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7.日没

 目が覚めると日が暮れるところだった。

 銭湯の湯船で眠りそうになったのはおよそ十時間ほど前のこと。どうにか眠らずに湯を上がり着替え、黒鯱ともしっかり別れて帰路についた。

 我が城についてからのことはあまり覚えていない。恐らく、気を失うかのように眠ってしまったのだろう。

 思い切り欠伸をしながらぼんやりと空を見上げると、あたり一面橙色に輝いていた。


 そろそろ眠っていた影鬼どもが動き出す時間だ。

 いい具合に腹も減ってるし、新しい木刀との親睦を深めにいくとしようか。


 そんなことを思いながら立ち上がると、ふと風が奇妙な臭いを運んできた気がした。


「川の臭いに似てるなぁ……」


 鼻が曲がりそうな悪臭。

 西風が運んでいるのだろうか。だが、何の臭いだろう。もしかして、近くでネズミでも死んでいるのだろうか。そう、それは死臭に似ている気がした。

 ……といっても、死臭というものをきちんと知っているわけではない。何かの死体を見つけることがあったとしても、間近で見ようだなんて思わないし、況してや臭いを嗅いで記憶に留めようだなんて思わないからだ。変な病気を貰ったら治す薬なんてほとんどない。健康を害した時点で私ら夜人の生活は破綻を迎える可能性が極めて高くなってしまうのだから、当然だ。


 しかし、ネズミだとしたら、嫌な感じだ。

 もしも水道管なんかで死んでいたら、近くの水が汚染されてしまう。

 近所の建物なんかだったらその建物の持ち主がなんとかするだろうけれど、私はそうはいかない。しばらくは飲み水も「月夜」で飲むべきだろう。


 つまり、金がいる。


 ――ちょいと散歩でもして施しを期待してみるか……。


 悪臭の元を深追いするようなことはせず、私は潔く木刀を抱えて家を出た。


 それにしても、見事なオレンジだ。

 黄昏という言葉が示す通り、辺りが橙と黒だけで出来ているかのようだ。世界がまるで色のお化けに支配されているようで、ちょっとだけ気味が悪い。


 ――まるで歩いている人が人でないかのよう。


 内心不安になる私を煽るような影鬼たちの声が、何処からともなく聞こえてきた。

 見渡してもその姿は一瞬しか見えない。影と影の間を縫うように移動し、昼人が一人きりになる瞬間を狙っているらしい。

 だが、生憎、この傍には昼人はいない。通行人は私を含め夜人ばかりだった。


「残念だったね、オニども」


 はっきりと見えない子供のような姿相手にそう言ってやると、影鬼たちはけらけら笑いながら何処かへと消えていった。

 今はまだそれを追う気になれない。

 それよりも、水だ。何かしらの水分を補給してからいかないとぶっ倒れてしまうだろう。


 相変わらずオレンジ色をとどめた空を見上げながら「月夜屋」の方角をぼんやりと確認していると、建物の中からふらふらと昼人の女性がやってきて、私に銭を握らせていった。

 影鬼が何処か行ったもんだから安心して出てきたのだろう。


「ありがと、おばさん。あんまりうろつくと危ないよ」

「礼も忠告もいらないよ。あんた達のようなのがいないと、あたしらの生活もままならないからね。今宵も宜しく頼むよ」


 そう言い捨てて、昼人の女性は下駄をからんころんと言わせながら建物に戻っていく。

 昼人向けのハンコ屋の奥方だったらしい。そうと分かったのは、その女性が店に戻って扉をぴしゃりと閉めてしまった後だった。

 まるで家から閉め出された家無猫のような気持ちで、私はしばらくその閉じられた店の看板を眺めた。


 ――ハンコ屋か。


 私には縁のない場所だが、昼人が昼人として生きていく上にはとても重要なものであるらしい。

 夜人の私には母からの手紙などを受け取るときに、郵便屋から求められることがあるくらいだが、結局は拇印や一筆名前を書くだけで認められるので必要としなかった。

 わざわざ作って貰う夜人なんているのだろうか。考えてみて、その状況がどうしても思いつかなかった。そもそも、自分の名字すら曖昧だ。作ってもらうとしたら、下の名前になるだろうか……なんにせよ、そんな状況もなさそうだ。

