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6.銭湯

 十六夜町において銭湯ぜにゆは幾つかある。

 どこにも共通しているのが、天然の温泉であるというところだ。此処からさほど離れていない場所に火の神様が住まう御山があるお陰だと言われているが、生憎、町から見えるものでもないので、私はその姿をいまだに知らない。知らないものの、黒鯱を無事に案内し終えて、私もまた土埃を落としに来たこの「鶴亀」という銭湯もまた、温泉であることには変わりない。


 遠くの地では、銭湯といえば温泉ではなくて火を起こして湯を沸かしたものであるそうなのだが、それを詳しく供述できるものなんて滅多に訪れない。

 近隣国もまた銭湯といえば温泉である。火の神様は御山の傍や山を隔てた隣国でもある湯花ゆばなという国しか支配してはいないけれど、その力の影響はこんなに遠い場所にまで及んでいるということだ。

 不思議だなあ、と思ったものの詳しく知ろうなんていつも思わない。湯気は私の思考を滞らせる。そしていつしか余計な考えの巡りすらも解してしまい、ただただ温かいなあという感想だけを抱かせてしまう魔性を秘めている。


 しかし、今日はそんな湯船にも浸からず、真っ裸のまま私は入り口付近の石像と飲み水の蛇口を眺めていた。

 だだっ広い「鶴亀」の女湯。男湯も同等の広さではあることを考えれば、相当な規模だろう。月替わりで入れ替わるので知っているのだが、男湯の方にも同じような石像があって、そこに説明が書かれている。

 飲み水はただの逆上せ対策だが、石像は違う。


「これが、朝顔様かあ……」


 ひとり呟いて私は石像を眺めた。

 歌鳥の小夜が言っていた通りだ。

 そこにあることは知っていたが、わざわざ足を止めて説明文を読むという煩わしいことはしていなかった。冒険したといっても、私が見てきたのは構造だけであり、そこに書かれている長ったらしい文章など頭に入らない。

 そもそも、文字を読むのは苦手なのだ。教養がないせいだと笑われても仕方がないと我ながら思う。文字を重要視しない生活をしているせいか、短い文は苦痛でなくとも、三行以上書き連ねてあると少々頭が痛くなる。それでも、文字を読めるだけましだ。三夜に残してきた母がいくら夜人でもそれだけは覚えておかないと駄目だと読み書き算盤そろばんを徹底的に教えてくれたおかげだった。これもまた有難い親からの財産の一つであろう。

 その財産をどうにか駆使して読み解いたところ、朝顔様という御方は、もう何百年も前に花と鬼の戦争があった時に現れたらしい。何でも、他の七柱の花の神様はきちんと祀られているのに、朝顔様だけが無視されてきたことを怨み、そこへ花の神様を憎む悪鬼が取り憑いたのだとか。結局、混乱は雌狼しろうと呼ばれる山神によっておさめられ、十六夜町の人々は朝顔様を無視し続けてきたことを反省し、石像をつくって祀った、という話だ。

 ついでに、この戦争がきっかけて影鬼たちは行き場を失い、十六夜町の端々に現れるようになったらしい。なるほど、この伝説が本当ならば、悪鬼を倒してくれて影鬼どもの行き場をなくしてくれた雌狼とやらは私たちにとって守護女神といってもいいくらいの偉人ではなかろうか。


