効率的で魅力的な環境は、確かに、世界のどこを探しても存在しない。
「……却下、できませんわね。この取引は、私にとっても非常に有益ですわね」
私が溜息混じりに、けれど確かな満足を込めて答えると、カイル殿下は満足げに目を細め、折れそうなほど強く私の腰を引き寄せた。
「ようやく、合格だ。……愛しているよ、僕の可愛い、残酷な解剖医」
重なる唇。 それは誓いであり、同時に、二度と解くことのできない契約の封印でもあった。
遠くで響く祝祭の鐘の音が、新しい時代の幕開けを告げている。
私は、この「執着」という名の堅牢な監獄が、案外心地よいことに気づき始めていた。
私の探究心を満たしてくれる場所が、彼の腕の中にあるのなら、一生囚われるのも悪くはない。
解剖オタクの侯爵令嬢と、彼女を理解しすぎてしまった執着王子の物語は、こうして「生涯、離さない」という契約(婚姻)をもって、めでたく幕を閉じたのである。
(ちなみに翌朝、初夜の感想を尋ねてきたカイル殿下に、私が「殿下の背中の筋肉の使い方、とても勉強になりましたわ」と微笑んだところ、殿下は無言で顔を覆い、そのまま固まってしまいました。
……検証対象、そこではありませんでしたの?)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
反響があれば、続編も書こうと思ってます。
新たに医療用の魔道具作ったり、他国の流行病の原因を追究するために死体を取り寄せたりしたいですね。
感想・評価などいただけると、作者が喜んでヤンデレ妄想に磨きがかかります。