 やっぱり客の九割以上は昼人なのだろう。


「いけね、夜になっちまう……」


 今しがた貰った銭を懐にしまって、私は先を急いだ。

 向かうは「月夜屋」であるが、今日は別の用事もある。うっかり忘れそうになっていたのだが、今宵は野良猫だけの集会が開かれる日だ。

 恐らくその前に「月夜屋」にいけば、内数名の野良猫には出会えてしまえそうだが、だからと言って集会をすっぽかすのも気が乗らないのは、余計ないざこざを嫌う猫の性分だろう。もちろん、誰が参加しなかろうと気にしないのが野良猫の基本なのだが、中には口煩い奴もいる。そういった物珍しい奴に口煩く注意されるという場合もあるのだ。

 もちろん、そんな状況は望んでいない。面倒事は野良猫にとって大敵であり、どう考えても余計な揉め事を産み出すのは賢い生き方ではない。

 なので、いくら無駄だとは思っても、また、こんな会合は本来なくたっていいのではと思っていても、意味もなく欠席するなんて選択肢はなかった。


「おばんです、大将! 水かなにかおくれよー!」


 暖簾を潜るなりそう叫ぶと、真っ先に小夜がこちらを振り返った。ついでに後で会う予定の野良猫数人と、此処に泊まっている黒鯱も一緒だった。


「こんばんは、明さん。麦茶とお冷やがありますけれど、どちらがよろしいですか?」

「水でいいよー。あ、あと、バター粥とかあったら食べたいかもー?」

「かしこまりました。少々お待ちください」


 小夜が厨房へと引っ込んでいくのを見届けてから、懐の銭を確認しつつ、私は近くの席へと座った。

 遠巻きに野良猫たちがこちらを見ている。知り合いではあるが、生憎、普段からさほど話したりはしない輩だ。

 一方、黒鯱は――。


「こんばんは、早起きだね」


 いつの間にか隣にいた。


「なんだい、それ。おまえんとこの皮肉かい?」

「違いますよ! 私もつい今しがた起きたんだよ。それに、別れる時は君も随分と疲れていたようだったし――」

「はは、言い訳がましいな。冗談だよ」


 そう言ってから、思い出したように付け加える。


「今日は狩りの前に用事があるのさ。もし案内して欲しいなら別の夜人を頼っておくれよ」

「用事ですか……。気になるねえ。一体、どんな用事なのかな?」

「ああん? やけに深入りするねえ。そんなんじゃ長生きできないよー?」


 余所者ならば「魂食い獣」の血すら引いていないような男だ。

 影鬼たちから見れば、手頃な獲物でしかないだろうし、影鬼でなくとも多少ガラの悪い夜人ならば、鴨でしかないだろう。

 それなのに、この黒鯱とかいう青年。全く自分の立場というものを分かっていない。


「はは、そうだったね。ごめんごめん。じゃあ、今日は大人しく余所者向けの御店回りでもしてくるよ」

「夜の町をかい? 気を付けなよ。影鬼だっているんだから」


 そこへ、慌てた様子の満月と新月が厨房より現れた。

 今起きたというわけではない。おそらく、小夜に店を任せてどこか言っていたのだろう。蛙の大将が見当たらないところを見ると、交代で飯でも食いにいっているのか。


「やあ、邪魔してるよ二人とも。大将は狩りかい?」


 声をかけてみれば、満月の方がにこりと笑ってみせた。


「うん、そんなところね。でも、安心してわたし達がちゃーんとおやっさんの代わりを務めるから」

「……バター粥はいま、小夜ちゃんが作っているから」


 新月も頑張って教えてくれた。

 同じ血を分けた姉妹の満月とは違って、普段は無言で配膳する新月。少し話しただけでも額には汗が浮かんでいる辺り、根っからの人見知りなのかもしれない。

 それでも、最近は私にも言葉数が増えたような気がする。そうだとしたら嬉しいのだけれど。


「満ちゃん、新ちゃん、お勘定お願い!」


 遠くの席からそんな言葉が響いた。

 見れば、野良猫仲間たちが帰り支度をしている。このまま早めに集会場に向かうのだろう。

 でもまあ、まだ焦るような時間ではない。野良猫の集会なんてただわらわらと集まって駄弁って顔を合わせて新人紹介があったらそれを聞いて何となく解散するようなものなのだから。