「あらあら明ちゃん、水も飲まずに突っ立っているとまた倒れちゃうよ?」


 ふと、背後から声をかけられ、はっとした。

 振り返ればそこには妖艶な容姿の女性がいた。何も身に纏わぬ裸に手拭いだけという姿が非常に色っぽい。そして、その眼に浮かぶ隠しきれない野性味がこれまた美しかった。


「お、お久しぶりです、静海さん」


 彼女こそ隼人の群れの重鎮、お頭の片割れとして野良犬界にその名を轟かせる静海さんだ。

 その後ろでは彼女の友人である夜人の御姉様方が待っている。犬ではなく、狐や狸といった人々で、隼人たちの群れとは何の関係もない個人的な友人であるらしい。

 ともあれ、三人も夜人としての先輩がいるという状況は緊張するものだ。

 静海さん一人でさえも面と向かえば緊張するというのに。


「朝顔様に興味があるの? 前は全然気にしてなかったのに」

「あ、はい、『月夜』でちょっとそんな話を聞いて……」

「小夜ちゃんね。あの子は勉強熱心な真面目な子よね。まあ、でも、学ぶというのは夜人でも大事なことよ。この町では特に」

「そう……ですね。勉強します」


 そう言ってもう一度、説明の書かれた木札を眺め、しばし置いてから私は静海さんに訊ねた。


「此処に書かれている雌狼って、どんな人だったのですか? 薄らとしか話は聞いたことないけれど、夜人だったんでしょうか?」

「違うよ。夜人ではなくて、人狼。私達とは違う純粋なるアヤカシ」

「……人狼? 夜人の狼とはどう違うんですか?」

「うーん、そうね、真っ先に思いつくのは主食かしらね」


 困ったように静海さんは言葉を探す。

 主食。つまり、食べるのは影鬼ではないということか。それにしても、人狼なんてあまり見たことがない。此処に居る人々は「魂食い獣」の血しか引いていない半妖なのだから仕方がない。歌鳥だって珍しかったくらいだ。全く異質な魔性の類の者がいるということ自体が珍しい。

 それにしても、主食。人狼の主食ってなんだろう。疑問を抱える私を見透かしたように、静海さんは言葉を選ぶのを早々に諦めて、実に直接的にその答えを教えてくれた。


「人狼はね、人間を騙して食べてしまうのよ」

「へっ?」

「この町でもしも現れたりしたら、きっと昼人も食べられてしまうわね。夜人はさすがに食べたりしないと思うけれど」

「そんなに危ない人たちなんですか? 影鬼よりも?」

「影鬼は夜人に狩られる。でも、人狼は彼らと比べ物にならないくらい手強い存在。普段は人の姿でごまかして、いざとなれば狼の姿で襲ってくる。危険で汚いけだもの。明ちゃんも、もしも人狼を見かけたとしても、関わったりしちゃダメよ」


 随分と言われているぞ、人狼さんとやら。

 しかし、静海さんがそう言うくらい、危ない輩なのだろう。だとしても、十六夜町にいる限り、気を付けるべきは柄の悪い夜人だけのはずだから、いまいち想像がつかなかった。


「大丈夫ですよ。関わるなんて面倒だし」

「……そうかしら? 噂だと、今日だって一風変わった男を案内してここまで来たそうじゃない」


 もう伝わっているのか。人の噂ってやはり怖いものだ。

 驚く私を見つめ、静海さんは微かに笑みを浮かべる。


「ともかく、油断は禁物よ。今この町には、人狼が一匹紛れ込んでいるのだから」

「へ、そうなんですか?」


 初耳だ。ついさっきまで遠い世界の話だと思っていたのに。


「ええ、この町の隅でたむろしているの。その見た目も、臭いも、すでに野良犬には知れ渡っているのだけれど、なんせ、まだ目立った動きを見せていないから取り締まれない。私たちが近づくと逃げてしまうからね」

「人狼が……この町に……」

「相手は麦色の髪と浅葱色(あさぎいろ)の目をした背の高い女よ。目立った外見だということもだけれど、明ちゃんなら一目見ただけで分かるはず。でも、近づいては駄目。無駄な怪我をしたくなかったら、目撃情報だけ野良犬の誰かに漏らしなさいね」