 ――……とはいえ、後で落ち合う仲間が先に行ってしまうのは心細いものがあるなあ。


「明先輩……!」


 会計を終えた野良猫の一団の一人が私に向かって手を振ってきた。

 たしかあれは、今年に入ってからやっとこさ独り立ちしたばかりの夜人の女の子だ。母親が野良猫で、父親は不明。そこまでは覚えているのだけれど、名前はさっぱり覚えていない。


「あとで会いましょうねぇ!」


 女の子につられて他の野良猫たちも私を見つめ、各々目礼だけして何処かへ行く。

 どいつもこいつも私よりも年下の集団のようだ。あの女の子以外は去年や一昨年に独り立ちしたものだったような気がする。

 さっきも言った通り、あまり喋ったことはないけれど。


「あぁ、やっぱり彼らも知り合いだったんだね……明先輩」


 野良猫の集団が出て行ったあとで、黒鯱が私に言った。


「その呼び方やめろ。知り合いっていうか、野良猫仲間だよ」

「後で会いましょうって?」

「だーかーらー、深入り癖は治した方がいいって言っているだろー?」


 面倒なものだ。この探究心は一体何なのだろう。

 旅人だからだろうか。それとも、こんな性分だから旅人なんぞやっているのだろうか。どちらにせよ、自分の身の程をわきまえてほしいものだ。


 って、私も相当なお節介かもしれないのだけれど。


「お待たせしました」


 小夜がそう言いながら配膳する。


 そうだよ。水だよ。お冷だよ。まだ何も飲んでいないのにべらべらと喋っていたんだ私。

 思い出すと一気に喉が渇いた。差し出されたガラスのコップを触ると、ぎんぎんに冷えていて手がじわりと痛んだ。でも、有難い。多少きつくてもこの冷たさが好きだったりする。

 水を飲んでみると、生き返るような気分になった。

 隅々まで沁み渡り、枯れていた大地が潤っていくかのよう。やはり、水は大事だ。

 そういえば、つい去年あたりまでは十六夜町を流れる大川の水も平気で飲めたような気がするのだけれど、最近は臭くて飲む気にもならない。

 もしかして、川の底で何か大きな生き物でも死んでんじゃないだろうか。分解されることなく腐ったままずっとそこにあるのだとしたら、余計に水を飲むことはできない。そんな不潔なものを飲んで死んだ日にゃ浮かばれない。


 何にせよ、このささやかな不満が時計台あたりで今も頭を悩ませているであろうミサゴ様辺りに届けば一発で解決するのにな。


 ため息交じりに散蓮華ちりれんげで粥を口に含むと、途端に倦怠感が吹き飛ぶような幸せな味が広がった。

 炒り子丼とはまた違った幸せな味。

 そんな味がただ椅子の上で待っているだけで運ばれてくるなんて、これぞ銭を払う醍醐味ってもんだ。影鬼狩りとは全く違う。

 まあ、影鬼狩りには影鬼狩りの魅力や楽しみがあるものだし、そもそも「魂食い獣」の血が濃い私たちはこんな間食だけじゃ生きていけないわけなのだけれど。

 でも、息抜きは大事なものだ。

 ただ栄養とってりゃ生きていけるわけでもないのだから。


「はあ……美味しそうだね。それをそこまで嬉しそうに食べる人、初めて見たかもしれない」


 黒鯱が何処か呆れ気味に言う。

 だが、それに相手をしていられる余裕なんてなかった。

 散蓮華が止まらない。次から次に味を求めて動いてしまう。そうこうしているうちに、バター粥はどんどん減っていってしまう。

 いっつもこうだ。

 少しは味わって食えよって隼人や親しい野良猫仲間にいつも言われるのだが、治る気配は見られない。そういえば、十五夜に出てきてしばらく、「月夜」に顔を出すようになったばかりの頃からそうだった。

 あの頃から私はちっとも変わっていないのかもしれない。

 そう自覚してもなお、小夜の持ってきてくれたバター粥はやっぱり美味しくてたまらなくて、あっという間に食べ終えてしまった。


「はあ……終わってしまった……幸せの時間が」


 本気で呟く私を、黒鯱は呆れ気味に見つめていた。

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