 そう言って、静海さんは友人たちと共に脱衣所へと戻っていった。

 残された私はその背をしばし見送り、そして考え込んだ。


 人狼か。それも女。

 さっきまでは雌狼って英雄だとばかり思っていたのに、一気に物騒な存在に思えてきた。まだ、悪さはしていないといっても、主食が人間だと聞かされれば話は変わる。

 ここに書かれている英雄も、人間を食べて生活していたのだろうか。

 そう思うと、複雑な気持ちになる。


 ああ、そうだ。黒鯱は大丈夫だろうか。

 彼は無知な旅人。「月夜屋」に宿泊している限りはきっと大丈夫と思いたいけれど、彼の事だから夜の街を一人ふらふらと彷徨い始めても不思議ではない。

 そうしているうちに、人気ひとけのない路地裏などに迷い込み、静海さんの言っていた女人狼と鉢合わせたりしたらどうなるだろう。

 おそらく明日には行方不明者の仲間入りだ。

 どうも、嫌な感じだ。

 あまり深入りするべきではないと思ってはいても、やはり、一度でも手を貸してしまった人間には愛着のようなものが湧いてしまう。

 というか、「月夜屋」も危ないかも。

 なんせ、あの場所には歌鳥の小夜がいる。人狼から見たら、まっとうな人間の一種である小夜なんて美味しそうで仕方ないのではないだろうか。


 銭湯が余計な考えを洗い流してくれる場所とは何だったのだろう。

 考えれば考えるほど、頭が痛くなっていく。


「とりあえず、腹が減っている以外の時は黒鯱の様子を見よう」


 お節介は夜人にとっては命取りなものだ。

 黒鯱に対して「月夜」で説教した通り、そうやって無駄な事件に巻き込まれて消えていった夜人は多数いるらしい。その度に、夜人――特に野良猫なんかは、不用意に他人事に首を突っ込むからだと勝手なことをいうものだった。

 というか、そんな人物がかつて身近にいた。


 ――父ちゃん……。


 かつて父もそうだった。


 親友の野良猫が人助けで死んでしまったとき、「他人事に首を突っ込むからだ」と、散々彼に対して嘆いたあとで、大人げないほどにわんわん泣いたのを幼心に覚えている。

 あの時、私には父の気持ちが全く分からなかった。馬鹿にしているのか、悲しんでいるのか、分からなかった。親友だったのならば死人に対してどうしてそんなに悪く言うのだろうと疑問に思ってばかりだった。

 でも、大きくなった今なら分かる。両方だったのだろう。

 死んでしまったらそれまでだ。もう飲み交わすことも、談笑することも、何もかも出来なくなってしまう。それが死んでしまうということ。それがあまりに悲しくて、悲しくて、人助けで死んでしまった親友の英雄さなんて称える気にもならなかったのだろう。


 そんな父も今や何処にもいない。

 何処で何をしているのか。どうして長らく姿を消しているのか。誰も知らない。

 生きているのか、それとも――。


「ええい、湿っぽいのは沢山だ」


 いなくなった奴のことに縛られることはない。

 父がいなくとも、昼人の母は弟妹を抱えてどうにかやっている。夜人の私だって、こうして一人生き抜けているのだ。そう、余計な考えは毒だ。精神を病むだけ。必要最低限でいい。常に煩雑な思考で過ごしていちゃ、どうかしちまう。


 煩わしさをすべて振り払って、私は一人ぼっちで広い女湯をうろつき、洗い場で無言のままに体を清めた。刺激的な温かさに火照りが生まれ、もやもやした思考がすっと流されていった。


 変わりに浮かんでくるのは、静海さんがたった今教えてくれた情報。

 麦色の髪に浅葱色の目。

 なるほど、十六夜町にとってみれば、確かにやたらと目立つ特徴だ。町の外でそのような容姿の者がいるのかは知らないけれど、少なくとも町のなかではそんな住人を見たことがない。大抵は黒髪か明るめの茶髪。いたとして、赤毛くらい。


 なんのことはない。

 見かけたら警戒して関わらずに逃げよう。


 ぼんやりと自分に言い聞かせながら、私は石鹸を泡立てた。

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